記憶と思考
車に乗り込もうとしたら女の人に声をかけられたこと。案内してほしいと頼まれ、そこまで遠くはなかったから二人で向かったこと。コンビニで分かれて彼女が交差点の方へ行ったこと。そして、戻ってきた彼女の言葉。
「私がここで死んでしまったということが分かりました」
その時の彼女の顔を、僕はしばらく忘れられそうにない。
青白い顔や思いつめたように結ばれた唇。すぐ横に立っているのに、急にどこか遠い存在に感じたことを。
「死んでしまったって……どういうことです?」
直射日光に目を細めると、遠くの景色が揺れて見えた。
「と、とりあえず車乗ってください」
「でも……」
まるで自分の存在を確かめるみたいに、胸の前で何度も三科さんは自分の手を握っていた。
「外だと僕も暑いんですよ」
本音半分動揺半分で僕は彼女の腕を掴んだ。死んでいるだなんて告白を聞いて、そのまま冷静でいる方がどうかしている。
ぞっとするほど冷たい、なんてことはなかった。代わりに夏らしいほてるような熱も感じない。掴んだ腕には、およそ体温と呼ぶものがなかった。
自然と視線が上がった。目が合った彼女はどこか痛いのを我慢しているような笑顔だった。
ね、言ったとおりでしょ。三科さんのそんな声が聞こえた気がした。
……それでも。
僕は後部座席のドアを開けて彼女を促す。躊躇いながらだったけど、ようやく彼女は頷いてくれた。彼女が乗り込んだのを確認してからドアを閉めた時、衝撃で額の汗が目に入った。
ホントに暑い。時間はまだ正午前。たぶん、今日はもっと暑くなる。
***
僕が話し終えると、それまで微動だにしなかった志穂が大きく息を吐いた。
「それでキミは幽霊に遭ったと。それこそイタズラじゃないのかい?」
「僕もすぐ鵜呑みにはしませんでしたよ。でもしばらく車の中で話してから僕も交差点に行ったんです。あまり大きな交差点ではなかったんですけど、背の高い木々が邪魔で視野が狭い場所でしたね。三科さんが指差したのはそんな木々に覆われた一角で、そこには事故の目撃者を探してますって立札があったんです」
一応雑木林にも入ってみた。連日の雨で血とかの類はなくなってたけど、なにかが倒れていたみたいに草木が折れている場所があった。
「ふーん」
立てた膝に顎を預けていた志穂が首を左右に揺らす。
「おもしろいね。それでどうなったんだい?」
「どうってこともないですけど……。事故のときのことを思い出しちゃったみたいで震えてましたよ」
「事故のことを思い出した?」
少しバランスを崩しながらも、志穂が怪訝な表情で聞き返した。
「ええ。彼女が言ったんですよ。この立札の事故は自分のことだって。私はここで車に轢かれて死にましたって」
「事故で死んだ人の幽霊……ねえ」
志穂は両膝を抱えるようにして深くソファに座りなおす。そのまま大きく息を吸ったきり動かなくなってしまう。
話し続けていいのかな。
志穂が不意に黙り込むのは珍しいことじゃない。考え事をする時、決まって彼女はどこか遠い世界を眺めるような表情をした。いったい、彼女は何を見ているのだろうか。そんな風に考えることも何度かあった。いや、今だって気になる。志穂の目に、世界がどう映っているのか。
けっきょく、僕は再び彼女が戻ってくるのを待つことにした。長く話し過ぎて疲れたから。話すのを中断して初めて、朝から何も口にしてないのを思い出した。
「冷蔵庫まで行くならわたしの分の飲み物も頼むよ」
体の角度を少し変えただけなのに目敏く察知したらしい。
「なんでもいいんですか」
問いに答えはなく、一瞬前まで僕を見ていた瞳は再び虚空を見つめていた。
彼女が答えなかった理由は冷蔵庫を覗いてすぐ分かった。菓子の類意外には食品が入ってない冷蔵庫には、同じパッケージの一リットルパックが何本か入ってるだけだった。青葡萄が描かれたパックが七つ。先週見たときにはレモンのパッケージだらけだったのに。
僕を待ってたみたいに並んだ二つのグラスに飲み物を注いで部屋に戻り、片方を志穂に渡す。
「うん。ありがと」
まだ少しかかりそう。