9. 留守番
自宅のドアを開けて庭へ出た途端、朝の鋭い光が飛び込んできて思わず目を細める。
森の中の少し開けた野原に、晴れの多いこの国らしい爽やかな風が吹き抜け、ヤクの短い髪を揺らしていく。
鳥たちがその風に乗ろうとしたのか、思い思いに飛び立つ。
森の木々に目をやれば、夜露に濡れた葉が朝陽に照らされてきらきらと輝いている。
ヤクの自宅は台所等を除けば、他は寝室にリビングと作業用の部屋だけだ。それほど大きな家ではないが、ヤクがひとりで暮らすには十分な家。
たっぷりと水をたたえた井戸もあるし、少し歩いたところに川も流れているので、水に困ることは無い。薬を調合する時に綺麗な水は絶対に必要となるので、水が豊富に使えることは家を探すときの第一条件だった。
ここは前住人も薬師だったので、庭の畑はとても丁寧に管理されていた。おかげで良い土壌が出来上がっていて、植えたものはなんでもよく育つ。
ヤクも、大事に丁寧に畑を手入れしている。
もしもヤクがこの家を手放すことがあれば、この畑を大事にしてくれる薬師の誰かに譲りたいと思っている。
気温が上がらないうちにと畑に水をやっているところへ、ジンがやって来た。
「おはよう、ジン」
「おはよう、ヤク」
「シショーたちは、無事に出発した?」
「ああ、昨夜のうちに」
実は今回、ジンの師匠とツツミが一日留守にすることになった。
どこかへ討伐に向かったらしいが、珍しいことにジンは留守番だ。詳しいことは知らないが、今回の討伐対象とは相性が悪いのだとか。そういうこともあるのだろう。
師匠たちの見送りをしたかったところだが、出発が深夜だというので遠慮した。昨日の夕方のうちに、行ってらっしゃいの挨拶は済ませてある。
「畑に水をやっていたんだな」
畑を見ていたジンの視線が、ある一点で止まった。
「あ、それは最近新しく植えたヒワダ豆。ソウジさんのおすすめ」
「鳴いているが……」
「夜は静かになるから大丈夫」
先日やって来た時、ソウジはいろいろとおすすめの植物を教えてくれた。いくつかは種も分けてくれたので、早速植えてみたのだ。
ヒワダ豆は食用にもでき、煎ると美味しい。
その隣のブート草もソウジにもらった薬草だが、根が幻覚剤の材料になるものなのでジンには黙っておこう。
畑での早朝作業を終えて朝食を取った後は、昨日摘んできた素材の仕分けをすることにした。
乾燥させるもの、そのまま煎じるもの、すり潰すもの。葉と枝の部分を分けるもの。
素材や用途ごとにさくさく仕分けていく。
ヤクが作業場に座り込んで素材の選別をしていると、庭での素振りを終えたらしいジンが戻って来た。
部屋に入ってきたジンはヤクの後ろに腰をおろすと、そのまま抱きついてきた。
「ん?どうしたの?」
「いや、ちょっと休憩だ」
何かあったかと聞いてみたが、特にないようだ。そっと遠慮がちなのは、作業の邪魔にならないようにだろうか。
「お茶でも飲む?」
「ん、今はいいかな……」
ジンは額をヤクの肩に乗せて、満足そうに息を吐く。
少しくすぐったいが作業に支障はないし、温かくて良いのでそのまま好きにさせた。
なんだか懐いてきた動物のようで頭を撫でてやりたいが、作業中の手で触れるのはさすがに憚られるのでやめておいた。
素材の仕分けがひと段落したところで、お茶でも飲もうとヤクは立ち上がった。
窓から外を見ると、ジンは再び庭に出て身体を動かしているようだ。
天気もいいし、せっかくなので外で飲むことにしよう。
「ジン、休憩しない?」
「ああ、ありがとう」
庭の台の上にティータイムセットを用意して、ジンに声をかけた。
薬師の作業は外でするものもあるのだが、この家は元から庭に台が設置してあった。先住人が同業者だと、こういうところが便利だとヤクは思う。
この台はヤクが外でくつろぐ時にも活躍している。座った時の視線の先が、木々の合間から見えるきらきらした川であることを考えると、きっと先住人もここでくつろいでいたのだろう。
「作業は終わったのか?」
「うん、だいたい。仕分けだけだから、そんなに大変じゃないの」
「そうか。午後は何か予定があるのか?」
「ジンさえ良ければ、森に入ってメルロの木に行きたいな。実が欲しくて」
「分かった」
昼食を済ませてから、森の中にあるメルロの大木へ向かった。
そこには見上げるほど上に、青紫色の実がたくさん生っている。
この実には、美肌効果があるのだ。絞って他にもいくつか材料を足して精製すると、美容薬になる。たくさんできるのでそれほど高価でもなく、女性に人気の売れ筋商品だ。
ちなみに、そのまま食べても甘酸っぱくて美味しい。
ヤクには絶対に上れないだろう木をジンはひょいひょい上って、拳大ほどの実を籠いっぱいに取ってくれた。
「ジンすごい!ありがとう!」
「これくらいなら、いつでも頼ってくれ」
休憩がてら、木の根元に座って実を一緒に食べた。
手でむけるくらいではあるが、皮が厚いので少し力が要る。だがその厚い皮をむけば、中にはたくさんの瑞々しい房が詰っているのだ。
ぐっと力を込めて皮をむこうとしたヤクに、すいっと横から美味しそうな房が差し出された。
おやっとそちらを向くと、ジンが楽しそうに房を持ってこちらを見ている。
くれるらしいので、手を伸ばして受け取ろうとすると、なぜか房が逃げる。
「………………」
意地悪だろうかとジンに視線を向けると、首を振られ、房が口元までやって来た。
もしやこういうことかなと口を開いてみると、案の定、口に房が押し込まれた。
「美味しいか?」
どうやら手ずから食べさせたい気分だったらしい。
もぐもぐと咀嚼すると、よく熟した甘さとわずかな酸味が口に広がり、ヤクは自然と笑顔になる。
それを見たジンは自分の口にも放り込み、再び房を持って構えている。
けっきょく、ヤクはひとつも自分ではむかせてもらえなかった。
だがジンは終始ご機嫌で楽しそうだったので、まあいいかと思った。
自宅に戻った後、さっそく実を絞って薬を作る。
メルロの実は、その日のうちに処理してしまわないと鮮度が落ちてしまう。鮮度が落ちると薬の効果も半減するのだ。薬師の仕事に誇りを持っているヤクとしては、そんな薬を出すわけにはいかない。
ヤクが作業している間、ジンは森へ狩りに行っていたようだ。夕飯にと、鹿を持って帰って来てくれた。
さすがに二人で食べるには多いので、余った分は干し肉にして、今度師匠たちにも食べさせてあげよう。
「こうして家で二人で夕飯を食べていると、なんだか一緒に暮らしているみたいだな」
「そうだねー」
なにやらジンの笑みに含むものを感じたが、特にそれ以上の反応は無かったので、ヤクは流しておいた。
最近のジンは、たまに何か含みを持っているような時がある。もちろんヤクを害するような気配は無いが、何か、放っておいたら危険であるような気もすることがあり、ちょっと対応を考えているところだ。いつまでもやられてばかりではいられない。
食後にソファで寛いでいると、ジンはやたらとくっついてきたり、ヤクを膝の上に乗せたりしたがった。
(どうも今日は、甘えただな…………)
師匠もツツミも出かけているので、もしかしたら少し寂しいのかもしれない。
それならば存分に甘やかしてやろうと、ヤクは力強く頷いた。
「ジン、ここにおいでよ」
ソファの端に座ったヤクが膝の上をぽんぽんと叩くと、ジンは少し目を瞬いて、それから嬉しそうに頭を乗せて寝転がった。
さらりと髪を撫でると、ジンは目を細めて口角を上げ、ゆったりと息を吐いた。
その寛いだ様子にヤクは微笑んだ。大好きな人が自分と一緒の時間に心を緩めてくれていることが、なんだか嬉しくなったのだ。
その心のまま、ジンの頬に口づけをひとつ落とす。
「っ、…………」
不意打ちの行いに、ジンは目元を染めて少し非難気味に見上げてくる。
ヤクはますます微笑みを深め、ジンの髪を撫でて黙らせておいた。
そろそろ寝ようかとなった時、なぜか一緒に寝ることになった。
まあ寂しいのなら仕方ないかなとヤクは許容した。
それに、もう何度か一緒に寝て慣れてきたような気もするし、寝る時にジンの気配があることに不思議と安心もするのだ。
それがジンの思惑だとすると、ちょっと悔しい。
翌日帰って来た師匠とツツミは、ソウジを連れていた。途中で偶然出会い、そのままついて来たらしい。
もらった薬袋の薬は全部分析できたと自慢げに報告したヤクを、ソウジはえらいぞと褒めてくれた。
「お、じゃあ、桃色の液体も使ってみたか?」
「馬鹿者、あんなものをヤクに持たせるな!」
「なんだよ、過保護だなー」
桃色の液体については、下手に口を出すとジンがどんな反応を返してくるか分からないので、できればあまり触れないでほしい。
だが、その後にソウジから言われた、薬師ってのは遊び心がないとダメだぞという言葉には、大きく頷いておいた。
ヤクの膝の上には、ソウジに文句を言う白いふわふわが乗っている。気心の知れた賑やかさに、その温もりが愛しくなってそっと撫でた。
ジンと二人で過ごすのも楽しかったけれど、やはりみんながいると、また違った楽しさがあっていいなと思ったヤクだった。