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夏の日のユーレイ  作者: マヤ
2/11

出会い

 僕は前の車のテールランプを受けてブレーキを踏んだ。この近辺の道を使う人ならみんなが知ってる待ち時間の長い信号だ。見上げると、八月らしい青空が僕の気持ちなんか興味ないと言わんばかりに堂々と広がっていた。

「はぁ」

 車の運転は慣れない。僕は信号待ちをいいことに肩の力を抜く。

 他の移動手段より自分の身が安全で快適なのは認める。でも好きには慣れない。自転車やバイクと違って制御できている自信がない。なにより身の丈に合わない。

 おそらく僕の学費より高いであろうアウディーのハンドルを見るたびにため息が出る。全体的に黒を基調とした内装も、なにを示すかよく分からないメーターも、右手部にあるギアも、そこかしこにあるものが僕には釣り合ってない。

 もしこの車が自分のならまだ多少は緊張しないでいられる。しかし、当然ながら学生の僕にこんな車を買う余力はない。つまりこれは借り物。ふかふかのシートに体を預けたとき、貸主の不遜とした顔を思い出した。

 布袋志穂。大学二年生の僕にとって一学年上の三年生。そして不登校。中学生で成長が止まっているんじゃないかと疑わしくなる体型に、病的に白く細い手足。興味が湧かない限りとんと物事に無頓着で無関心。髪の手入れだけは熱心にしているのか、肩にかかる髪はカラスの濡れ羽色だった。

 大学一年生のとき金策に困った僕は、奇妙な縁があって彼女のもとでアルバイトを始めた。表向きは週に数回の掃除。実態は掃除やら買い物を含んだ雑務全般。直球に表すならパシリ。非常にめんどくさいと思う反面、やめるための口実もないままずるずると関係は続いてしまった。熱中するだけの趣味やら時間を割きたいほどの関心事といったものは、僕にだって無かったのだ。

 煩わしい人間関係を嫌って孤立寸前の僕にとって、一部を除いた色んなものに無関心でいる志穂は逆に信用できる存在だったというのもある。いつの間にか、志穂という女性のもつ微妙な距離感に心地よさを覚えていた。

 だからといって、僕が彼女の周囲にいるせいで被る面倒ごとを良しとしているかは別である。

 よくよく思い返してみれば、今こうして慣れないハンドルを握っているのは彼女のせいではないか。

 僕は感情を抑えて慎重にアクセルを踏み込んだ。

 ***

「ねぇキミ、どうせ暇なら取ってきてほしいものがあるのだけど」

 午前中、いつものように彼女の部屋の掃除に行った僕に唐突に放った言葉。彼女はそれを読んでいる本から顔も上げずに告げた。

「取ってくるって本ですか?」

 僕は一人用のソファに深々と腰かける女性、志穂に問い返す。

「まあ本っていえば本かな」

 このときの僕は実に浅はかだった。

 彼女が居住場所としているのはとある廃ビルの四階。どんな経緯でこんなところに住むことにしたのかは知らない。ともかく彼女はこのビルを住処と定め、最低限の家具と必要以上の本を持ち込んだ。

 四階を丸々使用している彼女の本を取ってくるだけならなんてことない。わざわざ自転車で、町はずれのこんなところまで通っているくらいだから。

「いいですよ。どの部屋にあるかとどの辺にあるか教えてもらえれば持ってきます」

 一瞬だけ、志穂が品定めするかのように目を細めた。

「世界のスイーツ大全。全部で九冊」

 そんな本があるのか。一年以上通っているけど、図鑑の類がこのビルにあるなんて知らなかった。

 そう志穂に告げると、彼女はあっけからんと口を開けて僕を見つめた。

「ここにあるわけないじゃないか。隣町の図書館にあるから取ってきてほしいんだよ」

「は?」

 今度は僕が口を開ける番だった。

「今日も暑くなりそうだし重いだろうから車は貸してあげるよ」

 馬鹿みたいに聞き返す僕に、彼女は無造作に車の鍵を投げた。

 それから一時間、通勤ラッシュで混み合う道路を僕は進んだ。

 色々考えてみると、道路が混んでいるのも八月なのに雨が多いのも、すべて彼女が悪いんじゃないかという考えが浮かんだ。

 ようやくたどり着いた図書館で、二つの手提げかばんにせっせと図鑑を詰める僕は周囲にどう見られていたかは想像したくもない。

「あの、すみません」

 声をかけられたのは、重い手提げかばんを車に乗せたときだった。振り返ってまず目に入ったのは濃い藍色のワンピースだった。視線を徐々に上げていくと、気弱そうな女の人と目が合う。

「僕ですか?」

「……はい」

 うつむき気味の顔をはらりと長い髪が撫でる。

 女の人はしばらく視線をあちこちに投げかけながら、ワンピースの裾を掴んで迷っていた。やがて僕のやや上あたりを見ながら言った。

「連れて行ってほしい場所があるんです」

 ……へ?

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