幾時を越えて、この想い 下
早朝、太陽の昇りかける頃合いを見計らって近くの河原を散歩するのが日課だった。
生まれつき体の弱い私だけど、床に伏せっていてばかりでは余計に弱り続けると和尚さんに言われてずっと続けている。
街中は朝早くから仕事をする人たちの声が聞こえてくるけれど、ここは静かでとても落ち着く。人付き合いが少し苦手な私にとって四季折々の野草を眺めながら黄昏るのはどこか心地よい。日の光が体を温めてくれるまでそうやってぼんやり過ごすのが好きだった。
ある日、いつものように散歩をしていると棺のような大きな木の箱が岸に打ち上げられていて、前日は嵐もなかったのにどうしたのだろうと興味本位で近づく。何か入っているのだろうか。船頭さんが落っことしてそのまま気づかずにいるのだろうか。そっと耳をあてると中から寝息のようなかすかな音が聞こえる。
まさか人が入っているわけないよね。
入っているとすれば私と同じくらいの背丈の子供。島流しにあったとすれば気の毒な話だけどどうしようもない。でももし本当に人がいるのなら。
右往左往していても仕方がない。そっと蓋を開けて中を覗く。日の光が差し込んで中身の輪郭が露わになった。質素な箱からは想像もできない程、その子の周りに飾られた装飾品は豪奢に埋め尽くされ、着飾っている衣装は王族のそれと同じかそれ以上の存在だとみて分かる。
勢力争いや内乱から逃れる為に箱に入れて流したとしか思えない状況。巻き込まれたら面倒だとか厄介事の種になるとか、もしかしたらそんな事を思う人もいるかもしれない。でも、私の脳裏に浮かんだ答えはたった一つ。
助けなきゃ。
ただそれだけ。ただそれだけの考えを抱いて、生まれて初めて自分でも驚くほど大きな声が出た。
「大丈夫ですか? 私の声が聞こえますか?」
「…………んん。あれ、おねえちゃん」
「ああよかった。本当によかった」
随分と長い眠りについていたようで返答に対して答えがふわふわしている。箱は重くて運べないから屋敷の人に運んでもらうとして、私は彼女の手を引いて家に招待する事にした。
眠気まなこでぼぅっとした様子だったけど、きっとお腹がすいているだろうと思って食事を出すと、人が変わったように箸を口へと運んでいく。
お腹いっぱいになって大の字になる姿なんか無邪気な子供そのもの。私も大人から見れば子供なんだけど、昔から彼女みたいに無邪気ではいられなかった。
物心ついた頃には母の興した孤児院の手伝いで、乳飲み子のお世話をよくしていたし、今でも時々子守りを買って出る事もある。だからというわけではないが、大人の真似をしていたせいもあって、周囲からはしっかり者の評価を得ていた。
「ごはんおいちかった。あ、あたち胡喜媚っていうの。あなたのおなまえは?」
「私は和気玉虫姫。みんなからはむっちゃんって呼ばれています」
「むっちゃん! ありがとうむっちゃん。おかげでおなかいっぱいになった!」
「箱に入って川岸に辿りついていましたが、何か事情があるのですか? 勿論話したくなければ結構ですので」
「う~ん……おぼえてない!」
「そうですか。では落ち着くまでここに居てください。母もそう言っておりますので」
「いいの!? ありがとう! あっ!」
私の後ろにおいてあった三味線に目を輝かせて駆け寄ると、手に取って不思議な物をみるようにコロコロと転がしている。見るからに高貴な生まれのようだし、もしかしたら楽器に興味があるのかもしれない。少し弾いてやると興味津々な様子で目をキラキラとさせていた。本当に好きなんだなと思うと、私も少し楽しくなってくる。芸を教えてくれる先生にはとても言えないが、正直なところ楽器の演奏について私はあまり前向きではなかった。
それよりは赤ちゃんのお世話だったり、年下の遊び相手をしているほうが楽しいと感じている。そこはやっぱり母と同じ血が流れているんだなと実感した。
母は貴族だが、世知辛い世を憂いて行き場のない人々の為に孤児院を開き、身寄りのない人、親に捨てられたり不慮の事故で天涯孤独になった子供、果ては罪人に至るまで多くの人々に居場所と食事と仕事と、そして愛を与え続けている。
ここは最後に残された神仏の慈愛満ちる場所。
きっと喜媚ちゃんも何かあって漂流していたに違いない。だからこそ、私は彼女に居場所が必要だと思ったし助けてあげたいと思った。もしかしたら余計なお世話かもしれないけれど、おせっかいだっていいじゃないか、といつも母が口癖のように言っている。私はその心を信じたい。
「ねぇねぇ、これなんてゆーの? にこみたいだけどおとがぜんぜんちがうね」
「たしかに二胡に似てるけど、これは三味線と言います。こうやって弾く様に音を出します。それからあっちが和琴。太鼓に尺八。小鼓。琵琶。奥に置いてあるのは木魚って言って楽器ではありませんが面白い音が出ますよ」
「わぁーすごいすごい!」
初めて見るものばかりで手当たり次第に音を集める。最初はメチャクチャに触られるかなと思っていたけど、必ずどうやって使うのか、音の出し方は、手入れの仕方は、全部聞いたうえで丁寧に扱っていた。ただ知っているとか楽器が好きとかだけじゃない。道具に対する礼をきちんと備えている。
手つきも所作も明らかに素人ではない。基礎がしっかりしているし、様々な音を奏でてきた経験があるからこそ動作を教えただけで一人前の演奏を実現していた。本当に音楽が好きだからこそ出せる音色を実現している。
それはたまたま家の横を通った先生の驚きようを見れば一目瞭然。後日、稽古の際に喜媚ちゃんの演奏を聴いて褒めちぎられていた姿は少し誇らしくて、共に過ごす中で私も音を奏でる事が好きになっていった。
…………それからだ。私の心が歪んでいったのは。
喜媚ちゃんは音を紡ぐのも教えるのも上手だったし、私と違って明るくていつもみんなに囲まれていた。羨ましいとは思わない。ただ、大好きな喜媚ちゃんと一緒にいられる時間が少なくなっていくのに、疎外感と苛立ちを覚えていく。
これは悪い感情だ。分かってた。だから誰にもぶつけずずっとしまい込んでいる。我慢して我慢してため込み続けた。
いつしか喜媚ちゃんを遠ざけるようになって、一人でいる時間が増えていく。いや、元々一人ぼっちだったんだ。元に戻ったというべきなんだ。でも、二人でいる時間を知ってしまった私の心はボロボロになっていく。
だったらみんなと一緒にいればいいじゃん。
何で二人っきりじゃないとダメなの。
みんないい子たちだよ。
…………独り占め、したいんだよね。
心の声がほくそ笑む。
違う! 違う! そんなんじゃない。そんなんじゃ…………ないよ。
自分の心を否定しても喜媚ちゃんはずっと輝き続けている。みんなに囲まれてとても楽しそうだ。羨ましいわけじゃない。なんで喜媚ちゃんの隣に私がいないのかが分からない。最初に友達になったのは私なのに。どうして私は隣の部屋で俯いているの。楽しそうな声が響くたびに爪を噛んだ。綺麗な音色を遮る為に心の中に喜媚ちゃんを描く。
あぁ、もう限界だ。
だから地獄の入口まで赴いて喜媚ちゃんを突き落としたんだ。そうすればもう誰も喜媚ちゃんの隣で笑う者はいない。彼女は私の心の中で生き続けるんだ。ずっとずっと一緒にいられるんだ。
それから数年、数十年。心の中に安らぎがあるはずなのに、いつも空虚で満たされない。孤児院のみんなはありがとうっていつも笑顔をむけてくれる。良い人と結ばれて子宝にも恵まれたのにいつも意識は霧の中。順風満帆だった人生のはずなに何が足りないのだろう。
齢五十にさしかかり部屋の片隅に置かれた三味線に手が伸びた。喜媚ちゃんを手に入れてから楽器には一切触らなくなったのに、どういうわけか無意識に、それこそ心に従うように音を集める。
べべんべべん。およそ旋律にもならないただの音。響いて消えて、紡いで解ける。決して手元に残らない。まるで私の人生のよう。
そうか、そうだったんだ。私はなんて間違いを犯したのだろうか
己のくだらない独占欲の為に、大事な友達を殺めてしまった。取り返しのつかない罪にいまさら気づくなんて。せめてこの身を地獄の業火で焼き払おう。もしそこにいるのならただ一言、ごめんなさいと伝えたい。
懐かしい声が聞こえる。優しくて柔らかくてとても心が安らぐ。
これは、歌?
心に響いて木霊する、愛と贖罪の歌。
バラード調の旋律が深い眠りから魂を揺り起こした。赤子が母の腕の中に抱かれるように暖かく包み込まれる感覚。全てを赦す愛の歌。
「喜媚ちゃん……?」
「あぁ……むっちゃん。ごめんね。ずっとゆうきがでなくてあいにこれなかった。きらわれてたとおもったらこわくてこわくてどうちようもなくって。でもりゆーがちりたくって。ごめんなさいちたくって」
どうして。どうして喜媚ちゃんは謝っているの。謝らないといけないのは私の方なのに。
何も謝る事なんてないよ。私が全部悪いのに、私が彼女を突き落とした原因が自分にあると思ってる。なんでそんなに優しいの。なんでこんなに暖かいの。
「ごめんなさいしないといけないのは私だよ。私は輝いてる喜媚ちゃんがずっと羨ましくて妬ましくって、こんな最低な私に謝る事なんてない。…………本当にごめんなさい。私は取り返しのつかない事を」
「そう、だったんだ。あたちのことうらやまちーっておもってくれてたんだ。だったらやっぱりごめんなさいさせて。あたちきづいてたの。みんながいるとむっちゃんがずっとひとりになってるの」
「それは! ……私があなたの手を振り払ったから」
「それでも! おっかけていかなかったのはあたちだから。きらわれてるのがこわくておいかけられなかった。むっちゃんのことだいすきだから。いまでもだいすきだから」
「こんな私を、まだ好きでいてくれるの。どうして?」
「すきにりゆーなんてないよ。ずっとずっとむっちゃんのことだいすき! むっちゃんはあたちのこと、すき?」
どうしてそんな笑顔ができるの。疑問が湧いてすぐに消えた。きっとあなたの心は何よりも純粋で汚れを知らず、その魂は正義の輝きの中にあるに違いない。
輝ける魂の光に心が満たされていくのを感じる。あの日私が自ら手放した愛が、また私に向けられていた。絶望に駆り立てられて突き放した彼女が私の前に現れて両の手を差し伸べている。
真実を確かめる事がどれほど怖かっただろう。私の心無い行いにどれほど絶望した事だろう。どうしてこれほどまでに愛してくれた友達を地獄へ突き落してしまったのだろう。後悔と喜びの涙が溢れて止まらない。
ごめんなさい。あなたに辛い思いをさせてしまって。
ありがとう。こんな私を愛してくれて。
だから言うんだ。私の心の声を、素直な言葉で。
「喜媚ちゃんの事、私、大好き!」