幕間 [仏の御石の鉢]
ある冬の日。餌を求めて尋ねた竹林で不運にも猟師の罠にかかってしまった。足ががっちりとはさみこんでしまい自分の力ではどうしても外すことができない。真新しい罠はついさっき仕掛けたばかりと分かると、当分はこのままの動けないのだと肩を落とした。
幸いはさまって取れないというだけで怪我はしていないのだが、じっとしているだけだとさすがに寒い。空を飛べるのは夕方だろうか。明日だろうか。ともかく時間の流れが本当にゆっくり流れているようで嫌だった。
もしかしたらこのまま死ぬかもしれない。今はまだ晴れているが山の天気は変わりやすいから吹雪にでもなればひとたまりもないだろう。
もしも罠を仕掛けた猟師に会っても殺されるかもしれない。そう考えるとどうしようもなく怖くなる。体力を温存するために横たわって何も考えないようにした。心臓の鼓動だけが体を揺らす。
太陽が真上を通り過ぎて沈みかけはじめた。もうこうなったら今日の間に人は来ない。太陽が沈めばみな寝静まる。殆どの生き物は太陽とともに起き上がり、沈むと共に夢の中。
特に人間は夜になれば暖かい布団に入って安眠を得る。
羨ましい。雨風に怯える事なく柔らかな布に包まれて眠る事ができるなんてどんな心地なのだろう。私達とは比べ物にならないほど沢山の時間を過ごすと言うがいったい何をするのだろう。
一度でいいから彼等と同じ安心を味わってみたい。
少しの時間でいいから人間になってみたい。
認めたくはないけれどきっとここが私の終わり。だからせめて楽しい夢がみたい。人間になる夢がみたい。
夢は幸せで満ちていた。だけど現実はいつも無情に襲い掛かる。いっそこのまま望む夢の中で永遠を生きたい。それはどれほど幸せな事だろうか。
現実に揺り起こされて、目の前の景色が一変していた。ぱちぱちと小気味よい音を鳴らす囲炉裏。風雨を遮る木の板には影絵が三つ。老いた夫婦と小さな女の子の声が聞こえる。
ここはどこだろう。助かったのだろうか。自分の置かれている状況が理解できずあたりをきょろきょろとしていると、人間の女の子が私に気づいて近づいてくる。
「おじいちゃんおばあちゃん、鶴さんが目を覚ましたよ」
「おおそうかそうか。それはよかった。どれ罠にかかっていたけれど怪我はなかったね。だけど随分弱っているようだから元気になるまで看てあげようね」
「わかった! じゃあ私が面倒見るね!」
そう言って背中を優しくなでる小さな手はとても優しくて愛おしい。これが人のぬくもり。
群れをはぐれ一人放浪していた私が最後に望んだ景色がここにある。人間になるなんてできないのは分かってた。だけどせめてこの時間を味わいたい。
人間にして五歳の女の子は本当に笑顔を絶やさない元気な子だった。いつも私の事を気にかけてくれたし時には一緒に遊んだりもした。一番幸せだったのは彼女と添寝をした時だ。布団の中で横になると彼女は私の意志を汲んで毛布を掛けてくれたんだ。とても暖かくて気持ちが良かった。涙が出るほどに幸せだった。夢が叶ったのもそうだが彼女と一緒に居られる時間がとても愛おしい。
この時間が永遠に続いて欲しいと願った。
私は日に日に元気を取り戻していくのに、おじいさんは日増しに体調が崩れていく。お医者さんに看てもらっているけれど一向に良くなる兆しがない。ついに寝たきりの状態になってしまう。
医者が言うには何か毒のようなものが体内に入り、潜伏期間を経て発病したのだとか。すぐに治療すれば治るようなものだったが時間が経ちすぎて手遅れになってしまっている。できることは延命だけだと宣告された。
それを聞いて私はすぐに飛び去った。きっとあのトラばさみに毒が塗ってあったんだ。外した拍子に手を怪我してそこから毒は入ったに違いない。ならばおじいさんの病は私の責任だ。なんとかしなければ。
場所は富士山頂浄土の門。仏様の持つ御石の鉢はどんな病をも治すといつかどこかで聞いた事がある。
極楽浄土はつまり死出の旅。この命はおじいさんに助けられたもの。その時すでに私の人生は自分一人のものではなくなった。
翼を広げ光の中へ飛び立つ。するとどうだ、言いようのない幸福感で心が満たされていく。全てがどうでもよくなっていくような感覚に身を浸してしまいそうになる。
原罪を背負う生き物が浄土へ踏み入れてこの世に帰ってこれない理由がここにあった。悉く罪を赦される世界は解脱に至り救済される。それ故の幸福感。
けれど、違う、まだだ、私の求める幸福はここにはない。
おじいさんとおばあさんとかぐや姫のいるあの場所にある。
ひと際光り輝く空を目指し、目の前にして声が心に降り注いだ。
「あなたの覚悟、しかと受け取りました」
「おじいさんの病は私が原因なのです。どうか仏の御石の鉢をお譲りください。代わりにこの命、身一つ全てを捧げる覚悟はできています」
「いいでしょう。しかし御石の鉢は人の世に余るもの。あなたの恩人がこれを使うに能うかを見なければなりません」
光の声はおじいさんが正しき人間であるかどうかを試すためある試験を与えた。
私は人の姿を借りおじいさんの家で機を織る。その間、襖を閉め決して覗き見ることのないよう約束する。一か月の間その約束を守れるのならばおじいさんの事を信用し御石の鉢を授けてくださるという。
すぐさまおじいさんの家へ戻り居候をさせてもらう代わりに機を織らせて欲しいと頼んだ。
人の良いおじいさんとおばあさんは見ず知らずの私を快く受け入れただけでなく、機を織る際は決して覗き見ないで欲しいという不可思議な理由にも同意してくれた。
前にも増して容体が悪化しているおじいさんを見て胸が痛くなる。私を助けなければこんな事にならなかったのに。今頃大好きな娘と竹細工なんかして遊んでいただろうに。どうか、どうか一か月もってください。
寝る間も惜しんでひたすら糸を通す。経糸を結んで横糸を滑らせた。
あと二十日。
もう十日。
やっと三日。
残り三日なのに。
襖を開ける音がする。ゆっくりと引き摺り、まるで地獄の門が開かれるように軋む音。
待って!
開けてはダメ!
扉には縋るように地を這いずって、倒れそうな体を必死に支えているおじいさんの姿があった。昨日までは起き上がる力もなかったのにどうして今になって。目も不自由になって体力も衰えて、初めて会った時とはまるで別人のように衰弱しきってしまった。ようやっと恩返しができると思ったのに。
「お鶴さんや、頼みたい事があるんだ。儂はもう長くない。だからどうか、せめてかぐやが独り立ちできるまで見守っていてもらえないだろうか。おばあさんももう年で長くはないだろう。あの子は儂らの最期の希望なんじゃ。生き甲斐ないんじゃ」
「あ、ああ、おじいさん。私は……私は……」
あなたを助けたかった。恩返しがしたかった。
もう言葉が発せない。みるみるうちに人の姿は元の鶴へと戻っていってしまう。貴方の願いを叶えようにも鶴の姿ではどうにもできない。こんな姿じゃ人の子を育てるなんてとてもできない。
ごめんなさいも言えないで私はおじいさんの家をあとにした。三日三晩飛び続け光の声の持ち主のところまで駆けつける。せめてもの容赦を、せめてもの情けを求めて頭を垂れた。
「どうかお願いです。私に人の姿をお借しください。おじいさんは約束を破ってしまいました。しかしどうかせめて十年。かぐや姫が独り立ちできるまでの十年の間、人の姿をお与え下さい。その後私がどうなろうとも構いません。ですからどうか。どうか……」
「おじいさんの事は本当に残念です。一か月の間、その身は保ちませんでした。しかし、おじいさんは確かに約束を果たされました」
「…………と、おっしゃいますと」
「おじいさんは不幸にも目を患ってしまいました。そのせいであなたの姿を見てはいません。あなたが鶴の姿に戻ったのは後ろにいたかぐや姫があなたを見たからです。幸いにもかぐや姫はおじいさんに寄り添ったので鶴になったあなたを見てはいません。誰もあなたが鶴であるという事を知りません」
「では御石の鉢を。おじいさんを助けられるのですか」
「残念ながらおじいさんは先ほど息を引き取られました。御石の鉢を用いても助ける事はできません。死者を蘇らせる事は誰にもできないのです。ですが約束は果たされました。御石の鉢を渡す代わりにあなたの願いを叶えましょう」
「では私に人の姿を」
「よいでしょう。ただし一度人の姿になれば二度と元に戻る事はできません。あなたは生涯、人としての生を歩むのです。その覚悟はおありですか」
「おじいさんの恩に、心に報いる事ができるなら、望外の喜びでございます」
そうして人の姿を得た私はおじいさんとおばあさんと、それから忘れ形見であるかぐや姫の元へ向かう。お葬式には間に合わなくて、薄情者の烙印を押される覚悟でおばあさんにだけ事情を話した。おばあさんはにっこりと笑ってこんな私に感謝の言葉を贈ってくれる。
家の世話も了解してくれてかぐや姫も暖かく受け入れてくれた。
そして十余年。こんな形で仏の御鉢の鉢と対面するとは夢にも思っていなかった。
あの時、間に合っていたならば、きっとおじいさんもこの縁側で娘の成長を喜んでいたに違いない。
おばあさんはそんな私の心に気づいて、全てはなるべくしてなったんだ、と。
お鶴ちゃんがいてくれたからかぐやはあんなにいい子になったんだ、と慰めてくれた。
過去を悔いるのはいい。だが必ず前を向いて走りださなければならない。それが未来を生きる者の務めなのだから。
それはそうとこの仏の御石の鉢。正しく使えば病は治り、間違って使えば毒になるという言い伝え。手紙に書き記されていた注意事項をよく読んでおばあさんに使ってもらうと、日に日に体調がよくなっていく。
元々老体だからわずかな変化かもしれないが、それでも寝たきりの時間は少なくなったし、よく歩き回るようになった。
それはそれで良い事なのだが、もしこの御石の鉢の存在が悪しき者に知れたら大変な事になるのは火を見るよりも明らか。
後日、かぐやちゃんと鈴ちゃんにどうしようか相談していると、台所に置いておいた御石の鉢がない。そこらじゅうをひっくり返してみてもどこにもない。やばい盗られたか。おばあさんに聞いてみると、あれはおじいさんの墓の下に供えて来たらしい。
「最後は笑って逝ったけど、やっぱり苦しかっただろうから。せめて向こうで使ってもらえば少しは楽になるだろうと思ってねぇ」
それだけ言って子供達に引っ張られてお手玉を始めた。




