57話「中華圏新暦史・第四章『蒙帝国』」
北京において後清が建国されてから約4年後の新暦17年末、中華圏の西方の都市、乌鲁木齐においてもう1つの帝国、蒙が建国された。
建国者、つまり初代皇帝のファーストネームは分かっていない。
彼は帝国の建国者という立場で有りながら、自身の名が後世に残ることを嫌った。
彼の名が記された書物は死の直前に全て焼却させ、彼の名を知る者には「口外したら末代まで呪う」と脅しをかけたという。その名前の隠しようは徹底しており、法律への署名など国政に必要不可欠なものであっても、「大蒙帝国皇帝 薬羅葛氏」と書くにとどまっている。
彼の名を知る者は呪いへの恐怖からか、皇帝への尊敬からかついに彼の名を口外する事はなかった。そして新暦74年、彼の名を知るとされた最後の者、阿跌高昌の死去により、彼の名は歴史の闇へと帰した。
彼は蒙建国時点で60歳を越えていたが、それでも彼の治世は36年に及んだ。新暦54年2月に彼は崩御、崩御したときの情景から「雪帝」、彼の姓と民族の伝統的な君主の称号から「薬羅葛可汗」と呼ばれる。
初代・高祖は二代皇帝に皇太孫・哈剌を指名していた。哈剌は即位時にはまだ25歳、何事にも意欲的な皇帝であったとされる。
彼は玉座に就くとすぐ楊鳳和を行政府長官に任命し、自身の補佐を任せた。
彼が熱心に取り組んだのは食料問題である。
蒙の建国された中華圏北西部は農作物の栽培にあまり適さない。そのため、毎年冬になると食料難と言うほどではないが、食料が不足しがちであった。
そのような状況から脱却するため、彼はどんな土地でも栽培可能なじゃがいもの栽培を奨励し、帝都・乌鲁木齐においても多くの土地を農地に費やした。近年の研究で、彼はこの食料増産によって人口増を狙ったのではないかと言う説もある。
実際、この食料増産政策実施前後では人口が1.5倍に増えたが、それが彼の意図した所かどうかは未だ疑問符の着く事だ。
また彼は非常に多趣味な皇帝としてもしられる。
春には花を愛で、夏には川に行き、秋には狩猟をして、冬には雪を楽しんだ。そのため、彼の治世には彼の保護の下多くの文化が花開き、異文化圏の文化の取り入れや、失われた文化の復興が押し進められて行った。人呼んで「東洋のルネサンス」、彼の治世とはそう言った時代だった。
哈剌帝の治世は63年、新暦史上最長の記録を誇る。
哈剌帝は自身の後継者に息子、増新を指名していたが、哈剌帝崩御の時点で彼は62歳であり、自身の高齢を理由に即位を拒否。結果彼の息子、即ち哈剌帝皇太孫にして今上帝・裴羅が玉座に就いた、即位時19歳。
彼は父が皇帝になるとばかり思っていた上に父が崩御した後に帝位を継ぐのは長男の自分ではなく弟達だと思っていたために自身の皇帝即位を聞かされると激しく動揺したという。
それでも即位後は皇帝としての職務に勤しみ、祖父・哈剌帝の進めた食料増産を国家の最も重要な事とした。
蒙帝国は総じて、武力による争いがほぼない事が特徴の一つとされている。
理由はいくつかあるが、食料や物資に乏しく、対外戦争を起こすような余裕が無いこと、そして建国者・薬羅葛氏が戦争を嫌い、戦争を起こしてはならぬと子々孫々まで訓告したことが大きな理由だろう。
結果として蒙国民は、大きな戦いに巻き込まれることもなく大いなる平和を謳歌している。




