021_輪廻転生は珍しくもなく。
記憶が個人の脳みそで完結しているものでないならば、輪廻転生とかも珍しいものではないわけである。
それほど顕著に見られる事例ではないのではないかという意見もあるけれども、どれほどに母集団が大きいか判明していないのではある。
時間と空間を加味すると、それこそ無限大に近い脳みそが存在するわけであり、それに向かって、情報が集約することによって、人格とそれにともなく個人の記憶が再生される、もしくは再生されるように見えることはそれほど、あり得なくはない話ではあるわけで。
無数の世界が存在するという説をとるならば自然にそれはあっても良いものであろうという感覚ではあるわけである。
つまり、どこかに存在しうる何かは、どこかには必ずあるのであるからして、そレがここであることになんら不思議はないというような、言葉遊びのような、断言が可能になるということである。
転生の話であると、情報が何によって伝達されるのかという話につながりを見ることができるわけである、これはもう、伝達されないものがないということが結論から言える。
そもそも伝えていないのである、等く誤って伝わるのであるならば、そこには本来ないはずの情報が勝手に生まれるのである。逆説的にいうならば、須く情報は伝達されるのである。
断絶することが普通であり、真理であるならば、それは前後の脈絡を超えて伝わることにもなるのである。必ず伝わらないということは必ず伝わるということであるのである。
正確にいうならば、伝えようと思ったものが伝わらなく、別に伝えようとも思わないものが伝わるのである、そしてそれは別に恣意的に分別されるものではなく、とある乱数に支配されていると、見ることもできる。
伝わるはずがないは存在しないのである、逆に伝わるはずであるということも同時に存在しないのである、矛盾のように感じるかもしれないが、これは違いに補完しあっている話でもあるのである。
どこかでどうにかしてつながってしまうけれどもそれはどうにもならないものである、という言い方でも良い。
思うようにならない、思うようにもなる、思ったのとは違う、思っても見なかった、これらは実のところ同じことではあり、逆に思い通りになるというものもいるわけである、これはもう立場やら見方やら、見立ての違いにしか過ぎないことなのである。




