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薬師の日常  作者: 鳥飼泰
本編
2/12

2. 剣士の物思い

長雨の季節がやってきた。


どの季節でも、ジンと師匠の修行はいつも通りだ。雨が降ろうと休みはない。むしろ荒天になるとジンの師匠は燃えるタイプだ。



(……師匠はすごいな…………)


師事してしばらく経つが、ジンは全く追いつける気がしない。

東の方の国出身であるジンは、故郷ではそれなりに強者として認められていたのだが。

ジンが教えを受けているのは剣術だが、おそらくジンの師匠の本来の得物は剣ではない。それでも剣術は達人級だ。

剣でも徒手でも、どのように戦おうとも、ジンは師匠が不利になるような状況を想像できない。なにか、神がかり的な強さのようにさえ思えるほどだった。



しとしとと降り続く雨が、ジンの衣服を重く濡らす。

この衣服は故郷の民族衣装で、インナーの上に前開きの長着を合わせて帯で結ぶ形式のものだ。帯を解けば上着はすぐに脱ぐことができるが、雨に濡れた衣服を着たまま動くのもまた良い鍛錬になりそうだと思い、今日はそのままにしている。


ジンが持つ武器も故郷固有のもので、こちらでは見かけることのないものだ。

これは、こちらの一般的な武器である剣のような諸刃ではなく、故郷では刀と呼んでいるのだが、その名を知る者も多くないのでジンは便宜的に剣と呼んでいる。


ジンにはよく分からないが、ヤクはこの衣装と武器を身につけたジンのことをとても気に入っているらしい。初めて会った時、本人にそう言われたのだ。



「いきます!」

「ははは、お、なかなかいいぞっ!」


ジンは愛刀を振りぬいて師匠の剣と合わせた。受け止められた際に雨粒と共に周りの小石が舞い散るくらいの剣圧は込めたが、あっさり弾き返されてしまう。

やはり師匠のように剣圧だけで木を吹き飛ばしたり、拳で岩を砕いたりするくらいの力が必要なのだろう。ジンはまだまだ至らない弟子だなと痛感しつつ、すぐに取って返した。




修行を終えて家に戻ると、ツツミが暇そうに寝転がっていた。帰宅したジンたちをちらりと見やり、また目を閉じる。

ツツミは雨の時は家にいることが多い。どうも濡れるのが好きではないようだ。

ただ、雨の中でも何故か濡れていないところをジンは何度か見たことがあるので、やろうと思えば濡れずにもいられるようではある。


(ツツミも、よく分からない生き物だ…………)


師匠が信頼しているのでジンに忌避感はないが、普通の兎は角などないし、そもそも喋らないだろう。なんならツツミは火だって吹くのだ。

こういうよく分からない生き物であっても頓着なく大らかに受け入れてしまうところも、師匠のすごいところだとジンは思っている。



濡れた服を着替えて落ち着いたところで、ジンは先ほどの修行でできた擦り傷の手当てをしようと、棚から軟膏の容器を取り出す。


この、薬を保管する棚も、ヤクが来るようになってから随分と充実した。以前この家にあった薬は、師匠の友人である薬師が置いていく「なんでも薬」だけだった。

「なんでも薬」は、外傷から体内の不調までその名の通り何にでも効く万能薬で、ジンの師匠は本当にその薬だけで全ての不調を治していた。その代わり、とてつもなく苦い。

一方でヤクが症状別に用意する薬は、どれも飲みやすく塗りやすいもので、ジンはありがたく使わせてもらっている。


蓋を開けて漂うほのかな薬草の香りに、ついヤクのことを思い出してしまう。


「最近は顔を見ていないな…………」


思わず口に出して音にしたことで、ジンはよけいにその事実を実感してしまい、少し眉をひそめた。

この長雨で、しばらくヤクはここを訪れてはいない。

雨の日は家にこもって薬の調合をすると言っていたから、きっと今日もごりごりとやっているのだろう。

家の中で薬草に囲まれてひとり作業しているヤクを想像して、寂しがっていないだろうかと今度は少し心配になった。


ヤクは家族が触れ合い過多だったとかで、よくジンに抱き着いたりしたがる。

ジンの育った地域では人前でそんなことをする文化はなかったので始めは戸惑ったが、今では慣れたものだ。そもそもここでは、ほとんど他の人に会うことはないのだ。


むしろヤクは柔らかくて気持ちいいし、その存在を腕の中に収めるとなんだか心が温かくなって不思議な充足感もあるので、ジンから抱きしめたりもする。そうするとヤクも喜び、ジンもますます嬉しくなるのだ。



「…………おい、その緩んだ顔をどうにかしろ」


ヤクのことを考えていたら、ジンの薬を塗る手が止まっていたようだ。ツツミに半目で言われた。




翌日、雨が止んだ。

久しぶりに、濡れる不快さのない中で体を動かして気持ちが良かった。ジンの師匠は今日も豪快だ。



「よし、今日は鬼ごっこだ!」


笑いながら素手で岩を粉砕し、なぎ倒した木を振り回しながら追って来る師匠に、ジンは本気で逃げるしかない。


「師匠、ちょっ、待って……!」

「ははは、ほーら捕まえるぞ!」


いよいよ追いつかれて捕獲される時が、ジンは最も神経を使う。捕獲されるにしてもうまくやらないと、力加減を誤った師匠に吹き飛ばされることになるからだ。

ジンは今まで逃げきれたことはないのだから、いかにうまく捕獲されるかが目下の課題だ。



そしてジンたちが家に戻ると。

待っていたのはツツミと、それにヤク。


ジンから見て、この二人は本当に仲が良い。気が置けない仲であるのがよく分かるのだ。

ヤクと最初に出会ったのはツツミだった。その時に体の不調を治してくれたヤクに、本人は認めないがツツミはすっかり懐いてしまっている。


「ツツミの毛並みは最高だね~」

「うむ、そうだろう。ありがたく撫でろよ」


今もツツミを膝の上に抱き上げて、ヤクは楽しそうにブラッシングしてやっている。ツツミがそんなことを許すのは、共に暮らす師匠とジン以外ではヤクだけだ。たまにやって来る師匠の友人などは、触りたそうにしていても威嚇されて終わる。


「…………」


少し、うらやましい気がしないでもなかった。

でも、帰ったらヤクが待っているというのは良いなと、ジンは思う。


(ヤクには自分の家があるが、いっそもうここに住めば良いのに。そうすれば夜も一緒に寝られる。ヤクを抱きしめて寝たら、きっとよく眠れるだろうな…………)


久しぶりにヤクが家に居ることになんだかむずむずとする心で、ジンはそんなことを思ってしまう。

だいたいヤクは、よく迷子になって危なっかしい。できればずっと目の届くところに居てほしいくらいなのだ。



「シショー、ジン、お帰りなさい」

「おお、久しぶりだなあ、ヤク!」

「ああ、ただいま」


こちらに気付いたヤクがジンたちに挨拶をするのに、返す言葉。

お帰りとただいまが言えるというのは良いものだなと、ジンはまた考えた。


ヤクは、長雨の間はやはり薬作りに費やしていたようで、作りためたという薬をいくつか出してきた。


「これが傷薬で、こっちは胃薬で、それから……」

「お前の薬は苦くないのが、最大の長所だな」

「ツツミは分かってるね!私の薬は飲みやすさが自慢なの。もちろん効果もばっちりだし。……まあ、あの薬に比べればなんだって苦くないと思うけど」


ツツミは苦いものを好まないので、無味無臭であるものが多いヤクの薬が気に入っている。

以前は唯一の薬だった「なんでも薬」は、本当に苦いのだ。ツツミは自発的に飲もうとは絶対にしなかったし、ヤクと出会ってからはこの薬に手を出したことはない。


そういえば以前、「なんでも薬」に興味を持ったヤクがその成分を調べていたが、結果を聞くと複雑そうな顔をするだけで教えてはくれなかった。なんだったのだろうかと、ジンは今でも少し不思議に思っている。



「今日は久しぶりだから、お菓子も作ってきたよ!りんごのタルトだー!」

「おお、りんごはわたしの好物ではないか」

「うんうん。分かってるよ、ツツミ。たくさん食べてね」

「ははは、運動の後に甘いものとは贅沢だな!」

「シショーにも喜んでもらえて嬉しいです!」


師匠とツツミとヤクと。みんなで過ごす時間の贅沢さを思うと、ジンは心が解けていくのを感じる。



「ジン、どうしたの?」


ジンが柔らかくなった心を宥めていると、ヤクが寄ってきて顔をのぞきこんできた。

黙っていたから、心配させてしまったようだ。

ジンは解れた心のままに思わず手を伸ばして、久しぶりの存在をそっと腕の中に収めた。

いくつもの薬草が合わさった複雑な香りがわずかにして、馴染んだその香りに心が落ち着くのを感じる。


「いや。なんでもない」

「……そ、そうですか。あの、なんか、すごく顔が近いです」

「ん?……ああ」


言われてみれば、ジンは無意識のうちに顔を寄せていたようだ。


「…………」

「っ、………」


せっかくなのでと、ジンはヤクの頬に口づけをひとつ落とした。柔らかい感触と触れたぬくもりの愛しさに、自然と口角が上がる。

ジンの不意打ちの暴挙に、ヤクはしばし固まった後、ぼふんと顔を赤くした。

目元を染めて涙目になるヤクを見ているのは楽しかったが、唸り声を上げながら挙動不審になってきたので解放し、タルトを食べようとジンはその手を引いた。



庭に置かれている台の上には、すでにツツミがりんごのタルトを出している。

飲み物を用意しようとしてくれている師匠には座ってもらって、すぐにお茶をいれて来よう。

その間に、ヤクも正気を取り戻してくれるだろう。

そうして、からりと晴れた青空の下、みんなでこの柔らかく温かな時間を楽しむのだ。


ジンの世界は、師匠とツツミとヤクが居れば満足だ。

この素晴らしい世界が失われないように、これからも精進していこうと思う。


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