8 金欠と戦闘狂
「……とりあえず、離れてくれませんか」
必死に抵抗しても、ピクリとも動かない。俺の肩の辺りまでしかない小さな体のどこに、こんな力があるのだろうか。
おそらく少女は、魔物を多く殺してきた、高い実力を持つ冒険者。
人は魔物を倒すことで、身体能力が上がり、スキルやアーツを獲得する。
D級以上の冒険者は、すでに人間を超えた化け物と言っていい。
硬い木の幹を生身の脚で容易に蹴り壊し、傷一つつかないような、異常な肉体。並みの人間では視認できないほどの圧倒的スピードに無尽蔵な体力と魔力。
この少女も明らかに格上の存在だ。
「ん。分かった」
ルゥナはあっさりと手を放す。俺は警戒を解かずに、後退って距離を取った。
今更だが、敵意は感じない。
しかし、なぜか本能が警鐘を鳴らし続けていた。
少女は肩口で切りそろえられた紫色の髪を、黒いリボンで一つに結んでいる。前髪は左から右へと流しており、右目が隠れていた。
肌は白く、顔立ちは幼さを残しつつも整っていて、一見すると可愛らしい子供だが、纏う雰囲気は異質。
白と黒のフリルがあしらわれたドレスのような服装と、黒いタイツに包まれる細い脚はとても冒険者には見えない。
俺の探るような視線を受けても、嫌な顔せず無表情のままだったルゥナがゆっくりと口を開いた。
「場所、変えない……?」
◇
ギルドに併設された酒場。カウンター席に並んで座る。
俺は右隣のルゥナを横目で見た。機嫌がいいのか、足を交互にぶらつかせて、リズムよく椅子を揺らしている。
白くて小さな両手で包み込むようにグラスを持ちながら、オレンジジュースを口に運んでいる姿からは、とても危険な存在には見えなかった。
……なんだか、気が抜けるヤツだな。警戒しているのが馬鹿馬鹿しくなる。
こうしていると、普通の女の子だ。
警戒を解き始めたその時、スカートの裾がヒラリと揺れて、黒いタイツに覆われた太ももが一瞬だけ露わになった。
太ももには小さなベルトが巻かれており、そこには鞘に収まった小振りの短剣が仕込まれている。
盗賊か。可愛くても、普通の女の子に見えても……この子も冒険者なんだなぁ。
頰が引き攣りそうになるのを抑えつつ、なんとか平静を保つ。
ルゥナはそんな俺の気持ちなど知るよしもなく、「おいしい」と小さな声で呟いた。
「少年、名前は?」
気づけば、ルゥナは俺の方を向いており、可愛らしく金色の瞳をパチクリとさせながら、見上げている。
……って、気づけば? ずっとルゥナに意識を向けていたはずなんだけど。
「リエル、です」
「そうなんだ。少年って呼ぶね」
調子が狂う。
「私のことは、ルゥナでいい。敬語じゃなくていい。少年は私と同じだから」
そう言って、ルゥナはまたオレンジジュースを飲み始める。
「どういうことだ」
「そのままの意味。昨日、ギルドで見かけて、同じだと知った」
昨日、ギルドで……。
つまり、目の前の少女も、
「まさか、ルゥナも――足りてないのか?」
お金を、とは言わなかった。情けないことに、俺の目の前のテーブルには何も置かれていない。
「うん」
ルゥナは恥ずかしそうに微笑み、コクリと小さく首を縦に振った。
「そうなのか。俺も生活に困るくらい足りていないんだ」
思わず、声が弾む。さっきまでの警戒心はすっかり消えて無くなっていた。
「生活に困るくらい、か。私も最近は抑えきれなかった」
ルゥナは頰をわずかに上気させ、興奮したように、ずいっと体を寄せてくる。
ルゥナは凄腕の冒険者に見える。当然、お金もたくさん稼いでいるのだろう。だが、最近は出費を抑えきれなかったようだ。
高い階級の冒険者になると、装備などに多くのお金がかかるのだろう。
「抑えきれないから、隣街のダンジョンにソロで潜るところだった」
「それは、相当だな」
ダンジョンには魔物だけではなく、強力な罠がたくさんある。ボスと呼ばれる特に強い魔物もいるため、パーティー単位で挑むことが普通だ。
それに薄暗く、怪我をした時にすぐに助けを呼べないので、一人で潜れば死の危険が大きく高まる。
その分、ダンジョンでは効率よく稼ぐことができるが。
なので、ソロで潜るような冒険者は、よほどお金に困っているか、命を賭けて、強くなることに喜びを感じる戦闘狂くらいだろう。
「そう、だよね……。私はちょっと、おかしいのかな……」
ルゥナは眉尻を下げて、少し寂しげに目を伏せた。表情に影が差す。
「いや、おかしくはない。俺も気持ちは分かる。まぁ、確かに無謀だと思うけどな」
危険なほどお金を稼げる。ソロであれば、独占できる。
ルゥナが俯きがちだった顔を持ち上げた。目には涙が浮かんでいる。
「俺も昨日からずっと、ソワソワして落ち着かないんだ。だから、まだF級なのにソロでシルバーウルフ討伐依頼を受けようと思ってしまった」
そう、銅貨三枚しか持っていないんだ。さっさと宿代くらい稼がないと、不安で不安で。
「ソワソワ。昨日から?」
「ああ」
あの日に俺は色々と失った。今、現在もワンピースを着せられている。本当に色々失った……。
「あの初めての感覚、忘れられない。少年は分かる……?」
初めての感覚。先行きが見えない絶望感だろうか。
「分かる。自分が自分で無くなったような、フワフワした感覚だった」
現実だと信じたくないような、あの感じ。どこか夢の中のようだった。
「……自分が自分で無くなった感じ。そうなんだ。同じ、だね?」
ルゥナは花が咲くようにわずかに顔を綻ばせる。無表情であまり変化がなくても、感情が読み取れるようになってきた。
「そうだな。俺もルゥナも同じだ。でも、失いたくはなかった」
「私も。でも、もう戻れない。失ったあの瞬間には」
「少年」
耳元で囁くような甘い声音。熱い吐息が耳にかかってこそばゆい。
右隣に座っていたはずのルゥナを見る。いつの間にか席を立っており、屈んでいるため、顔がすぐ近くにあった。
内緒話をするように小さな声で続ける。
「一緒にパーティーを組もう。そして」
顔がゆっくりと遠ざかる。
前髪が揺れ、隠れていた右目が見え隠れする。金色の瞳を優しげに細められ、口角がほんのりと上がる。
右手が差し出された。
「――全てを倒そう。自分のために」
それはまるで、悪魔との契約のようでもあった。
「全てを倒す、か」
ルゥナの口から紡ぎ出される言葉に、思わず笑みがこぼれそうになる。
全てを倒そうって、いっぱい稼ごうね、ってことか。
金欠を気にしている俺のために、そこまで……。
迷いなく、ルゥナの手を握る。女の子らしい柔らかい手だった。
「ああ。よろしく頼む」
ルゥナは嬉しそうに微笑んだ。