第35話 願望と責任
「聞こえたぞテメェ!」
【死聖】ノイが直上から迫り来る気配に気付いたのは、もちろんかけられた声が原因ではなかった。
強烈すぎる殺意が自分に向けられたからだ。
上空から飛来した声のあるじは、ノイの直上から急降下し、脳天に足を突き刺そうとする。
だが殺意を感知したノイが飛び退くと、すさまじい破壊音とともに地面には蜘蛛の巣状のヒビが広がり、地面だったものの欠片が四方八方に破壊的な勢いで飛び散る。
都市全体が揺れているのではないかというほどの震動さえ巻き起こす、その『蹴り』を放ったのは━━
「学園長を殺したのはテメェの方かよ、【死聖】」
【拳聖】。
顔の左半分にたくさんのピアスをつけた、目の下に濃いクマのある、メイド服の女性、ラミィだった。
学園都市の裏、人通りのない入り組んだ暗闇の中で、三人の『聖』が巡り合う。
槍を構えて二者に穂先を突きつけるように立つのは、神官服を着た禿頭の老人、【槍聖】ジルベルト。
暗闇の中から左頬に傷のある浅黒い顔を出すのは【死聖】ノイ。
表情のまったく浮かばない顔だちは平時のものであり、唐突な乱入者の存在と、その殺意が自分に向いていることは、彼女にとって表情を変えるに値しない。
二人の『聖』のあいだに降り立ったのはメイド服を着た【拳聖】ラミィ。
剣呑な目つきをし、剣呑な気配を発するこの人物は、【槍聖】に完全に背を向けてはいるが、たとえその槍が背後から己を狙っても、その結果頚椎を貫かれようとも、相手をただではすませないという濃厚な殺意を放っていた。
ぎしぎしと空気が圧力を増していく。
その中にあって、あくまでも軽い調子で口を開いたのは【死聖】だった。
「君が学園長の護衛をやってるっていう【拳聖】かな? でもその怒りは義務感とか職業意識とかからくるものじゃあないよね。個人的にも仲良しだったのかな」
「……ウザ」
「この仕事は殺した相手の近縁者からの恨みをかうまでが料金のうちなんだ。好きなだけ恨めばいい。ぼくは恨まれたぐらいじゃあ殺したりはしない。でも、ぼくを殺そうとするなら、抵抗せざるをえない」
「回りくどいんだよテメェ。つまり何が言いたい? アタシは話が早い方が好きなんだ」
「『死にたくなければ消えろ』っていう意味だよ」
「……上等ォ!」
【拳聖】が【死聖】に殴りかかる。
激しい怒りとねばつくような殺意を放ちながら、その動きはなめらかで、予備動作の一つもなかった。
すべるような歩法で暗闇から顔を出す【死聖】に接近すると、縦拳を突き出しながら同時に足を狙って蹴りを放つ。
足首のスナップを効かせた『軽い』蹴り。しかし【拳聖】の手足は軽く振るっただけでも相手を内側から破壊する必殺の武器だ。
【死聖】は音もなく全身を闇に溶けさせて距離をとろうとする━━
だが、離れようとする【死聖】のローブの襟首を、突き出された縦拳が開いて、つかんだ。
「……君とぼくって、相性が悪そうだね」
「ぶっ殺す」
【死聖】の口から放たれた針が【拳聖】の目を狙う。
だが、【拳聖】は軽く頭を振って針が目に突き刺さるのを防いだ。……その動作は『回避』ではない。頭を振って、額で針を弾いたのだ。
「アタシの間合いで好き放題できると思うな」
「そのようだ」
【死聖】がつかまれたローブをナイフで引きちぎって逃げようとする。
【拳聖】は手の中にローブの切れ端を残したまま、その拳を固めて殴りかかる。
逃げる【死聖】と、それにくらいつき続ける【拳聖】。
二人の『聖』の絡み合うような勝負が始まった時……
【槍聖】は、その姿を消していた。
◆
「レオン君、無事かな」
「先生!」
ナギがそこにたどり着いた時、近くからは派手な炸裂音が響いていた。
『とりあえず魔王のもとに行きませんか?』と誘ってここまでついてきてくれた(というか運んできてくれた)ラミィが、何かを聞きつけて降りた場所からだ。
つまり戦闘音であり、その音がさっきから断続的に響き続けているということは、ラミィの殴っている相手は【拳聖】と『戦い』になっているということになる。
ようするに、『聖』かそれに準じる能力の持ち主がそこにいるということだ。
「その子は……」
「早く【女神】に連絡してくれ!」
大柄な少年の腕の中には、血まみれの真っ白い少女がいた。
彼女はぐったりと少年に身をあずけたまま目を閉じており、なんのスキルも起動していないナギから見てもその命が風前の灯であることがわかった。
ナギは【上級神官】を起動。すぐさま治療に入る。
手をかざして癒しの力を送り込む。
ナギの手のひらに緑がかった光が灯り、それが少女の身を照らすと……
「う、すごいな。乾いたスポンジに水って感じだ」
ものすごい勢いで『力』が吸い取られていく。
しかし、そのかいあって傷は癒やされ、少女の生命力みたいなものが持ち直すのを感じた。
あいにくと今のナギは夜目が利かないので、少女の表情はよく見えない。けれど癒しの光がほのかに照らす少女の全身には、ほんのわずかにだが力が戻っている様子がたしかにあった。
「アンタ神官だったのか……すまねェ、先生……」
レオンがうつむきながら謝罪する。
ナギはちょっと考えて、
「君たちの価値観ではどうかわからないけど、僕の認識では『先生は生徒を助けるもの』なんだ。だからお礼の言葉は……まあでも助けられたらお礼は言うべきだね。どういたしまして」
「あんたマジでとぼけたヤツだな……いや、本当に感謝はしてる。……それから、悪い、巻き込んだ。この子は【槍聖】に狙われてるんだ」
「……ああ、なるほど」
「予想してたのか?」
「いや、今のはその『なるほど』じゃなくって、確かに『事件に聖がかかわっている』っていう情報は、慌てた感じで真っ先に言ってほしいなと思って……」
ハイドラがキレていた理由がよくわかった。
まあ、予想はしていたので行動方針に変化はないのだけれど。
レオンは「すまねェ。あと」と言って、
「今は【死聖】が【槍聖】を止めてくれてる」
「お金払ったの?」
「いや、金はいらないって言われた。……とにかく……ここからどうすりゃいいんだか、わからねェんだ」
「じゃあ、ゴール地点を整理しようか。……最初に会った時も聞いた質問になるけど、君は、その子をどうしたい? はっきり言おうか。もはや学園で保護してもらうというのは、『確実に安全を保証』はしない。少なくとも理事会に保護されたはずのその子は、こうしてケガしてここにいるし、そもそも学園が彼女を留め置く理由も不明だ。『いつか処刑するため』と言われてもおどろかない存在だと判明しているしね」
「……」
「残酷な選択を突きつけるようだけれど、『君が守る』か『見捨てる』かしかない。少なくとも、戦いなしでその子の身の安全は保証されないだろう」
「……先生はどういう方針なんだ?」
「それは君の方針次第かな。君が守るなら、僕も手伝う。君が見捨てるなら、僕も見捨てる」
「別にこの子の味方ってわけでもねェのか」
「そりゃあ、だって、その子はよく知らない他人だし。よく知らない他人のために身を投げ出してたら体がいくつあっても足りないだろう?」
「いやエリカを助けたんじゃねぇのかよ。出会ったその日に結婚したってアリエスから聞いたぞ」
「エリカさんは会話をしてくれたから」
「……それが基準なのか」
「会話しちゃうと情が湧くよね。それに……」
「?」
「僕は人助けをしたいとは思っている。その子を助けるのが、結果的に『人助け』になるとは思えない。情報通りその子が『魔王』ならね」
「……」
「逆に、君はなぜ、その子を見捨てないの? 教えておくれよ。君のゴールはどこにあるのか」
……岐路に立たされているのだと、レオンは感じた。
この問いかけへの答え次第で何もかもが変わる。ここがおそらく、最後の分岐点なのだと、そう思える。
少女を見捨てるのか、それとも守るのか。
会話しちゃうと情が湧くとナギは言った。その通りだと思う。たとえばエリカやアリエスなど、あいつらはまあ抱えた事情とか趣味趣向とかがヤバいやつらで、なるべくならかかわりたくないし、友人かと問われれば別な関係性を表す言葉を探すような、そういう手合いだ。
けれど、まったく知らない人と、エリカやアリエスとが同時に同じぐらい困っていれば、レオンはさして迷うこともなく二人を助けに行くだろう。……できれば全部救いたいが、それができないとわかっている自分は、きっとそうするはずだと思う。
では、この少女は?
会話はあった。ほんの少しだけ。
事情も知らない。正体も知らない。本当に悪いやつで、か弱いふりをしているだけなのかもしれない。
彼女を殺そうとしていたのは『聖』を冠するスキルの持ち主だ。カリバーン王国のランサー公爵。もちろん名前だけは知っていた。社会的にも信用度がある。
どう考えたところで、理性も思考も『見捨てるべきだ』という結論をくだすのだ。
「……先生、俺ァさ、なんつうか……こう見えて、ビビリでヘタレなんだよ」
「そうだね」
「……いやあんたが俺の何を知ってんだよ」
「エリカさんとアリエスさんからの評価」
「……そうだったな。とにかくさァ……困るんだよ。わけのわからねェ大事件に巻き込まれてもさ。俺なんかを頼って来たこいつの気が知れねェんだ。いやまあ、他に頼る相手を思いつかなかっただけなのかもしれねぇが。それでも、俺なんかのところに来られたって……困るんだ。俺には力が……勇気がねェから。責任とりたくねェんだよ。痛いのも苦しいのもイヤなんだよ。俺はぬくぬくと、平穏に、優しくされて生きていきてェだけなんだ。わかるかな。クソ情けないこと言ってっけどさ」
「気持ちはわかるよ」
「だっていうのに、こんなにも見捨てらんねェんだ」
心の強さは生まれつきの資質だとレオンは思っている。
そうして自分にはその資質がなかった。
スキルがすべての世の中?
冗談じゃない。本当にスキルがすべてだというのなら、なぜ自分には勇気が備わっていないというのか?
先天スキルは呪いだ。
『こう生きろ』と人生を縛り付ける。
潜在スキルは上限だ。
『ここまでしかできない』と限界をわからせる。
「俺には責任がとれねェんだよ……! 見捨てたくねェ。目の前で苦しんでるやつがいると、どうしたって気になって気になってたまらなくなる。でも、責任がとれねェんだ! そんな力が俺にはないんだ。だから……わがままは言うべきじゃねェんだよな。目につくすべてを救えるほど、俺には力がないんだから。俺は身の丈に合わない罪悪感を抱えながら生きていくべきだと、そう思う」
「つまり?」
「……この子を、【槍聖】に引き渡す。それが俺のゴールだ。……また、中途半端にかかわって、先生まで巻き込んで……そのくせ、この幕切れなんだよ。謝っても謝っても足りねェよな……」
「そうか。君がそう言うなら、僕は君の決断を尊重しよう。それに、ほら、ちょうどいいタイミングだ」
━━からん、ころん。
暗闇の奥から足音が近付いて来る。
その木の靴で舗装された地面をこするような音に、レオンは反射的に少女をきつく抱きしめた。
暗闇の奥から、輝きをまとった十文字槍が見える。
その輝きに照らされて、神官服の袖を『たすき』で固定した、見事な体躯の老人が、シワまみれのいかめしい顔の中、青い瞳を厳しく細めてレオンの方を見ているのがわかった。
「決断したか、小僧。ずいぶんと迷ったものだな」
【槍聖】ジルベルト・ランサーはそうして暗がりから二人の前に姿を現す。
彼の姿が見えた時点で、あたりはすでに必殺の間合いの内側だった。【槍聖】の間合いの中にいる【闘士】と【スカ】にはもう、ここから、この老人に逆らう術はない。この状況で彼に逆らうこと、それは『死』を意味する。
「さあ、そいつを置いて立ち去れ」
「……殺すんだよな」
「そうさな。しかし、何が起こるかわからん。巻き込まれぬように遠くに避難しておけ。なるべく遠くに……可能であれば、学園都市の外まで。もはやこの都市に王の庇護はない」
「……」
「どうした小僧。決断したなら、立ち去れ」
「……けどよ」
「立ち去らぬならば死ね」
十歩以上あった間合いが一瞬で潰された。
わざとらしい足音などない。……『からん、ころん』。それは紛れもなく警告だったのだ。わざとらしく鳴らされる警告。『【槍聖】が行くぞ』と知らせる、無力なる者を巻き込まぬための音。
【槍聖】はもはや充分に待った。
それでもなお、小僧は『魔王』を引き渡さない。
ならば『使徒』と━━魔王を戴く魔王信仰者とみなすしかない。それは平時であれば戯言を述べる狂人の群れにしかすぎないが、実際に魔王がそこにいる状況では『殺すべき敵』となる。
この段階にいたって魔王を見捨てない者を巻き込まないでやるほど、【槍聖】は甘くない。
だから輝ける十文字槍の穂先はレオンの頭蓋へと迫っていた。
あいだに入ってそれを止める者がいなかったなら、レオンの頭部には刃のかたちに穴が空いていたことだろう。
「……わしの槍を止める貴様、何者だ?」
ジルベルトは問いかける。
抜き放った剣で【槍聖】の槍を止めたナギは、応じる。
「初めまして。カリバーン王国三大公爵家が一角、『槍』のランサー家当主、【槍聖】ジルベルト・ランサー閣下とお見受けします。学園都市の教師のナギと申します。以降、お見知り置きを」
「……」
「さらに言えば、僕はソーディアン家のレッドハウンド、エリカさんの夫でもあります。学園都市にいるあいだだけかもしれませんが」
「……あの娘はわしにとっても孫のようなものだ。やつを助けた貴様を手にかけたくはない」
「ところが僕は、学園長より『少女を誰にも引き渡さないように』と指示を受けております。どうか、僕の査定のために退いてはいただけないでしょうか」
「トリスメギトスの王はもういない」
「指示を出した王が崩御されれば、あなたは王命を遂行しないと?」
「……先ほどまで、『魔王』を引き渡す方針で話をしていたようだが?」
「そうですね。ところが話の通りにはいかなかった。レオン君はあなたに少女を引き渡すのを嫌がった。死した王の命令と生徒の意思が違えば、僕は目の前の生徒の意思を尊重します。しかし、この二つがそろってしまったら……」
「……」
「命を懸けても守り抜こうと思っています」
ナギの手にした剣が輝きを増していく。
……いや、そもそも。
ジルベルトは気付く。
そもそも、この男は━━剣など帯びていたか?
「……魔法剣か」
ナギの手にあった剣は、暗闇の中で闇より暗く、月明かりのない路地裏で【槍聖】の槍よりもまばゆく、真っ黒に輝く。
……雲を揺るがす風はなく、月明かりは未だ地を照らさない。
暗闇の中で【槍聖】と【魔法剣士】の武器だけが輝きを増していく。
風が、音が、人が、呼吸が、動きが、心音さえもが、一時、凪いだ。
その静けさのすぐあと━━
魔法剣と槍が互いに弾き飛ばされるように遠ざかり、激しく相手に向かって薙ぎ払われた。




