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残響 廻る糸車編  作者: 馬鈴薯
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54話「中華圏新暦史・第一章『仁帝国』」

中華圏における新暦史の始まりは、新暦12年前後であるとされる。

西暦は2020年で時を刻むことを止め、大陥没後の情勢の混乱により中華圏を支配していた大国は崩壊、新暦12年前後まで中華圏は無政府状態が続いていた。

そんな中、145年現在中華圏に存在する4つの帝国、1つの王国の内、最も古い国、仁帝国が新暦12年前後に建国された。


仁の初代皇帝、陳皓然(ハオラン)は仁建国時点で57歳。

元々軍人で、大国の崩壊に伴う軍の解散後は義勇兵を率いて治安維持に努めていた。

そのため民衆からの支持も厚く、彼は皇帝になるつもりは無かったが、民衆からの支持、そして息子の後押しによって新暦12年、もしくは13年のいずれかに皇帝に即位、国号を仁とした。


仁二代皇帝、陳義之(シージ)の時代は領土拡大の時代であった。

太祖・陳皓然が新暦26年に崩御してから、後を継ぎ即位した息子、義之は首都重庆(チョンチン)を中心に成都(チェンドゥ)长沙(チャンサー)と言った都市に次々と攻め入り、そして領地とした、今日の仁の領地の殆どは彼が手に入れたものである。彼はかつての中華帝国が存在した時代の英雄たちに憧れ、それが領土拡大へと彼を突き動かしたとされる。

新暦32年、義之は現在の黄瓦城の建設を指示した。

この他に彼は「恢复中华帝国的辉煌(中華帝国の栄光復古)」をスローガンに中華圏の統一を目指したが、後述の後清の存在によりそれは遂に果たされることは無かった。


黄瓦城の完成を見たのは三代皇帝、廃宗であった。

彼は新暦57年の黄瓦城完成に伴って後宮を復活させ、100人とも200人とも言われる美女をそこに囲った。

政治は寵愛を受けた妃たちの親戚が取り仕切り、宮廷内は腐敗が進んでいった。

また、陽皇后の言葉に従い、レストニア教を仁の国教としたのも彼である。

新暦64年、彼は突如として北に位置する北武周の都市、周口(ヂョウコウ)西安(シーアン)への侵攻を指示、一時的に両都市を占領したが、すぐに北武周軍の反撃に遭い周口、西安からの撤退だけでなく驻马店(ヂューマーディン)南阳(ナンヤン)十堰(シーイェン)などの都市を逆に占拠されてしまった。

占拠された都市は莫大な賠償金と引き換えに仁に戻ってきたが、数度に渡る遠征とこの賠償金によって仁の国庫はほぼ空になり、財政は一気に赤字へと叩き落とされた。

彼は如何にその赤字を補填しようとしたか?

それは有りがちな話で民への課税である。

元々この戦役中、幾度かに渡り課税は行われており、さらにそこに追加された税によって、民衆は明日の生活すらままならない状態に陥った。


それを良しとしなかったのが四代皇帝、明朗帝である。

彼は二代皇帝・義之の第二皇子、つまり廃宗の弟で成都王に封ぜられていた。

彼は民衆の困窮している様子を見て税の徴収を拒否、新暦66年、首都重庆へと攻め込み、黄瓦城の廃宗を捕らえ、彼に退位宣言書に署名させた。

廃宗は退位後黄瓦城の片隅に幽閉され、新暦75年に死去、陽皇后は諸悪の根源として自殺を強いられ、彼女の親戚は一族郎党処刑された。

廃宗が後宮に囲った妃嬪達はことごとく追放され、重要な官職に就いていた彼女らの親戚も処刑、左遷、公職追放、降格の何れかを受けた。

明朗帝は、彼らの追放によって穴が空いた官職を埋めるため、優秀な人材を身分、性別に関わらず次々と登用した。

最も有名な例を挙げるとするならば下級官吏から女宰相にまで上り詰めた(ウェイ)瓔珞(インルオ)であろう。

彼女はその在任期間中に税を10分の1にまで減らし、その上で経済の復興を待ち、戦役前と同じ税率に戻した。これにより仁の経済は安定し、国庫にも余裕が生まれた。 

その余裕を使い彼女が行ったのは福祉政策である。

戦役により首都重庆には孤児が溢れていた、彼等を救済するための孤児院の建設などを行ったのだ。

これらの功績から彼女は現在も親しみを込めて「魏阿姨(おばさん)」と呼ばれている。


新暦102年から始まった嘉利帝の時代は前進も後退もない、いわば停滞の時代であった。

官吏登用の面では父・明朗帝のやり方を引き継ぎ、政策面は登用した官吏に任せきり、政策において彼のすべきことと言ったら毎日行政府や六部から上げられてくる上奏書類を裁可することぐらいであった。

しかし、一度だけ例外があった。

嘉利帝の時代も後清や北武周との戦争は継続して行われ、国庫を圧迫していた。さらに、魏瓔珞の始めた福祉政策の適応対象者もかなりの数になり、彼等を養うだけで一苦労となっていた。

そこで行政府は福祉政策への予算を一部カットし、福祉政策の一部を廃止する事に対しての皇帝の裁可を求めてきた。

しかし、彼はたっぷり5分程その書類を眺めた後、無言で庭に出て、その書類を魔術で焼き捨ててしまったという。その後、何事もなかったかのように執務机に戻り、執務を続けたが、その場にいた人々は呆気に取られしばらく指の1本も動かせなかったと言う。


その嘉利帝も10年前、135年6月9日に崩御、時代は今上帝、陳江民の時代となった。

後清との戦争は未だ続き、そして終わりは見えていない。

13歳で即位した今上帝が、今後どのような政策を取っていくのか、それが現在かなり注目されている事象である。

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