恋心、波立思いは揺れに揺れ 下
昨夜はよく眠れなかった。
それもそのはず、あの後、俺は暴れて利家の胸倉を掴んだところで取り押さえられて牢屋に入れられたのだから。しかも天然の鍾乳洞を牢屋替わりに使ってるもんだから寒くてかなわん。厚手の服を買って着といて本当によかった。
それでもやっぱり寒い。風はないにしても地下水の流れは海風より冷たい。単純に温度が低いだけがこれほど背筋を凍えさせるとは思わなかった。特に耳が痛い。俺も喜媚と同じモフモフニットを買っとけばよかった。
それはそうと鬼退治。短いようで長い旅だった。吉備を出て紀州へ赴き、駿河では地獄天国巡り。果ての土佐国にて鬼に会う。
それが恋をしたただの人間だったとなれば情も湧くというもの。
たしかに彼は俺の故郷を半壊させた張本人。とはいえ幸いにも死人はでなかったし、道中、鬼が暴れたという噂もない。彼の中の鬼は身を潜め、暴れる機を狙っているのかもしれない。将軍からの命令が出ているというのなら無視もできない。男がやると決めた事を途中で投げ出す事もできない。
頭では分かっている。
頭では分かっているけど……心が温羅を斬る事を拒んでいるのだ。
「やっほぅ。おにぎり持ってきてあげたよ。鬼退治だけに、なんちゃってね。お腹すいてるでしょ」
「徳が高いわりに悪い冗談だな。食うけど」
「ごめんごめん。それにしても昨日のはマズかったっしょ。気持ちはわかるけど大名様に飛びついちゃダメダ~メヨ」
「反省してるよ。俺だけじゃなくてお前らにも迷惑かけた。それに俺を送り出してくれたおじいちゃんたちにも顔に泥を塗っちまった。本当にすまねぇ」
「分かってるんならオケ〇(まる)じゃん。それにきっちり鬼退治すれば昨夜の暴挙は不問にしてくれるって。さすが天下の傾奇者っすわよ」
「俺は……やっぱり温羅を斬る事はできねぇ」
「それでも利家様は君に斬首人を任せる気でいるよ。君のその刀と、そして君以外に任せられない、ってね。オレチャンも桃君の事、信じてるから」
柄にもなく真剣なまなざしをしている。まるで死地に居て背中を預ける戦友に向けるように言葉を告げ、次に覚悟を決めたように笑った。それだけ見せて渾沌は振り向きもせず牢を出る。
俺に任せる、か。
そりゃあ温羅を斬れば晴れて鬼退治は終わる。長い旅に終止符が打たれる。
それでいいのか?
そうなれば乙姫は泣くだろう。女の涙は見たくないもんだ。これまでの旅もそうだ。
鈴の涙も誾の涙も、喜媚の涙も見たくなかった。思い返せばそんな単純な理由で寄り道をしていた。翡翠の簪を失くした時、おばあちゃんの悲しむ顔を見ていられなかった。
ならば……どうすればいい?
斬首はお天道様が登りきり、その威光が罪人に最も強く降り注ぐ時刻。
場所は竜宮城の縁側前の石畳。周囲には見届け人として利家配下の武将や役人。竜宮城の神官や使用人らが見守っている。
上座に悠然と構える前田利家。ひじ掛けに腕を置き、まるで絶景を愉しむように頬杖をついて鬼を見下ろす。
隣には付き人に両腕をがっしりと掴まれて身動きのとれない乙姫の姿。猿轡までつけられて、温羅とどちらが罪人かわからない程、髪も衣服も乱れ、その形相は悲しみと口惜しさと、それらを凌ぐ怒りに満ち満ちていた。
ここに至るわずかな時間、思案を巡らせてはみたものの、結局俺は刀をとった。
男の言葉に嘘を吐かない為。ここまで来た道のりに報いる為。温羅の為。乙姫の為。かぐやの為。俺を支えてくれた全ての為に。
理由は色々あるけど俺なりの答えを今ここに示そう。結果として正しいとか間違いだとかは、人生に於いて分かるものではない。だったらせめて己が正しいと思った事を成す。たとえ命を落とそうとも、心が正しいと思った事をしよう。
「さぁ時は満ちた。桃太郎よ、見事、貴様の鬼退治、果たしてみせよ!」
利家からの喝を受け、一つ深呼吸をした。風に乗る磯の香り。照り付ける太陽の暖かさ。生きている事に喜びを感じる。
温羅はどうだろう。向けられる刃を見て故郷を想っているのだろうか。愛する女に生きて幸せにってくれと願っているのだろうか。ちらりと見える横顔は穏やかな表情をしていた。
利家の胸倉を掴む俺に彼は、これでいい。罪は償わなければならないんだ、と言っていた。
悲しそうな目で、悔しそうに眉をしかめて。
利家はまるで子供がじゃれあう様子を見て微笑ましく思うような視線を送っている。
恋敵を斬るならあんたが適任だよ。直接手を下すのは躊躇われたのか。
そんな神経してなさそうだ。ならなぜ、俺に任せると言ったのだ。俺こそがふさわしいと信じたのだ。
まさか、もしかして。だとしたら、なるほどこいつは傾奇者。とんだ悪役もいたもんだ。
カッコイイ大人ってすげえな。本当に頭が上がらねぇよ。おじいちゃんも池田のおっちゃんも水野のおっちゃんも、あんたも凄い人だよ。俺もそんな大人になりてぇな。
だからよ、俺の口上聞いてくれや!
「生まれは吉備、性は宮本、名は桃太郎。幾億の道の果てに土佐国にて本懐を遂げまする。わが父、剣豪宮本武蔵が拓きましたるは天下無双の活人剣・二天一流。この一振りこそ魔を断ち、鬼を斬る破魔の剣【鬼哭千桜】。彼の技、この一振りにて鬼を斬ってご覧にいれましょう!」
鞘から刀身を抜き鬼の側面に構えた。俯いて露わになったうなじに狙いを定め、振り上げて、振り下ろす。
そのまま刀を鞘に納めた。
終わった。
天は清々しい程に青く透き通っている。こんなにも空を高く感じたのは初めてだ。どこまでもどこまでも、地平線の向こうまで青色が広がっている。まるで心の雲が吹き飛んで輝く青空を仰いでいるようだ。
空気を小さく吸い込んで、次は大きく吸い込んで。
「これにて、宮本桃太郎の鬼退治、本懐を遂げ申した!」
「見事ッ! この前田利家、確かに見届けたぞ! さぁ酒をもて、音を萃めよ! 飲めや踊れや歌えや騒げや! 此度の祝いは無礼講。構う事なく雪洞を抱け!」
呆然とする乙姫と温羅を他所に利家も家臣も、両腕を抑えていた侍女も神官も大喝采。
俺はそれより肩を落として安堵のため息を吐く方が先だった。緊張の糸が切れて倒れそうだ。すぐにすぐ、彼らのように踊れない。しばらく木陰で、はぁ~やれやれ、って感じで傍観させてもらうとしよう。
「どうしたご両人。桃太郎のおかげでようやっと鬼は退治されたのだぞ。喜ばんかい! そ~れ今宵の主役のお通りじゃい。一曲躍ってもらおうかいのぅ!」
背中をドンと叩かれて宴の席の真ん中に突き出された二人は、まるで狐につままれたように目を白黒させている。先に正気に戻ったのは温羅の方。乙姫を捕まえて生きていると喜びのあまり姫にくちづけ。彼女もようやく目が覚めたようで涙を浮かべて互いの生を確かめた。
鬼を斬る。
温羅に憑いた魔を断ち斬って鬼退治はめでたしめでたし。
それに気付いた只人の喜びようときたら、本当に、見ていて微笑ましくなるほどだ。
「おい桃! 美味い酒に鯛の刺身だ。ヒラメの姿煮もあるぞ。あっちにはまんぢゅうもある。食わぬならあたしが全部食っちまうぞ!」
「そろそろ熱は冷めたかな。君は踊りもいけるクチだろ? 夜風が熱を拭いさるまで、同じ阿保なら踊ろじゃないか☆」
「あたち、みんなのためにびわをひいてうたっておどってあげる! ももたろーもいっちょにうたお!」
そうだ。そうだよな。同じ阿保ならなんとやら。浮足立ちはそのままに、笑顔の集まる方へ飛び込んだ。
歌って踊って、飲んで食って、誰かは物陰で吐き出して。やれやれ帰ってきたならまた飲んで。繰り返すうちに夜は更ける。灯る雪洞抱きしめて、石灯篭に背を預け、現を忘れて夢の中。風邪を引かぬようにとお月さまが見守っている。
誾も胡喜媚も渾沌も積み重なって夢の中。
俺もそろそろ瞼を閉じたいものだけど、まだ一言、利家に礼を言えていない事を思い出した。うつらうつら用を足しにいく男を捕まえて、利家の居場所を聞いてみたが、いつの間にか越国へ一人で帰ってしまっていた。
残念と思うよりも、そりゃそうかと納得する。
好いた人を横から現れた赤の他人に持って行かれ、それでも好いた人の幸せを想って自ら悪役を買って出た。どれほどの覚悟か。どれほどの勇気か。よもや測りしれるところではない。この世知辛い世に己の心を打ち付ける。なんと大きな背中だろうか。
そんな男の涙を見せぬ為に、彼はこの地を後にしたのだ。
「桃太郎さん。よいところにおりました。利家殿をお見かけしませんでしたか。どこを探してもいないのです」
「利家殿なら先に越国へ帰られたそうです。私も今、知りました」
「…………そう、ですか」
彼女も俺と同じで利家に伝えた言葉があるに違いない。いや、俺なんかよりずっと沢山の言葉を贈りたいと思っているはずだ。とても残念そうにつぶやいて、彼女は部屋の奥へ消えていく。
翌日、乙姫はお礼がしたいと言って俺達を宝物殿へと案内してくれた。
最初に勧められたのは漆塗りの玉手箱。なんか分からないが直感的にヤバい気がしたけど、扉を開けてすぐその心配は消え去った。どういうわけか、玉手箱は開けられ中は空っぽになっている。誰かが侵入した形跡はないのに何故。疑問は残るが、元々中身の伝えられていない宝物だったから探しようもないし、気にする程の事ではないだろうと言う事で玉手箱の謎は一時保留となった。
「それではこの龍の首の珠などいかがでしょう。驪竜と呼ばれる黒い龍から授かったとされるこの世に二つとない宝物です」
「お心遣いはありがたいのですが、俺としてはその……あなたが今している翡翠の簪を譲っていただきたのです。それは俺のおばあちゃんがとても大切にしているもので、おじいちゃんとの大事な絆の証なのです」
「ぅ…………それは……」
言葉が濁るのも無理はない。
盗品と知っていてもそれは好きな人からの贈り物。簡単に手放したくないのは分かる。だけど俺は鬼退治以上におばあちゃんの宝物を取り返す為に旅をしてきた。これだけは絶対に引くわけにはいかない。
沈黙する彼女を、温羅は優しく抱きしめて、結った髪から簪を引き抜いた。
俯いた顔を上げると同時に、ごめんなさいとありがとうを込めて、温羅は彼女の涙を拭って諭す。
「ごめんよ。それから俺があげた簪を大事にしてくれてありがとう。でもこれは、桃太郎のおばあさんの大事な物なんだ。返さなければならないんだ。どうか分かっておくれ。本当にすまない。故意ではないにしろ君の大事な人の心を傷つけてしまった。簪はこの通りお返しします。だからどうか許してはくれないだろうか」
「ああ、これさえ無事に返してくれれば何も問題はない。ありがとう」
「君から礼を言われる事なんてないさ。むしろ俺達の方こそ桃太郎に礼を尽くさねばならない。助けてくれて、鬼を斬ってくれてありがとう。俺の大切な人の笑顔を守ってくれてありがとう」
俺としては簪さえ返してくれればそれでよかったけど、乙姫はそれでは私の気がすまないと言って、半ば強引に宝物をいくつか譲ってくれた。
そのまま土佐国から越国へ船で戻り利家殿にお礼を言わねばと探しまわり、最初に出会った呉服屋へ赴く。そのあいだ、何か奇妙な違和感を覚えながら町の様子を覗いていた。
おかしい。みんな秋用の服を着ている。一昨日よりだいぶ暖かい気もするし、俺達を見てこそこそと噂話をしている人もいた。
呉服屋の暖簾も色が違う。一日ごとに模様替えをしているのだろうか。そんな几帳面で変わり者の店主には見えなかったけど。
疑問はいくつも湧くけれど、とりあえず中へ入ってみましょうか。
「ごめんください。お尋ねしたい事があるのですが」
「あらまぁあんたたち、随分と長い間、土佐国にいたんだねぇ。それにしては全然歳をとってないみたいだけど、一体全体どうしたんだい。まさか物の怪の類じゃないだろうねぇ」
みんなで顔を見合わせてみて、誰も店主の言っている言葉を理解できないと確認した。
随分長い間?
歳をとっていない?
言ってる意味が分からない。土佐国には二泊三日しかしてないはずなんだけど、まるで数年の時が経っているような物言いではないか。記憶の片隅に置いておいた玉手箱が脳裏をよぎる。いやまさかそんなはずは。何か嫌な予感はしていたが、アレの中身に何か原因があったのではないか。根拠はないがそんな予感が背筋を走る。
「変な事を聞くんですけど、俺達ってあなたと出会って何年経ちましたか?」
「本当に変な事を聞くねぇ。もうかれこれ七年になるよ」
え、七年。一昨日に海を渡って帰ってきたら七年経ってたって事?
徳の高い渾沌にも事態は不明の模様。胡喜媚も誾も原因について心辺りなし。
分からん。分からないなら同じく土佐国に渡った利家に話しを聞くしかあるまいて。
そう思って店主に利家の居場所を聞くと、何言ってんだい、と大声が返ってきた。
小高い山の中腹。石階段を少し登って一体の石碑の前に手を合わせる。
前田利家之墓。
石碑には確かにそう刻まれていた。あの時感じた、何か忘れているというのはこの事だったのだ。俺が鬼退治に出た時点で利家はすでに故人だった。
幽霊に出会ったのか。そんなんじゃない。あの実在感は本物以外の何者でもない。
なんだったのだろうと思って、すぐにどうでもいいかと落ち着いた。
大切な事は幽霊か本物かじゃない。彼がいなければ本当に温羅を斬っていたかもしれない。彼が助けたのは乙姫と温羅だけでない。気づかぬうちに俺も助けられていた。
ただ一言、ありがとう、とつぶやいた。




