T町六丁目 コンビニがある交差点
エンジンにキーを挿したとき、まだ行き先を聞いてないことを思い出した。ミラー越しに視線を向けると、申し訳なさそうな顔で座る姿が見える。二十代後半くらいだろうか。ハンドバッグを膝に乗せシートに深く座る姿は、ひどく疲れているみたいだった。
右側の助手席には「お使い」の本が積み込んであるからと後部座席を案内すると、すんなり頷いてもらえた。
「T町の六丁目の交差点に行きたいです」
行き先を訊ねるとそう返された。……なるほど。全然分かんない。
町名はなんとなく分かっても番地はさすがに把握してない。
「近くに目印とかないですか?」
カーナビにそれっぽい住所を打ち込む。
「交差点の東側にコンビニがあります。あと犬がよく吠える家と、あとは大きな薬屋さんが北側にあります」
北とか東とか方角で説明する人って珍しいな。今はそっちの方が分かりやすいから助かるけど。そんな風に思いながら画面を動かす。吠える犬は地図じゃ判断できないから除外。
目的地はすぐに見つかった。ここから五キロほどの地点。どちらかというと大通りからは外れた少し寂しい通り。
借りるべき本は手に入ったし、少し遅くなったところで怒られもしないだろう。
「私、三科リサっていいます」
図書館から右折したとき後部座席から声がした。僕も名乗った方がいいんだろうか。正直、知らない人に名前を教えるのは抵抗あるけど。
まあ、いいか。
「宮川セイイチです」
悩みんだけどけっきょく本名を告げる。ホントに疑ってたら車に乗せないし。
なんとなくだけど、彼女からは僕を騙そうとか悪いことを考えているようには見えなかった。だから案内も引き受けたのだ。
「宮川さんって若いのにこんな車乗ってるんですね」
「あー、これ僕のじゃないんですよ。その……先輩の車です」
わたしは雇用主だ、と主張する志穂を頭から追い出す。
「あっ、そうだったんですか。……すみません」
「い、いえ」
気まずい。女の人と二人っきりで車なんて初めてだ。なにか話題振った方がいいのかな。
「あ、あの、三科さんっ」
つい思ったより大きな声が出てしまう。
「は、はい?」
なにこれ。なんでこんな緊張してるんだろ、僕。
「あの、たいしたことじゃないんですけど、なんで交差点なんかに行きたいのかなって思って」
「確かめたいことがあるんです」
確かめたいこと?
「私、ここから少し離れたところから歩いてきたのですけど道が分からなくなってしまって。そしたらあなたを見つけて」
「はぁ。それで声をかけたと」
僕だったら諦めるかコンビニあたりで道を尋ねるけど。
「はい。見かけた人の中で一番女の人に扱われるの上手そうだったので」
数秒間意味を考える。褒めてないよね、それ。
そりゃ散々こき使われてるけど。
そんなに雑務体質がにじみ出てるんだろうか、僕。
うわ。なんか深く考えると人前に出られなくなる気がする。
「ふふ、冗談ですよ。なんとなくです」
バックミラーから見る彼女はさっきまでよりずっと明るく見えた。これが本来の彼女の姿かもしれない。僕は落ち込みそうだけど。
***
待ち時間の長い交差点を過ぎると、急に移動がスムーズになった。
朝も十時を過ぎると道がすいてくる。あくまでもラッシュ時に比べて、だけど。それでも僕の予想してたのよりずっと早く目的の交差点は見えてきた。
「あそこで降ろしてほしいです」
そう言って彼女が示したのは交差点近くのコンビニ。僕は緊張しながらバックで操作する。
「一人で大丈夫なので少し待っててください」
僕がシートベルトを外そうとしていると、いち早く外に出ていた三科さんに止められる。
無理してついて行くこともないか。彼女の後ろ姿を見送ってから軽く体を伸ばす。予想してない休憩時間を手に入れてしまった。
「ん?」
なにをしようかと車内を見回したとき、かばんから本が飛び出してるのを見つけた。世界のスイーツ大全第三巻。なんの気なしに開いてみると、どのページもケーキの写真と解説のような文章。この巻はケーキをまとめてるらしい。
「これは……かなりきついな」
チョコがたっぷりかかったケーキやホイップいっぱいのケーキ。どこを開いてもそんな写真ばかりで、気のせいなのは分かっているけど、どことなくクリームの甘ったるいにおいが車内に満ちてくる気がした。
「うわぁ」
ウェディングドレスの代わりに着るケーキのページで僕は本を閉じた。世界は広い。
「こんなのがあと八冊もあるのか」
僕は恐怖の本をそっと手提げかばんに戻す。こんな図鑑を作ろうって発想がすごい。いや、これらを読もうって思考がすごいのかな。少なくとも僕にはできない。
やることもないからシートを倒して目を閉じる。もし僕が読むとしたらダイエットをするときだろう。あれを延々と読み続ければ一日一食で事足りそうだし。案外、志穂もそんな目的かもしれない。太ってるとは思えないけど。
それから十分経って、二十分経っても三科さんは戻ってこなかった。三十分ほど経って、やはりなにかのイタズラだったのだろうかと不安になったとき、ようやく控えめなノックが聞こえた。目を開けると、最初に会ったときのようにうつむき気味な三科さんが立っていた。
なかなか彼女が乗らないので外に出てみると、湿気を含んだ空気がべっとりと顔にまとわりついてきた。
「けっこう時間かかりましたね」
そんな気はないのについ皮肉っぽい言い方になってしまった。
「待たせてしまってごめんなさい」
「あっ、責めるつもりはないんですけど」
妙にしおらしい姿を見て、逆に僕が申し訳なくなってしまう。
「用事はもういいんですか?」
僕の問いかけに小さく「はい」と答えると、彼女は何度か浅い呼吸を繰り返す。やがて最後に大きく息を吸うと、僕だけに聞こえるように、それでもはっきりと言った。
「私がここで死んでしまったということが分かりました」