1 大橋くん
これからよろしくお願いします。
…ピヨピヨ…ピヨピヨ…
すずめのさえずりで目が覚めた。朝日が湿られたカーテンの隙間から入ってきて部屋の中を明るくしている。もっと寝ていたい。私は朝の光が嫌いだ。今日もまた長くてめんどくさい一日が始まるのだと思うと憂鬱な気分となる。あーあ、ずっと寝ていたいなー…。
「花蓮ー。起きてー。時間ないよー!」
「あーーーい!」
返事をするのもめんどくさい。
花蓮と呼ばれた女の子は近くに置かれている目覚まし時計を顔と目だけを動かして見た。
7時03分 いつもと変わらない時刻だ。花蓮は布団を取っ払って起き上がった。そして花蓮の部屋のある2階からリビングのある1階への階段を降り始めた。
花蓮は地元の公立高校に通っている高校1年生。今は7月。もうとっくに高校生活には慣れたものの、勉強が大変だったり部活が忙しかったりして学校がめんどくさい。一応友達と言える人はいるものの、登下校を共にするような仲の良い人はいない。
花蓮が1階へと降りると朝食が出来上がっていた。白米と卵焼きと味噌汁だった。ごく普通の食事だ。すると母は行ってきますと言って仕事へと行ってしまった。
「いただきます。」
黙々と朝食を食べる。実は花蓮の家は母子家庭なのだ。花蓮が小学校6年生のときに、海外で感染症に罹ってしまい亡くなってしまった。花蓮はお父さんのことが大好きで幼い頃はよく一緒に遊んでいたが、小学校高学年頃からはそういうことは少なくなった。今はあまりその頃のことは覚えていない。
朝食を食べ終えると急いで身支度をして家を出た。いつもより家を出る時刻が遅れていた。急がなければ間に合わない。自転車に飛び乗るとすぐさま自転車を走らせた。
朝のホームルームが始まる5分前に学校に着いた。暑い中一生懸命自転車を漕いできたので汗がびっしょりだ。軽く汗を拭くと教科書やノート、ワーク類をカバンから取り出して机の中に入れた。クラスの中ではいつもクラスで目立っている人たちが騒ぎ立てていた。しかし先生が教室に入ってくると彼らも水を打ったように静かになった。入っていた先生は担任の森永智だ。
「はい。おはようございます。今日の欠席は…。大橋か?」
私の隣の席を見ると大橋くんがいなかった。その子はいつも静かで陰キャに分類されるような存在だ。いつもどうりホームルームが終わると大橋くんが教室に入ってきた。そして誰とも話さずに自分の席までやってきた。
「おはよう。」
と私が話しかけると、大橋は
「おはよう。実は寝坊しちゃって急いできたんだ。」
と答えた。その後は会話は続かずに黙々と自習を行っていた。
1時間目の数学の授業が始まると花蓮はあることに気づいた。
「数学の教科書がない…!」
これは大事だ。私の数学の先生は教科書をたくさん使うので教科書がないと授業にならないのだ。解決策は1つしかない。隣の人に見せてもらうことだ。しかしとても緊張する。これまでに挨拶ぐらいしかしてこなかった人に教科書を見せてもらうなんてそんなことができるのか。花蓮の心臓のドキドキは高まった。
「あ、あの…」
と花蓮は勇気を出して言ってみたものの反応はなかった。聞こえていないようだ。その間に数学の授業はどんどん進んでいく。しょうがない。諦めるしかないか…? と思ったその時。
「花蓮さん、教科書忘れちゃった? 見せてあげるよ。」
と大橋くんにニッコリと微笑みながら言われた。
「あ、あ、ありがとうございます。」
なぜだろう。こういうときって何故か敬語になってしまう。その後は二人で1つの教科書を覗き合っていた。
数学の授業が終わると花蓮は改めて大橋くんにお礼を言った。
「あ、大橋くん! 本当にありがとう。」
「全然いいよ! 気にしないで!」
なんて優しい人なんだろう。こんな人が隣りにいたことを認識していなかった過去の自分に少し腹を立てた。そして大橋くんには自分のできる最大の笑顔を返した。