56話「中華圏新暦史・第三章『北武周』」
新暦史上、北武周に初代皇帝は存在しない。
無論初代が居なければ二代、三代以降も存在しないし北武周という国自体が存在しないことになる。筆者が「新暦史上」と限定したのはそのためである。
新暦29年、武嘉睿が西安で即位、国号を「周」とした。しかし、嘉睿は北武周の開祖でありながら、自らを「武周二代皇帝」と名乗った。
では彼の言う「武周初代皇帝」とは誰なのか?
それは145年現在から1475年前、彼の即位した新暦29年から遡っても1359年前、西暦690年に当時の王朝唐の三代皇帝高宗の皇后でありながら、子の中宗、睿宗を廃し自らが皇帝に即位した現時点で中華史上唯一の女帝、聖神皇帝・武則天その人である。
彼女の子孫である彼は武則天を単純に尊敬し、武周朝初代皇帝として崇めた。
彼の時点では北武周は特に他国と対立するということもなく、ただただ内部の発展を急いだ。
新暦63年に即位した三代皇帝、浩然は何かと仁二代皇帝・陳義之と共通点が多い。
その一つが前期中華王朝の歴史を彩った数多くの英雄たちへの憧れである。
彼の英雄への熱は冷めることを知らず、遂には都を西安から前期中華王朝においてしばしば歴史的に重要な事が発生し、武周朝の開祖・武則天が都を置いた地、洛阳へと遷都、赤壁台を建設した。
彼の治世は苦難と発展が同時に訪れた時代でもあった。
彼が即位してから1年足らずの新暦64年、仁三代皇帝廃宗が突如として国境を越え、周口やあろうことか当時の首都・西安をも占領されてしまう。
幸いにも浩然たちは西安を脱出したが、西安に入った仁軍は略奪や虐殺などの悪逆の限りを尽くした。
その知らせを聞いた浩然は激怒し、兵部大臣を呼び出し、全兵力をもって周国内の仁軍を駆逐し、仁領内へと逆侵略せよと命令した。その際「基地に戦闘艦が一隻でも残っていたら兵部大臣を更迭する」とまで言ったとされる。
結果、仁の遠征軍は200隻余りで北武周軍の全艦隊、即ち800隻近くと戦うことになり、当時の記録には「あれは戦闘ではなく、一方的な破壊であった」とまで書かれている。仁遠征軍はほぼ全滅し、北武周軍800隻余りが雪崩を打って仁領内へと流れ込み驻马店などの都市を占領、その後結ばれた条約により北武周はこれらの都市の返還の見返りに国家予算約3年分という莫大な賠償金を得ることになる。
新暦97年に即位した四代霊宗は幼少の頃から病弱であり、病気の発症と回復を繰り返していた。
皇帝に即位してからそれに拍車がかかり、新暦99年6月、彼は僅か2年と半年の治世と自らの人生に幕を下ろした。
彼について疑問が浮かぶとするのならばそれは「何故彼のように病弱な者が皇帝になったのか?」という事であろう。
それは北武周の皇位継承法に由来する。
北武周では開祖・武則天が女帝であったことなどから、性別や知性などに関わらず絶対に生まれたのが早い順に皇位継承順位が与えられる、「絶対長子相続制」を適用している。そのために彼のように病弱な皇帝が誕生したのだ。
四代霊宗には子どもが居なかったため、皇位は霊宗の弟、炎帝に受け継がれた。
彼は対仁強硬路線を政策の主軸に据え、後清との連携を強化した。その一つが北京への大使館設置だ。
今までも「対仁清周共同条規」などで交流は続いていたが、この大使館設置により、ようやく正式に国交が開かれた事になる。
炎帝は仁周国境に常に一個艦隊を配備し、さらに国境付近の二つの基地にそれぞれ一個ずつ艦隊を配備した。
更に国境付近に対艦攻撃機能を持つトーチカ群を建設し、仁軍の再びの周領内への侵入を防ごうとした。
今上帝・睿泽が即位したのは20年前、125年のことである。
彼は即位してから早々に内政面を大きく変えた。126年に憲法を発布、128年には国会の開設と第1回総選挙を行い、北武周は立憲君主国家となった、勿論彼は国会を解散させる権利も、国会が選出した総理大臣や閣僚の任命を拒否する権利も有しているが、今のところそれが行使された事はない。
国民に多くの権利と安定した生活を与えたことから、今上帝への敬慕の念は厚い。それ故か、北武周軍の質は年々上がってきているとされている。
この質の上昇が今後どういった効果をもたらすか、それは誰にもわからない。




