輝く蝶、その行く末は 上
本州南端にある紀州藩は山と海に挟まれ、多くの幸に恵まれた地形。
特に港町で栄えた沿岸部には海路で商人が行き来することもあって宿場町としての顔も持ち合わせている。
人と物が行きかうということは全国の情報もやりとりされているという事。ならばきっと鬼の情報も噂になっているに違いない。
ともあれ、関所手形を取りに行くのに烏城と鉄覆山へ行き、そのまま松永から船に乗ったものだから、紀州へ着いた頃にはすでに日が暮れてしまった。
そこで目を疑ったのは町の風景だ。夜だというのに行き交う人通りは明るく、まるで昼間のような賑わいを見せている。これが都会というものか。田舎者丸出しでぼーっと辺りを見渡しながら町をふらついた。
慣れない土地というより、慣れない雰囲気に酔っているのがわかる。加えて、陽が沈むと共に就寝という生活リズムのせいか、疲れているのか、眠気も酷い。ひとまずどこか落ち着ける場所を探そう。
宿屋だ。宿屋を探そう。でもこういう所では泊まるだけの宿屋と泊まるだけじゃない宿屋があるというのをおばあちゃんに注意された。具体的な内容までは言っていなかったが、見ればわかるとだけ言われている。
見てもわからないんだけど。
もういっそ野宿でもいいかな。
辺りをきょろきょろしながらふらふらともたついているのを、親切心か、それとも鴨だと思ったのか、一人の商人風の女性が声をかけてきた。
「やぁこんばんは。あんたここいらじゃ見ない顔だけどどっから来たんだい?」
「笹々瀬川中腹の小さな村だ。おばあさんの大事にしていた物を盗られて鬼退治の旅をしてるんだけど、今は宿探しをしてる。どこか紹介してもらえないかな」
「へぇ、物ノ怪にはどこも苦労してるんだね。この辺じゃ、最近は鬼よりもっぱら三種奇怪の妖怪が暴れまわってるって話で持ち切りさ。しかし同じくらい、この時期に宿屋探しは大変だよ。なんせお祭り前夜なもんだからどこの宿屋も満員御礼ってね。でもまぁ馴染みの宿屋があるから聞くだけ聞いてやるよ。着いてきな」
どこも大変だなとうなずいて手を引かれるままに歩き出す。人混みをかき分けて一際大きな提灯をぶら下げた門のある屋敷に案内された。普通の人なら目を背けて走り去ってしまいそうな刺又を構えた強面の門番に、慣れた様子であいさつをしている。なるほど馴染みの宿屋というのは本当のようだ。
門を抜け、遠大な庭園の石畳をいくつも踏み進む。屋敷の大きさも装飾も、まるでお城と見紛う程の荘厳さを誇っていた。その輝きは月明かりと並び連ねられた提灯の光に照らされて怪しい雰囲気を帯びている。
街の通りも甘やかな香りを纏っていたが、ここは甘いなんてもんじゃない。足を出すたびに体がふわりと浮いてしまいそうな妖気すら感じた。
「どうしたの。こういう所は初めてかな」
「ええ、この歳まで慣れた土地から出た事がなかったもので、戸惑っている所です」
「んふ……そうじゃなくてぇ~」
不敵な笑みを浮かべ、上目遣いで俺の腕に抱き着く。そのまま彼女の右手が腕を伝って俺の右手の指をからめとった。何事か。理解できずに硬直する。その後も彼女は腕を放す気配はなく、逆に体を擦り付けるように迫ってきた。
視線を避け、反対側に顔を向けるとそこには影絵のように照らされた障子がある。このシルエットはどこかで見たことがあるぞ。そう、確かおじいちゃんの知り合いの家に行った時に見た春画にこんなポーズがあったような。
そして声が聞こえる。悶えるような、でも苦しくてあげている声ではない。
まさかここは、あの噂の。
「遊郭は初めてなんだね」
耳元で優しく囁かれて、全身がビクつく。息が肌に触れて心臓がバクついた。
どうしようどうしよう女性はともかくこういう場所での経験も耐性も皆無。振りほどこうとすればダッシュでエスケープできるけど俺の力でつっぱねたら華奢な彼女は吹っ飛んでしまうだろう。
思考がぐるぐる回ってどうするものかと悩んでいるのに、彼女はいたずらな笑顔を浮かべ、器用に俺の体を動かした。絹豆腐を力任せで持ち上げるのではなく、繊細かつ絶妙な技術で口へ運ぶように、流れるように暗い部屋へ押し込む。
このままだとやばい。何が起こるか分からないがとにかくやばい事になりそうだという事は分かる。なんとか引き離そうとするが、なぜか彼女も必死に食らいついた。今日会って数分しか経っていないのになんでそこまでしてくるのか。
どうみても貧乏そうな旅人に金銭を巻き上げようとでもいうのか。金目の物といえばおじいちゃんから渡された刀が一本あるが、これは命よりも大切な代物。絶対に渡すわけにはいかない。とはいえ女性相手に暴力的にもなれない。
手八丁口八丁で逃げ道を探してみるが、さすが商人で遊女というべきか、浅学非才の男の言葉などたやすくいなして返してくる。始末に終えないのが、決して俺の事を否定したりとか悪く言ったりせず、むしろ持ち上げてくる所だ。こういう物言いに男は心を口説かれてしまうのだろう。実際、頭の片隅に、そういうことなら仕方ないかな、とか、そこまで言ってくれてるならベッドインしちゃってもいいんじゃない、とか考えが浮かんでは理性で押さえつける戦いが繰り広げられていた。
どうすればいいかと顔を白黒させていると、不意にかぐやの顔が浮かんで消えた。
突然、何故という疑問はあったが、その答えはすぐに見つかる。
なるほどそういう事か。自分の心に正直になると自然と体が動いた。
彼女はその表情を見るなり観念したと思ったのだろう。覆いかぶさるように体を倒してくれば、俺は背中から仰向けに地に倒れ伏そう。
なぜなら、とても良い位置に部屋の柱があるからだ。ありがとうかぐや。お前のおかげでひとまずこの状況を打破できるよ。
そのまま頭を柱にぶつけて気絶した。
その家は百年続く遊郭として栄えている。さらに先々代は商売の裾野を広げるべく商家の道をも切り拓いていった。遊郭の女が商人を呼んでは情報を聞き出し、商家の男が的確な判断で稼ぎを出す。
実に合理的かつ効率的。姉達も兄達もその血を継いでか、女は遊女に男は商人になっていった。そんな合理的な名家に私は非合理的に育った。
六つの時まで姉の後ろを着いて回り、七つの時に禿となる。いずれは引込禿になるだろうと噂されるほど優秀だった。優秀なのだと持ち上げられていた。しかし、実際は違う。
引込禿になるということは姉達のような遊女の道を外れる事を意味する。つまり私は禿を務めている時点で遊女になれない烙印を押されていた。
ある日、酒に酔った男が私を名指しして言ったのだ。
『おめぇその年で胸が大きくなりすぎだよ。十五を超える頃には歩けなくなっちまうんじゃないのかい。女は心も体も控えめが美しいってのに。可哀相だねぇ』
それを聞いて頭に血が上るのを感じた。でも何も言い返せなかった。男の物言いは癇に障ったけど、何も間違った事は言っていない。抗いようのない現実を、ただ突き付けられただけだった。
自分の体があまりに不格好だという事は自分自身が一番よくわかっている。このまま胸ばかり成長していくのかと思うと、遊郭の家に生まれ、姉達のようになれない、入口にすら立てない、役に立たない穀潰しどころか世間から疎まれ爪弾きにされるのではないかと思っては、毎日枕を濡らし、体を震わせながら眠りについていた。
そんな不安と涙の日々を過ごしていたある日、転機が訪れる。いつものように感情を殺して姉とお客の世話をしていると、風変わりな老人が宴席の端で一人酒を煽っていた。他の商人方々は遊女と楽しく過ごしているというのに、この老人だけは一人違う世界で生きている。
不思議な老人を横目で気にしながらも淡々と仕事をこなしていると、彼はこっちを見て手招きをしていた。私の後ろには襖だけ。そこでようやく私を呼んでいる事に気づき、一度手を止めて彼の横へ歩み寄る。
「お嬢ちゃん名前はなんというのかね」
「わっちは鈴と申します」
「ほう鈴と言うのか。そうかそうか、突然ですまんのだが、儂の仕事の手伝いをしてはくれんかの」
「わっちはただの禿でございます。先生のような方のお手伝いなどとても務まりませぬ」
勿論この老人が何者だなんて知る由もない。ただ商人に交じってこの場にいるなら相当な知者であることは間違いないだろう。きっと酒の勢いで世迷言に似た事を言っているのだ。そうでなければロリコンだろう。
そろそろ仕事に戻ろうと、顔を上げてお断りの言葉を放つよりも先に彼は私の頭を押さえて言った。
「さすがは名家のご息女。噂通り賢そうな声色をしておる。お前は商人になるべきじゃ」
「お戯れを。女に商人の道などありますまい。女は男の三歩後ろを歩くのが幸せな人生でありまする」
「ほう、お前その人生を歩めるのか」
また、頭に血が上る。今度は前の比じゃない。血と一緒に怒りが込み上げてきた。この男は、暗に私には幸せな人生などやってこないと言っている。地に添えた手の平が畳の目に爪を立てた。怒りが抑えられなくて、体が震える。
感情を表に出すなど愚の骨頂。しかし、この時、私は初めて人を殺してやりたいと思った。それほどまでの忿怒と絶望を必死に堪えている。
こんな胸さえなければ。
今も体を折っているだけで勝手に胸が地についていた。胸に体が押されて頭を下げる事すら不格好。こんな姿を嘲笑されていると思うと死にたくなってくる。
なんで、なんで私がこんな目に。遊郭に生まれながら、生れ落ちた時から親の期待を裏切るなんて不孝を背負わされるなんて。私が何か悪い事でもしただろうか。これは罰なのか。だったら何に対しての罰なのだ。
私は神を呪った。
それから八年の月日が経過した。流れのまま引込禿になり、ただ無為な時間を過ごしている。感情を殺し漠然と生きる毎日。
ある日、買い物をして家に戻ると、父が誰かと話し込んでいる。客間の襖をがっちりと閉め、警護の門番まで構えていた。通常の商談なら遊女の姉達が入って篭絡する手筈だから門番を呼んだりしないし内側に鍵もかけたりしない。
それほどまで重要な話し合いなのだろう。自分には関係ないのだけれども。
買い物を飯炊きに渡し、自室に戻る前に次男の部屋が開いていたので少しだけ覗いてみる事にする。
壁一面には本棚と一分の隙もなく古今東西の本が収められていた。暇な時に好きに読んでいいと言われているから、時々ここに来ては読書を愉しんでいる。武芸の指南書から歌集まで幅広く取りそろえられている中、最も多いのは水墨画の画集。
次男は絵師になりたかった。
そんな夢をいつの日か語ってくれた事がある。でも商家の男として商売を任されるようになり、机に向かう時はいつも絵ではなく帳簿にしるしをつける日々。
夢を捨て家督を継いだ。
だからだろうか、次男はいつも笑顔だけど、どこか少し寂しげに見えるのは。
長男にもきっと夢があったんだ。長男はとにかく食べる事が好きで市場を中心に飲食物の取引を担っている。特に甘い物が大好物。禿を始める前はよく甘露屋に行ってはおまんぢゅうや団子を食べさせてくれた。
おいしいって言うと、本当に嬉しそうな顔をするんだ。自分が甘い物を食べる時より、ずっといい顔をしていた。
三男は金貸し。最も難しいとされる商売だったが、飄々した態度とは裏腹に男連中の中で一番柔軟で頭の回転が速い。何より視野が広く数年先の予測を立てて動いている。最も三良しの精神に忠実で世間が良くなるなら多少の損を引き受けるような、自己犠牲も持ち合わせている。だから人望も厚いし、金貸しというその人の人生を左右するような仕事をこなせるのだろう。
そんな三男にも突然視野が狭まる事がある。
月一の骨董市に必ず出かけ、何かしら買い付けてきていた。それが身に着ける事のない簪だったりとか、どこに置くのかわからない熊の置物だとか、人様から見れば実にくだらない骨董品。
でもそれが、きっと三男の夢の残滓。
私には芸術品の価値は分からなかったけど、兄がそれについて語る時は本当に生き生きとした表情を見せてくれる。そんな瞬間の兄が私は大好きだった。
水墨画の画集をぺらぺらめくって兄達に思いを馳せ終える。
私の夢は。
姉達のように沢山の人を笑顔にして、元気づけて、両親の期待に応える事。それだけを目指して生きてきたのに。そうなるといよいよ商人の道しかなくなるのか。あの老獪の言ったように。しかし商人は男の世界。女の足の踏み場などありはしない。
そう、だから、私にできる事は。
幼くして覚悟していた。親の期待に応える事ができないならせめて自分の幸せを犠牲にしなければならない。どこぞの好き物のお殿様にでも嫁いで政略結婚の道具にしてもらえるなら上々。そうでなくても、この身一つで恩を返せるならなんでもよい。
だから両親の勧めであの老獪の元へ行く事になっても、私は二つ返事で了承した。
まさかこのジジイの世話係になるとは想像だにしてなかったが、こうなってしまっては仕方ない。せめて死ぬまで介護してやるよ。
家屋は人里離れた山の中。外見はボロボロのくせに中は広く、頑丈な造りをしている。
個室を一つあてがわれて、そこが自分の部屋になったのだけど、使用人に使わせるにしては綺麗で、それこそ実家の私の部屋と遜色ないくらいか、それ以上に思えた。
あの男が何者なのかは分からないが、遊郭へ遊びに来るくらいだから相当な名と金の持ち主なのだろう。
芦屋道満と名乗るその男は自分の事を引退した陰陽師で、呪符を開発しながら生計を立てて隠居しているのだという。
最初はとてつもなく胡散臭いと思ったが、外見だけボロ屋敷のとんでもない設備を体感するなり、明らかに異常で、世俗からかけ離れて異質だという事を認めざるをえなかった。
夜でも昼のように周囲を照らす円柱状の提灯。しかも火を使っていない。
衣類を放り投げて蓋を閉めるだけで、洗濯から乾燥までしてくれる四角い桶。
極めつけは便所。厠は椅子に座るタイプでなみなみと水が溜まっており、レバーを押すと勝手に水が汚物を押し流してくれる。しかもボタンを押すと自動でお尻を洗浄してくれるときたもんだ。最初は驚きのあまり、人生で一番の大声を上げて絶叫してしまった。
だから思ったんだ。こいつは本当に何者なんだと。
城下町でもこんな奇妙で便利な代物など見た事はない。最も裕福な自分の家でも見た事のない物しかない。まるで違う世界で生きているような、そんな違和感しか感じない。
疑問はもう一つ。なんで私をここに呼んだのか。介護をするどころか自分で料理はするし、風呂も一人で沸かして入ってるし。挙句の果てには年寄り扱いするなという。
じゃあなんで私を使用人に雇ったのか。
過去の確執のせいで最低限の会話しかしてこなかった自分が、ついにその疑問をぶつけた。まさか老いた孤独の慰み物として私を選んだのか。
私の実情を知っているようだったし、哀れんでの事なのか。
「実は明日、ここに客人が来る。その子達の世話を頼みたくてな。先に来てもらったのはここの道具の使い方に慣れていて欲しかったからなんじゃよ」
それだけ言って、昼過ぎには出かけて行ってしまった。
次の日の道満は楽しそうに、小さな子供を三人連れて帰って来た。
肌は白く金髪碧眼の少女。褐色の肌に赤髪の少年。少女か少年かの区別もつかないような、どこか神聖で不思議な雰囲気を纏った女の子。いずれも異国の子供達。事情を聞くと親を亡くし天涯孤独の人生を歩んでいたという。そこを道満に拾われたのだそうだ。
十にもなっていなさそうな子供達と三か月を過ごした。彼らも私と同じく初めて見るものに目を白黒させながら、私とは違って楽しそうに毎日を過ごしている。
なんでそんなに楽しいのだろう。夢があるからだろうか。異国が物珍しいからだろうか。不思議に思って、なんの気なしに問うてみた。すると、思ってもみない返事が返ってくる。
「あたしはね、ここに来る前まで病気でずっとベッドの上で何もできずにいたの。窓から見る景色はずっと代わり映えしない。お星様とうさちゃんのぬいぐるみだけが友達だったんだ。いつしかママも来なくなってずっと寂しかった。でもあのおじいちゃんが病気から助けてくれて、みんなとお姉ちゃんと一緒にいられて、今ね、すっごい幸せなんだよ」
「俺はずっと採掘場から堀り出される石をベルトコンベアに乗せてたんだよ。毎日毎日飽きもせずさ。このまま俺の人生って終わるんだって思って。それが当然で、それが当たり前なんだと思ってた。でもそんな時、じいさんが教えてくれたんだ。それだけが人生じゃないって。ここだけが世界じゃないってさ」
「私はいつも沢山の大人達に囲まれて育ちました。神の巫女だとか供物だとか言われて。それが何なのかはよくわかりませんでしたが、いつも独りで祈りを捧げていました。何の為に誰の為にもわかりませんでした。だから私は意味のある事を求めて、ご老人の手を取ったのです」
彼等の言葉が、私の人生に重なった。一人で、何の為に生きているのかもわからず、ただよくわからないまま毎日を過ごしている。それを変えたくて、彼等は選んだんだ。
そんな姿がまぶしくて、羨ましくて、素敵だなって、心の底から思えた。もう一つ、心の奥から聞きたい事が噴出した。それが疑問ではなく、どうしても肯定してほしい願望だって事は分かっている。それでも、吐き出さずにはいられない。
「私も、みんなみたいに変われるかな」
「「「絶対変われるよ!」」」
即答だった。笑顔で向けられたその答えを、希望を、私は力いっぱい抱きしめた。
今ならわかる。あの日、芦屋道満が言った言葉は皮肉や罵倒なんかじゃなくて、純粋に私の事を想っての言葉だったんだ。ちょっと言葉を選ばなすぎなんじゃないかとも思うけど、ひねくれていたのは私の方だったんだ。
しばらくして私は勇気と自信を持って山を下りた。きっとこれからは大丈夫。へこたれそうになったら彼等の笑顔を思い出そう。きっとどんな困難だって乗り越えられるさ。
さぁ、そういうわけで、柱に頭をぶつけて気を失った男性をとりあえず介抱したにはしたのだが。無防備な彼を前に私の欲望と良心が囁いている。
『おいおい、ここまでしておいて何もしないってか。一目惚れして連れ込んだってのに何もないってか。明らかに自分から気絶しにいってただろ。これはもう受け入れるよってサインだろ。でうにでもしてくれって合図だろ』
『いけませんわそんな事。百歩譲って故意に気絶したとしても受け入れるという事では決っしてありません。むしろ彼の理性が拒んでいるという証拠です。そういう関係はちゃんと言葉にして紡がれるべきです』
『いや体だ!』
『いえ心です!』
天使と悪魔が息巻いている。私だってお年頃。悪魔の提案を受け入れたいが理性が想いを踏みとどまらせる。深呼吸をして心を落ち着かせよう。そうだ、もう一度、ちゃんと心臓が動いているか確認しよう。いや、決して彼の胸板にほうずりがしたいとかそんなんじゃないよ、うん。
耳をあてて男性らしい胸板の感触を確かめる。じゃなくて心音を確かめる。
ふひゃあやべえ、鍛えられた厚い筋肉やべえ。しかも腹筋われてる。シックスパックスだぁ。いや、ちょっと待て、これはエイトパックス!
そしてこの先は。この先はぁはぁはぁはぁぁぁあああああああ!
理性が崩壊寸前。ダメだもう辛抱たまらん。天使と理性を踏みつぶして馬乗りになる。胸倉に手をやって無理やり服を脱がそうとすると、布の端から一枚の紙束が現れた。取り払うとその紙には通行手形と書かれている。
ただの旅行者がこんな立派な手形を持っているなんて聞いた事がない。すると鬼退治というのは本当なのか。山陰で鬼が出たという噂は聞いているが、まさか事実なのか。少し熱が下がり、思考の渦の中で冷静さを取り戻した私は興味本位でその手形の中を覗いてみる事にした。
もし要人なのだとしたら私の身だけではなく家族や商売にも影響がでかねない。その考えが頭を冷やさせ失いかけた理性を取り戻させる。
さぁどれどれ中身を拝見しちゃいましょうか。
…………………ち・く・しょおおぉぉぉぉ!!
鬼退治って言ってたのは本当だった。手形の発行元は岡山藩藩主の池田輝政。そしてもう二つ。福山藩藩主水野勝成と剣豪宮本武蔵。胸元の裏地に施された刺繍に宮本桃太郎って書いてあるって事はこの人は宮本武蔵の息子か孫。とにかくこの男に不埒な行いをする事ができない。
輝政公に嫁いだ督姫は天下人徳川家康の娘。水野勝成は家康公の従兄弟。そして紀州藩主の親戚。もしも気絶してる彼と既成事実を作ったなんて事が知れたら……。
打ち首ですか?
獄門ですか?
そんなぁ、そんなそんなあんまりだぁ。
ぱったりと倒れて、せめて彼の胸の暖かさを感じるくらい許しておくれ。
でももし結ばれたなら、せめて夢の中だけでも、幸せを胸に抱き返しておくれよぉ…………。
蝋燭の火はすっかり消えて、夜の虫の音が心地よい。体の感覚がじんわり戻ってくるのを感じると、ゆっくり目を開けて辺りを確かめた。かすかは光を頼って、天井を眺めては畳の上に転がっている自分を笑う。
力技で彼女の事を拒んじゃったけど怒ってないかな。もしかしてかぐやが自ら気絶した理由もこれと同じなのか。だったら帰ったらきちんと謝らないとな。大きく深呼吸して気持ちを整えよう。布団をかけてくれたのか、心地よい重さを胸に感じる。
「あふん」
あふん?
女性の艶めかしい声のようだったが気のせいだろうか。寝ぼけ眼で、何か聞き間違えたのだろう。ひとまず顔でも洗ってすっきりしよう。寝返りをうって初めて気づいた。俺の体の上に女の子が覆いかぶさっているという事を。
とっさに背中に腕を回して抱き寄せた拍子に今度は俺が覆いかぶさってしまった。頭を打たないように反射的に体が動いただけで、決して故意ではない。断じて大きな胸を俺の体にむにゅっとさせたいとか、吐息のかかるところまで顔を近づけたかったとか、決してそんなんじゃないから。
不可抗力。そうこれは不可抗力なんだけどめっちゃいい匂いする。
無防備な表情は夜の月明かりに照らされていっそう怪しく見えた。はだけた衣服の隙間からつややかな肌がのぞく。そしてこの大きく育ったふくよかな胸。みんな女は体も心も控えめが美しいとか言ってるが、俺は全然そうは思わない。
落ち着け。落ち着け俺。紳士的に振るまえ。
いくら目の前の少女が好みのタイプだからってそんなことしちゃあいけない。
こういう事はお互いの了承なしにしちゃあいけないよ。たとえここが遊郭で、例え彼女が遊女だとしても、そんな事を考えちゃあいけない。
荒くなる鼻息を整え、彼女の体をゆっくりと解放する。そう、女性は優しく扱わなければならない。それが男の矜持ってもんだ。
「あ、んん。あぁ、最初はびっくりしちゃいましたけど、あなたになら乱暴にされても構いません。何度でもメチャクチャにしてください」
袖を優しくつままれて、力なく紡ぐその言葉に、まるで心臓に矢を撃ち込まれたような衝撃が走った。
何の事!?
え、それに最初って何。どういうことだ。
まさか、え、まさか、え?
知らない間にそんな事してたの俺。いやいやまさかそんなそんなまさかいやいや。
冷静になれ。よーく周囲を観察するんだ。
お互いのはだけた衣服。火の消えた蝋燭。微かに零れる月明かり。そして先ほどの彼女の言動。気絶した俺。
状況証拠だけで黒確定。
なんて事だ。まさか俺がそんな色ボケ下郎だったとは。自分でも気づかない内に獰猛な野獣を飼っていたのか。
自分に失望して頭を抱える。頭の中が混乱してまるで生きた心地がしない。めまいがして、体が宙に浮いて持ち上がるような感覚すら感じる。地に足が着いていないとはこの事か。
情けねぇ。ただ一言思考が巡り巡ってため息まででる始末。しかし事を起こしちまったとあらば誠心誠意償わなければなるまい。まずはしっかり話し合おう。許してもらえるかわからないがこの男桃太郎、きっちり責任はとらせていただきます。
さっぱりと目を見開いて彼女を見つめた。向き合うにはまず目を見て話す。目を見て話すが鉄則だが、どうにも目をそらしてしまう自分がいた。後ろめたいとか気まずいとかそんなんじゃない。彼女の向こう側に夜空のように輝く提灯。城の頂上から城下を見下ろしたように家々の屋根が軒を連ねているのを一望できる。
遠くてよく聞こえないが、随分と騒がしく人が集まっている場所があった。大きな屋敷の一角。俺の村が壊された時のように一部屋まるまる潰されている。まるで大きな獣が踏みつけたような姿だ。
うーん…………?
なんか超展開に続く超展開で、逆に頭が冴えてきたぞ。
おさらいしよう。宿屋を探していた俺は少女に手を引かれて屋敷へ入った。そこで、記憶はないが事を起こしてしまった。でも自分から柱に頭をぶつけて気絶したんなら自分からそういう積極的な行為はできないはずなんだけど。あれ、もしかして気絶したのって気のせいだったっけ。でも彼女があんな事言うなんて、でも普通に考えたらそんな事しないし。
うん、これについては考えても分からないから保留にしよう。
今の状況は――――――まだ抱き寄せる形で鈴が目の前にいる。そして俺達は何者かに咥えられて空を飛んでいた。そういえばこの辺には三種奇怪の妖怪が暴れまわってるって言ってたっけ。
牙が見えた。空を飛んでいるが嘴のような形ではない。獣のような舌を持っている。俺達を噛み砕いていない所を見ると食べたりとか殺すのが目的ではないようだ。いや、巣に持ち帰って食うのかな。
暴れても、拍子に飲み込まれるか空から地上に真っ逆さまに落ちていくかの未来しか見えない。俺はどっちでも助かる自信はあるが、鈴がいるとなれば話は別。ここはひとまずおとなしくしておくのがベストだろう。
落ちないように鈴の体を引き寄せて、地上に降りるのを待つ。どうもねぐらは滝の裏。それも神社の敷地の中とくれば、なるほど良い隠れ蓑かもしれない。
吐き出されるかと構えていたが、まるで子猫を加えた親猫のように、優しく手放した。
新緑に澄まされた冷たい空気の前にそれはただ俺を見つめている。相対してその異形の姿を見ても、不思議と恐怖はなかった。むしろ神聖な、神の使いのような雰囲気すら感じる。
「お前はなんで俺をここに連れて来たんだ」
それだけ聞いて、ついて来いと言っているように物ノ怪は滝の裏手へ姿を隠し、その背中を追って洞窟へ入った。
岩は大きな口を開いて、壁一面には人工的に掘り出された模様が浮き彫りにされている。きっと神社の御神体が祀られている場所なのだろう。光る苔は足元を照らして、神様の元へいざなっているようだった。
最奥の部屋。突き当りの壁にはやっぱり御神体を祀った祠が立てられている。やはりこの神様の化身なのか。感心して見とれていると、突然視界に少女が現れた。百二十センチ程度の小柄な少女。ボロ布に身を包み、懇願するような目で俺を見上げている。
その視線に戸惑い、内心ではもう一つの疑問が突き付けられた。先ほどまで前を歩いていた大きな獣はどこへ行ったのだ。隠れる所も、ましてや別の通路だってなかった。忽然とその姿は消えたのだ。まさかこの少女がそうなのか。
じっと見つめられ、蛇に睨まれた蛙のような気持で声も身動きもできない。金縛りにあっているように、ただ彼女の瞳を見てこう思った。
なんて悲しい目をしているのだろう。
何かを救いたい。でも自分ではどうしようもできない。誰かに縋るしかできない自分を呪い、嘆いているような、そんな感情が二つの眼から感じる。
「突然の無礼、どうかご容赦下さい」
少女は頭を地に伏して、俺の足元に両の手を添えた。かしこまった態度につられて鈴を背から降ろし、同様に膝を揃える。やっぱり何か事情があるのだ。自分ではどうしようもない何かが。
「えっと、それはいいんだけど。何か俺達に用があって連れて来たんだよね。何か訳ありそうだし、よかったら話してくれないかな」
「ある男を殺して欲しい」
うわぁ、よもや殺しの依頼だよ。しかも人間相手とはこいつぁ困った。鬼や物ノ怪の類なら法には触れないのだが、人間とあっては話は別。罪人であっても手前勝手に殺しては罪人になる。まさにミイラ取りがミイラになるってやつだ。
たとえそれが神の使いの頼みであってもおいそれと承諾するわけにはいかない。
「その、話が前後して申し訳ないんだけど、君の名前を教えてもらってもいいかな」
「鵺。そう呼ばれていたが、その名は嫌いだ。お前が決めてくれ」
この子、人を困惑させる天才か。
人の名前なんて決めた事ないし困ったな。俺の場合、桃から生まれた男のだから桃太郎って、結構安直につけられた名前だけど、別に嫌だってわけじゃないよ。ただ女の子にはもっとこう気の利いた名前がいいよなぁってだけの話。
「じゃあ誾ってのどうかな。君の声、洞窟の中でも透き通ってよく聞こえるし。ダメかな」
「誾。じゃあそれで」
「それじゃあ誾。なんでその男を殺して欲しいのかって、せめて理由を聞かせてくれないかな」
それから彼女は涙ながらに事の顛末を教えてくれた。むせび泣きながら、その小さな体を震わせて、懸命に言葉を紡いだ。頬を伝う感情が憎しみではなく、怒りでなく、どうしようにもできない悔しさだと知ったのは全てを聞いた後だった。