誕生花
偉大なる赤えんぴつに捧げる
花火が、あがっていた。
夏の夜空、むかつくほど静かで綺麗な夜空に、花火があがっていた。
そんなに大したものじゃない。近所の雑貨屋で買ってきた、三番目に安かったバラエティセットの打ち上げ花火だ。音も見栄えも、本物とは程遠い。
偽物だ。
でも、浜辺でひとり、海上で破裂し瞬く間に溶けて消える花火が、僕には違ってみえた。
花火はとても綺麗で、愛しくて。
そしてなにより、悲しくて。
馬鹿みたいに、涙がとまらなかった。
〇
海の家でバイトしようと言い出したのは、友達のオッズだった。タイガーウッズが好きすぎて、しつこく物真似をするうちに、彼の仲間内での名前はオッズになった。
「どうして海の家?」ぼくは純粋な質問をした。
「いやあ、親父に怒られちゃって」オッズは照れ笑いを浮かべた。「ほら、去年の夏休み、俺、ずうっと家でごろごろしてたからさ。親父が怒ったんだよね。ぐだぐだしてるくらいなら、バイトでもして社会経験積めって。だから、今年の夏休み、俺、家にいられないのよ」
「だからって、初バイトが海の家?」
「夏といえば海だろう。当然だ。それに、きっと、海なんだから水着の姉ちゃんいっぱいくるぞ? バイト代もらって目の保養して、一石二鳥。破廉恥な出会いなんかもあるかもな」
「ふうん」
八月のカレンダーが真っ白だったぼくは、オッズの誘いになんとなく乗った。断じて、破廉恥な出会いに誘惑されたわけではなかった。
バイト先とは、すでにオッズが話をつけていた。ぼくは、学校の終業式が終わってから、手ぶらで直接バイト先へ向かえばよかった。
電車とバスを乗り継いで到着したのは、海に面した、いまにも屋根が崩れ落ちそうなほど退廃した建物だった。ぼくは早々に、安請け合いしたことを後悔した。
しかし、オッズの表情は明るかった。
「なあに、心配ない。たしかに築年数は縄文まで遡りそうだが、ここは千葉で有名なビーチスポット。若い女の子がいっぱいくる。破廉恥な出会いの宝庫よ」
「本当だな? 家から遠い、交通費が嵩む、建物は古い、空気が臭い。いまのところマイナスポイントしかない。これで破廉恥な出会いがなかったら、ぼくは帰るぞ」
つい本音がでた。
その日は、海の家の店主に挨拶しただけで帰った。店主の黒くて太い腕には、呪文のようなタトゥーが彫られていた。
結論からいうと、バイト内容は過酷だった。
まず、集合時間が早い。朝八時に集まり開店準備をするのだが、そのためにぼくは朝五時に起床して、海の家へ向かわなければ間に合わなかった。
客のいない砂浜で、オッズとぶつぶつ愚痴をこぼしながら、客の残したゴミを拾った。花火の残骸なんかも拾った。
燃え尽きた花火は、砂にまみれて汚くて、ぼくはとても嫌いだった。
店が開くと、さすがは有名なビーチスポット、客が大勢押し寄せた。ぼくたちバイトは、濁声の店主に怒鳴られながら、汗だくになって一日中働いた。
オッズの言っていた、水着の若い女の子もいっぱい店にやってきた。だが、あまりに忙しすぎて、言葉を交わすどころか、まじまじと見詰める暇すらなかった。みんな、同じ顔にみえた。
「思っていたのと違う!」
帰りの車内で、ぼくとオッズは互いにもたれて爆睡した。
そんな日々が、目まぐるしく過ぎていった。
〇
バイトは、僕たち以外にも何人かいて、彼女もそのうちのひとりだった。
シフトが一緒になることは滅多になかったが、僕はすぐに顔を覚えた。
瞳が片方だけ青色の女の子で、歳はたぶん、僕と同じくらい。
気がつけば、常に彼女の姿を探している自分がいた。
「綺麗な目をしてるね」
隙間時間をつかって、僕は彼女に話しかけた。
正直、めちゃくちゃ緊張した。格好つけすぎたかもと、咄嗟に後悔した。
「ほんと? うれしい!」しかし、彼女は笑った。「綺麗なんて初めていわれた」
「いや、目が、目がね。目が綺麗ってだけだから」慌てた僕は、最悪の言い訳をしてしまった。
「私、小さい頃から左右目の色が違くてね、よく男子にからかわれてたの。褒めてくれたのは、あなたが初めてなんだ。とってもうれしい」彼女は気にした素振りもなく、本当に嬉しそうだった。
「生まれた時から、左右色が違うの?」
「うん。おばあちゃんがフランス人で、私、くおぉたぁなんだ。だから、目の色が違うの」
「ああ、そういうことか」くおぉたぁの意味は分からなかったが、僕は納得したふりをした。「だからそんなに可愛いんだね」
「可愛い?」
「ちがう。綺麗。目が、綺麗なんだね」
「もう、何度も言わなくていいよ」
「可愛くはない」
「目が可愛いって、変だもんね」
「うん。変だ。とっても変だ」
この変な感情が、きっと、恋なんだと思った。
彼女と一緒にするゴミ拾いの時間が、僕は大好きだった。誰にも邪魔されることなく、彼女と話ができた。
あれだけ嫌いだった花火の残骸も、僕と彼女の時間をつなぐ、貴重な架け橋だった。
僕は、わざとゆっくりゴミを拾った。
花好きの彼女は、なにも知らない僕に色々と教えてくれた。
「誕生花って知ってる? 実は、私たちが何気なく過ごす三百六十五日、それぞれの月日にちなんだ花があるの。たとえば、八月一日生まれの私なら、アサガオ。まさに夏の花、って感じ」
「へえぇ」
太陽に向かって、ぐんと誇らしげに胸を張るアサガオ。
「君らしいね」
「それって褒めてる? でも、ありがとう」
「僕の誕生花は? 誕生日が、三月十八日」
「三月十八日は、ハナミズキ」
「ぴんとこないなあ」
「ハナミズキは春の花ね。夏の花と、春の花、季節を隔ててる。私たち、もしかしたら気が合わないのかも」
「ははは」
彼女の冗談に、僕はうまく笑えなかった。
「ちなみに、誕生花にも、花言葉はある。アサガオの花言葉は、《愛情の絆》。ハナミズキは、なんと、《私の想いを受けてください》。きっと、あなた、これから好きな人に告白するのね」
「ロマンチックだね」
「うん。とっても素敵」
そういって彼女は、本当に、素敵な笑顔をみせた。
たぶん、僕はこのときに、覚悟を決めた。
〇
彼女に告白する。
そう決心したのは、八月三十一日、つまりバイトの最終日だった。
今日を逃したら、二度と会うことはない。僕は、そのことを直感していた。
彼女がどこの学校に通い、休日は何をしているのか、どんな友達と、どんなことをして遊んでいるのか、僕は何も知らなかった。知りたいとも、思わなかった。
だから、海の家のバイトという接点がなくなれば、僕と彼女のつながりも消える。
そんなことは明らかだった。
「いやあ、おまえら、よくやった。ホンットによく働いてくれたよ」
最終日前夜、店主の意外な計らいで全員集合した僕たちは、店主からの労いの言葉と共に酒を飲んだ。もちろん、未成年者の飲酒は犯罪だ。だが、それなりに親交を深めていたメンバー同士、野暮なことを言うやつはいなかった。
「俺達の友情は永遠に不滅だ! バンザーイ! バンザーイ!」
お調子者のオッズは完全に雰囲気にのまれ、裸でバイト達と万歳三唱をしていた。
一番に潰れたのは、僕だった。
ふと目を覚ますと、僕は、彼女の膝の上だった。
オッズが膝枕するように嗾けたのだ。
茶化されているようで腹が立ったが、ほろ酔いの彼女は、笑顔だった。
そこで意識が途切れた。
最終日は、今までの怒涛のバイト生活が夢だったと思えるくらいに、ゆっくとした時間が流れた。目を覚まさない者、二日酔いに苦しむ者で、海の家は死屍累々だった。
日が暮れ始めた頃、かろうじて動ける人間が、近所の雑貨屋で花火を買ってくることになった。僕と彼女も同行した。資金の都合で、三番目に安い、色々な花火が入ったバラエティセットを買った。
「今日で、終わっちゃうんだよね」
海の家へ戻る途中、彼女が寂しそうにいった。
「うん。あっという間だったね」
「なんだか不思議な感じ。学生の本文は勉強で、本来私たちは学校に通うべきなのに、ここのところずっとこっちが私の居場所なんだって思ってた」
「ちょっと分かるよ」
「でも、そんなのは気のせい。明日から、私も、みんなも、ここに来なくなるんだよね。みんな、元の生活リズムに戻るんだよね。元に戻るだけなのに、少し寂しい」
彼女と目が合った。
「あなたと会うのも、きっと、今日が最後ね」
「僕も、そう思う」
告白の言葉は、すでに決めていた。
告白の言葉は、ハナミズキの花言葉。
「だから、花火大会が始まったら、ちょっと抜け出してきてほしい。場所は、海の家から少し離れた、二本目の監視台の前。僕は先に行って、そこで待ってる」
「どうして?」
「どうしても」
「約束できないかも」
「それでも構わない」
僕は約束通り、監視台の前で彼女を待った。
自分で照らす懐中電灯の明かり以外、夜の砂浜を照らすものはなかった。
真の暗闇のなか、さざ波の寄せては返す無機質な音色が、虚空に響いていた。
僕は思いだしていた。一か月のバイト生活、そこで出会った彼女。彼女の笑った顔、照れた顔。色んな顔を、思いだしていた。
バイト仲間数人で、夜中に集まり、裏山の祠まで探検した。そのときにも、彼女は悪戯っぽく笑っていた。その笑顔に、彼女の誕生花、アサガオが重なった。ああ、僕は本当に、彼女が好きなんだと思った。
僕はずっと、彼女だけを見詰めていた。
遠くに、光が見えた。
暗闇の奥から、ゆらゆらと揺れる光が、僕に向かって歩いていた。
間違いない、彼女だ。僕は、確信した。
彼女を迎えにいかないと。そう思い、足を踏みだそうとして、止まった。
足が、動かなかった。
僕は、僕めがけて近づいてくる光に。
恐怖していた。
そのあとのことは、よく覚えていない。
記憶をとり戻したとき、僕は、彼女から逃げだした後だった。
たったひとり、明かりのひとつもなく、砂浜に立ち竦んでいた。
ただ、波の音だけは変わらず、寄せて返す音色を僕の耳に届けていた。
〇
ドドン
と、夜空に大輪の花が咲いた。
海の家の方角からだ。
夏の夜空、むかつくほど静かで綺麗な夜空に、花火があがっていた。
そんなに大したものじゃない。近所の雑貨屋で買ってきた、三番目に安かったバラエティセットの打ち上げ花火だ。音も見栄えも、本物とは程遠い。
偽物だ。
でも、浜辺でひとり、海上で破裂し瞬く間に溶けて消える花火が、僕には違ってみえた。
花火はとても綺麗で、愛しくて。
そしてなにより、悲しくて。
馬鹿みたいに、涙がとまらなかった。
無様に逃げだした僕に、やっと感情が追いついてきた。取り返しのつかない事態に、体の震えがとまらなかった。意味の成さない音が、僕の喉からもれていた。
本物だった。
僕の、彼女への気持ちは本物だった。本当に本当に、大好きだった。
だけど、言えなかった。言葉にするのが、恐かった。
――夏の花と、春の花、季節を隔ててる。
――私たち、もしかしたら気が合わないのかも。
彼女の言ったことは、事実だったのか? ハナミズキは春の花、アサガオは夏の花。一緒に咲くことは、最初から無理だったのか?
でも、もし、無理だったとしても。
彼女が、最初から手の届かない、高嶺の花だったとしても。
この気持ちだけは、本物だった。
本当に本当に、好きだった。
もう。
伝えることはできないのだけれど。
ドドン
花火があがる。
きっと、彼女も、どこかでひとりで、同じ花を見上げている。
〇
「綺麗だなあ」
花火を見上げて、ぼくは間抜けな声をだした。
花火大会が始まる直前、彼の後を追って、彼女は暗闇に消えてしまった。その時点で、ぼくの淡い初恋は終わった。いまごろ、二人は肩を並べて、この花火を仲良く見上げていることだろう。
しかし、しょうがない。ぼくは、仲間内でも極端に影の薄い存在だった。ぼくの恋心に気付いていたのは、友達のオッズくらいだ。そもそも、オッズに誘われなければ、こんな惨めな傷心を味わうこともなかった。あと百年は憎み続ける。
けっきょく、破廉恥な出会いにも、恵まれなかった。
それにしても。
いい子だったなあ、と思う。もちろん、彼女のことだ。心優しく、花好きの彼女は、こんなぼくにも気さくに話してくれた。
ぼくの誕生花は、忘れな草。
花言葉は、《私を忘れないでください》。
しかし、まあ、きっと忘れてしまう。みんなのために、海の家の店主とお酒を運んだのもぼくだし、花火を買いにいったのもぼくだった。だが、感謝するどころか、覚えている人もいない。
ぼくは、主役にはなれない。
恋物語の主役に立てるのは、彼や、彼女のような人間だ。
「脇役でも、生きてるんだけどね! ここにいるんだけどね!」
ぼくの虚しい心の叫びは、おもちゃみたいな花火の破裂音にかき消された。
了