輝く蝶、その行く末は 下
またあの夢だ。
夜、摩天楼の噴水の上で星だけが瞬いている。窓から見える明かりもなく、ガス灯に火は灯っていない。だからすぐにこれが夢だとわかった。わかったならすぐに夢から覚めてしまいそうになるけど、なんていうか、今はそんな気分じゃない。
この静寂を静かに楽しみたい、そんな気持ちの自分がいる。
ガス灯の火に引き寄せられて、ひたすら体をガラスに叩き付ける羽虫もいなければ、食い物を求めて徘徊する野犬だっていない。ここはそんな荒廃とした雰囲気を漂わせているというのに、私と星々の輝きのほかに瞬くものは何もない。
胸の内の疑問に星は答えてくれないから、己の心に正直になれた。
本当にこれでよかったのだろうか。鈴には道満を殺すしかないと言っておきながら、少しだけ後悔している。あの笑顔をまた向けてもらえるなら、自分の行いは間違いだったのではないか。その可能性があったのではないか。
袋小路の自問自答。これが希望的観測だという事はわかっている。わかっているのに、とうに答えは出ているのに、もしかしたらを考えて、違う答えを求めてしまう。
「あたしはどうすればいいんだ」
「お姉ちゃんのした事は、きっとおじいちゃんも望んでたんだよ」
そうだな。そんな風に考えられたらどれだけ楽か。か弱い少女の言葉が涙を誘った。よくよく考えてみれば自分を殺しうる存在をあんな風に野放しにできるように放置しておくはずがない。自分ではどうしようも止めるられないから、あたしに希望を託したのかもしれないな。そうだとすれば、どれだけ救われる事だろう。
天を仰いで星の声に囁いた。少し心が救われたような気がして体は軽くなった気がする。くよくよ考えていても仕方がない。それにあのまま彼の計画通りになっていたら大勢の人達が亡くなっていたのは間違いない。正しい事をしたのだ。そういう事にしよう。
「おーねーえーちゃーんーむーしーしーなーいーでー!」
可愛らしくてどこか懐かしい声が聞こえる。そういえばさきから足が重い気がするけど気のせいかな。なんと、ゴスロリファッションの少女があたしの足にしがみついてお腹に顔をぐいぐい擦り付けているではないか。その愛らしさたるや百点満点。
「もう、やっと気づいてくれた」
「ごめんごめん。もしかしてお嬢ちゃんは」
「うん。お姉ちゃんの両腕だよ」
やっぱりそうか。あたしの両腕と同じ腕をしている。彼女の命をあたしは背負っているんだ。腕を見比べて本物だと実感した。鏡写しに左右対称の白い腕を彼女は不思議そうに見ていた。まるで初めて見た朱子織の着物を、それこそ刺繍の目と目の間を虫メガネで見るかのように指の間を開いたり閉じたり、手の平と甲を引くっ繰り返したりして観察している。それから両手でしっかり握ってこう言った。
「そっか、私の腕はお姉ちゃんと一緒に居られるんだね」
「なんで、あたしはあなたの命を」
「それなんだけどね。私達は元々長い命じゃなかったの。本当はもっと生きられたかもなんだけど、それは生きてるとは言わない人生。だから、灰色の人生を過ごすより、一瞬でもいいからキラキラした瞬間を噛みしめたかったんだ」
それでも、と言葉を続けようとしたあたしの目の前に彼女の満面の笑みがある。それを見て、もう何も言う事ができなくなってしまった。この子が自分の人生に満足して余生を全うしたんだと知って、これ以上、理屈っぽい事とか、もしかしたらなんていえなかった。彼女の小さな体を力いっぱい抱きしめて、心から溢れるただ一言を伝える。
「ありがとう」
路地裏を抜けるとそこは太陽の照り付ける砂漠地帯。ベルトコンベアに乗って進んでいくと黄色い帽子を被った少年と合流した。
流されるままにたどり着いた先は奇妙な建物の中。無数の隙間から日差しが零れ落ちる空間に年不相応に大人びた言葉遣いをする少女がいる。三人を引き連れて、開かずの扉をこじ開けた。光が炸裂して、ようやく目が開けられたと思ったら、そこは道満と過ごした見慣れた地。縁側に座って彼の肩を叩いていた。優しい笑顔を向けられていた。
今は彼等が笑顔を向けてくれている。何の見返りもない無垢な心があたしの冷え切った心を温めていた。
「ねぇ、何でみんなは自分の体をあたしにくれたの。なんで見ず知らずのあたしを助けてくれたの」
「んー、それなんだけどな。正直な所その辺の詳しい事って聞いてないんだ。いや聞いてないわけじゃないんだ。ただ、何言ってんのかよくわからなかったんだ。ただ俺はここじゃない別の場所に行けるって言うから、もうそれしか頭になくってさ。死んだ後の事なんか考えられなかったな」
「寿命が短くなる代わりにここじゃない別の人生を歩ませてくださる。その代わりに、死後、私達の体を使って助けたい子供がいる。助けてくれないか。と、そうおっしゃられていました。私にとってその申し出は望外であり、とても希望に満ち溢れている物でした。だから手をとったのです。それに、この身を捧げて誰かの命になれるのであれば、無上の喜びにございます」
「あたしはずっと独りぼっちでね、ずっとずっと寂しかったの。おじいちゃんがお友達を紹介してくれるって言うし、動かなかった体もこんなに元気になったんだよ。ほら! それに死んだ後もみんなと一緒だって知った時は凄く嬉しかったなぁ」
そうか、この子達はあんな場所で孤独に過ごしていたんだ。だから変化を求めて、誰かと繋がる事を望んで、道満の手をとったんだ。そして彼等の人生は幸せを携えて終わったんだ。ならば、あたしが俯いてる場合じゃない。
「みんな、幸せな人生を送れたんだね」
「「「うん!」」」
「あたし生きるよ。みんなみたいに幸せになる。最後の最期まで幸せに生ききってみせる。だから、ずっと傍にいてくれないかな」
「「「もちろん!」」」」
「ありがとう、本当にありがとう!」
三人を一緒に抱きしめて、最後に満面の笑みを交わし合った。それは本当に幸せに満ちていて勇気と希望をあたしに与えてくれる。
ああ、きっとどんな困難だって乗り越えられるさ。心が塞ぎそうになったら彼らの笑顔を思い出そう。そうすればきっと道は拓けるはずだ。
目を開けるとそこは見慣れぬ天井。それと見慣れた顔が二つ。桃太郎と鈴があたしの顔を覗き込んでいる。なにやら騒いでいるようだが、寝起きのせいか何を言っているのかよく聞き取れない。あたしはあくびを一つこしらえて二度寝を決め込もうとするも、鈴に頬を叩かれて無理やり起こされてしまった。
「もう丸一日眠ってなのにまだ寝るの。本当に心配したんだから」
「マジで還って来ないかと思ったじゃんよ。でも目が覚めてよかった」
どうやら随分心配させてしまったらしい。あんな事のあった後だ、さすがに二度寝は失礼だったか。それに腹も減ったな。
白いご飯に南高梅。鮭の塩焼きお味噌汁。
希望通りのお品書きに胸躍らせて箸を掴んだ。
思い出の場所が焼け落ちてから丸一日。涙の中で眠りについた誾が今は元気にご飯を食べている。傍目から見れば随分と吹っ切れた様子だけど、実際はどうなんだろう。覚悟をして臨んだとはいえ、そうすんなりと受け入れられるものだろうか。
鈴は思いつめたようにため息ばかりついていた。彼女も殺す以外の止め方なんてなかった。残念だけどあれが最善だったんだって自分に言い聞かせてはいるが、恩師と仰ぎ慕っていた男を殺さなければならなかったのだ。それは耐え難い苦痛として心を蝕んでいるに違いない。
そんな鈴が元気いっぱいに飯にかぶりついている誾に言葉を投げかけた。出会って間もないとはいえ、二人は同じ師と呼べる人間を想って殺した、まるで姉妹のような存在になっている。
「誾はさ、やっぱりこれでよかったって思ってる?」
「そんなの今さらだろ。でも正直言うと、良かった半分、後悔半分だ。でもこれしかなかったと思ってるしもう終わった事なんだ。どうせどっちも半分半分なんだから、あたしは良かったと思ってる。それにあの子達に最後の最期まで一生懸命生きるって約束したからな。くよくよなんかしてらんない」
「あの子達ってもしかして、その、ちびちゃん達の事?」
「ああそうだ。夢の中で会ったんだ。あの子達も道満に感謝してたよ。それにあんたにも。一緒に遊んでくれてありがとうってさ。長く生きられなかったちびちゃん達の分も、お前も一生懸命生きろよな」
「そう、そうなんだ。うん、わかった、私も頑張って生きるよ。あの子達の分もせいいっぱい生きる」
まるで過去のしこりが、後悔の念が涙になって流れ落ちて、鈴の顔は晴れやかだった。きっとこれから大変な事も沢山あるだろう。でも、きっと彼女を支えてくれる暖かな想いがくじけそうになった心を支えてくれるに違いない。
鬼退治の途中、臥せっている彼女をこのままにして背を向ける事に心残りができると思っていたけれど、もうその心配はなさそうだ。少したんぱくに感じていた食事がずっとおいしく感じたのは気のせいじゃない。
「お、いたいた。鈴と、君が誾でそっちの彼は桃太郎君だね。いやぁ挨拶遅れてすまなかった」
「あれ、お父ちゃん。どうしたの。まだ会合の途中だったんじゃあ」
「早めに終わったから私も一緒に昼飯でもと思ってね。家内から話は聞いたよ。本当に大変な事があったんだってね。まさかあの道満さんが」
糸目に丸眼鏡。七人の子供がいるというわりには若い話し方をする六十過ぎの男。鈴の隣に座って慣れた様子で注文をしたかと思ったら、俺の顔を値踏みするように見ている。ぎょっとするのも当然。思い当たる節があるからだ。あの夜の出来事はいまいち記憶にはないが、もしも本当に彼女を押し倒していたとすれば…………。
「君が鈴の惚れた男か。いやいい顔つきをしている。なんでも自ら鬼退治を買って出たんだってね。その心意気も気に入った」
あ、この流れそっちに話持っていくやつだ。どうしようそんな事実に記憶がございませんと言っても信じてくれないだろうし、娘を傷物にされた父親の怒りは鬼より恐ろしいに違いない。てかなんで自ら鬼退治を買って出たって知ってるんだ。
あたふたしながら弁明を絞り出そうとして変な汗が出てくる。確かに見た目は好みだし性格も悪くないんだけど、なにぶん出会って間もない二人がいきなりくっつくなんていやいやそんなまさか。
「ちょ、ちょっと待ってお父ちゃん!」
赤面して俯いていた鈴が決心したように大きな声で父親を制した。今度は後ろを向いてこそこそと小さな声で、俺に聞こえないように何かを伝えている。父親の方は何やら相打ちをうっているようだ。やっとご飯に味を感じ始めたというのに食い物も喉を通らない。このままでは餓死してしまう。
こそこそ話も終わり、人生で最も長い一分間は父親の笑顔で解消された。
「いやぁ、昨日家内に聞いた話だと桃太郎君が鈴と一緒に寝たって聞いてたから、遂に孫の顔が見れるかと思っていたんだけど、色々と入れ知恵、じゃなくて行き違いやら誤解やらあったみたいだね」
はっはっはって笑ってるけど今なんか入れ知恵って聞こえたような。
しかしやっぱり何もなかったか。冷や汗を拭きながら安堵を乗せた、はっはっはっが俺の喉から漏れ出した。
昼飯を食べ終わって、色々と迷惑をかけたようで申し訳ない、と正式に鈴の実家に立ち寄ると、そわそわした様子の遊女の姿が縁側に並んでいる。初めて見るがばっちりと化粧をして、きらびやかな服に簪や付け爪。まるで天女が微笑んでいるような印象すら受ける。
こういった場所で育つ子供は一見裕福そうな想像をしがちだが、鈴の涙を見た後では随分と苦労をしているように感じた。昨日見たそろばんを携えて歩く彼女の姿は生き生きとしていたけれど、その裏にどんな葛藤があったのだろう。女の道を捨て男の道を歩む足はどれだけ傷だらけなんだろう。きっとそれは想像を絶する覚悟と歯を食いしばるほどの恩讐があったに違いない。それでも彼女の笑顔を見れば、きっとどんな困難をも乗り越えられると、今なら確信できる。
大広間に招待された先には一人の女性が座っていた。その姿は先ほどの天女達がかすんでしまう程に美しく、この世のどんな輝きよりも燦然としている。
座席をすすめられて楽にして欲しいと言われても、自然と背筋がぴんなった。そんな姿を見て女神様は笑顔で迎えてくれる。
「お母ちゃん。昨日言った桃太郎と誾ちゃんだよ」
「そのようで。お初にお目にかかります。私は誾の母親でここで太夫をはらせていただいております。この度は誠に娘が世話になったようで。感謝の言葉もありません」
「いやこちらこそ。彼女のおかげで俺も誾も助けられました」
「そうですか。それで、話が変わるのですが、鬼退治はいつ頃果たされそうでありますか。いえね、祝賀の予定を立てておこうかと思いまして」
「お母ちゃん、その事なんだけど」
また裏でこそこそ話が始まった。きっと入れ知恵したのこの人だな。それにしても父親もそうだが見た目がいやに若くないか。どうみても二十代後半。化粧しているからだろうけど、どう見ても子供がいるようには見えない。これが噂の美魔女というやつか。
「あらそうなの。なぁんだお母ちゃんと同じで既成事実作って無理やり結婚するハラだと思ってたのに残念ねぇ。男には押しと脅しよ。超優良物件なのに」
今とんでもない事言ったなこの人。
「君さえよければずっとここに居てくれていいんだよ。腕の立つ剣士を知っているから鬼退治はそいつに行かせてもいいし」
「お心遣いはありがたいのですが、祖父や祖母、それに村のみんなとも約束をして出て来たのでそういうわけにはいきません。それにこうしている間にも鬼は各地で暴れまわっている事でしょう。俺はそろそろお暇しようと思っています。あまり長居するわけにもいきませんから」
お父さんもなりふり構わなくなってきたな。それにしても自分でもほれぼれする程に筋の通った言い訳ができて心の底から鈴に感謝をしている。鈴が言葉の躱し方を教えてくれなかったら、また言いくるめられていた可能性もあった。まぁさすがに今回のは言葉で通らなかったら物理的に力技で押し切るつもりだったけど。
それからしばらく談笑して随分と気に入ってくれたようで、せめてものお詫びと感謝の気持ちという事で次の目的地の駿河までの馬車を用立てしてくれたうえ、名物の南高梅と珍しいお宝を譲ってくれた。
誾はしばらくこの地で養生するものだと思っていたけれど、俺があげた薄皮で包んだこし餡のまんぢゅうを目当てに鬼退治に同行するという。
紀州の地におりて三日。随分と長い三日間だった。まるでひと月はいたかのような錯覚すら覚える。
鈴に出会って誾に攫われ道満を討つ。言葉にしてみればたったそれだけだけど、様々な感情と想いが交錯する出会いだった。きっとこれからもそんな旅をするのだろう。少しの不安と多くの期待が胸躍らせる。
「桃太郎!」
「どうした鈴。まさかお前まで着いてくるなんて言わないよな」
「そりゃあ着いていきたいけど、私には私のやるべき事があるし、おかげでやりたい事が見つかったんだ。ありがとう、桃太郎。あなたのおかげだよ」
「ああ、こちらこそ本当にありがとう。鈴のおかげでいろんな出会いがあって、本当に楽しかった。いつかまた会いに来る」
「うん、いつでも遊びに来てね。今度はちゃんと歓迎するからね。それから鬼退治。頑張ってね」
「おう、ありがとう、鈴」
それだけ言うと鈴は満天の笑顔で手を振ってくれた。
俺も親指を立ててお互い頑張ろうなって応える。
嗚呼、今日も空は晴天なり。