アネモネ
僕は恋をしている。
この胸の高鳴りや、無意識な見栄を、話に聞くそれだと自覚したとき、僕は自分にもそれが起こり得ることなのだと驚いた。
「私は君の絵、かなりいいと思う。好きだな、そういうの」
先輩はキャンバスに向かう僕の隣から覗き込んで、僕が途中まで描いた油絵を見て唸った。
「ちょっと浮かれてて、でもどこか冷静で恥ずかしがってる」
キャンバスに描かれた少女を、先輩はそう評した。
ぼんやりとした光の中にくっきりと描かれたその少女は、きっと僕だ。手を伸ばした先にある光が遠すぎて、憧れるだけでその正体を掴めずにいる。
「君はどんな気持ちでこの絵を描いたの?」
僕の心臓がどきりと脈打つ。
この絵はまだ未完成です、と告げるのが精一杯だった。言ってしまったあとで、ただの見栄っ張りにしか思えなくなって、急に恥ずかしくなった。
先輩はくすりと笑って自分の席に戻った。
彼女の描く油絵は、すでにかなりの評価を得ていて、顧問からも期待されていた。
事ある毎に顧問は先輩を指導している。僕には適当なくせに。
部員の中では、顧問と先輩がデキているという噂があった。けれど、僕はそれを信じていなかったし、仮にそうだったとしてもどうでもよかった。
顧問には妻子がいたから、普通に考えてそれはあり得ないと思った。
「先輩は、どうして絵を描こうと思ったんですか?」
不意に、僕はそんなどうでもいいことを尋ねた。すると先輩は少し考えたあとで言った。
「最初はね、嫌いだったんだ。絵を描くのって」
「先輩が? すごく上手なのに」
先輩はカラカラ笑った。私だって下手くそな頃があったんだと目を細める。その仕草がどこか色っぽくて、僕は生唾を飲み込んだ。
「でも、先生がね、お前は絶対上手になるって言ってくれて、それで色々教えてくれて……。それからかな。好きになったのは。だって、毎日上手くなってるのがわかるんだもん」
また先生か、と僕は眉根を寄せた。
そんな僕には気づかずに、先輩は筆を置いて大きな背伸びをした。
「君は好き?」
「好きですよ」
先輩が好きです。でも、それを口に出すことができなくて、僕は先輩の質問の意味を理解していて、あえてそう言った。
本当は絵なんて大嫌いなのに。
先輩は面白そうなものを見るように僕を見てさらに尋ねた。
「本当に?」
その双眸に見つめられた瞬間、僕は見透かされたような気がして目を背けた。
「好きじゃなかったら、美術部なんて入ってません」
「そういうことを聞いたわけじゃないんだけどな。でも、まあいっか」
先輩はもう一度大きな背伸びをして立ち上がる。肩の凝りを解すように首を回した。
そうして部室の窓から外を眺めた。今頃なら、外の花壇にはアネモネが咲き誇っているはずだ。
「求めてるものが違うんだよね。本当は絵を描くのが好きなんじゃなくて、自分の中にあるものをキャンバスに叩きつけたいだけ。でも、全部を表現するには技術が足りなくて、それができない自分がもどかしくて、あーでもない、こーでもないって毎日悩んでる。ようやく完成したと思っても、本当に自分が描きたかったものとはかけ離れてて、小手先の技術に目が眩んで、本当にぶつけたかったのが何なのかわからなくなってる」
まるで自分のことを言われているようだった。
先輩はくすりと笑った。
「でも、よかった。君は絵が好きなんだね。だったら大丈夫。私なんかより、ずっとずっと上手くなるよ」
先輩はキャンバスの前に座り、何かを描き足した。すると満足げに頬を緩めた。帰り支度を始め、つい今まで描いていたキャンバスを僕に渡す。
「これ、君にあげる」
コンテストに出展するものではなかったらしい。
「自分で持ってるのはなんだか嫌だったから。代わりに君が持ってて。捨てないでね?」
「まさか。大事に保管しておきます」
先輩が去ったあとで、僕はそのキャンバスに描かれた絵に目を奪われた。
そこには難しそうな顔をして絵を描く僕がいた。
けれど、その表情は嫌悪感に満ちていたのに、不思議と絵が好きなのだと伝わってくる何かがあった。
先輩が何を感じてこの絵を描いたのかはわからない。
それにいつ描き始めたのかも。今日思いついて、すぐに描いたわけでもないはずだ。
いつから描き始めたのだろう。
キャンバスの端にはアネモネの花がくっきりとした色調で描かれていた。
まるで遺品のようだと思った。
*
「君は裏表の激しい人間のようだね」
美大の教授は僕をそう評した。
進学後、僕は自分が描きたかったものが何なのかを探すために、抽象画に手を出した。
けれど、それもなんだかしっくり来なくて、何も手が回らない状態になった。そんなとき、教授が僕を研究室に呼び出した。
それがきっかけで、僕は教授の教え子でありながら、同時に師弟関係を結んだ。
「コーヒーを淹れるのが上手な弟子が欲しかったところさ」
教授は僕がひとり暮らしだと知るや、真っ先に自宅の空室を僕に間借りさせ、僕の借りていた部屋を引き払うことになった。
教授は奥さんと死別していて、アトリエつきの広い家にひとりで住んでいた。子どもはいなかった。
僕が見た教授は、講師としては欠陥品で、人に教えるということが大の苦手だった。それでも教授なんて仕事をしているのは、彼の芸術に対する仕事ぶりと、つまるところ実績という名声があったればこそだった。いわゆる名誉教授みたいなもので、彼の自宅には時折美術商のバイヤーがやってきてはあれこれと世間話をした。
教授は絵を描かない。
もう十年も筆を持っていない。
「筆を持ったら最後、その絵を完成させるまで死ねないだろう?」
教授の口癖のようなものだった。
彼の自宅のアトリエで、僕はよく絵を描かされた。教授はそれを後ろで眺めているだけだ。
ペトロールの匂いが充満するアトリエ。換気扇はあったけれど、作業の最中に回すことは一度もなかった。段々と気分が悪くなるけれど、それを申告すると「もっと内側に籠もりなさい」とまで言われた。
換気扇は絵が終わってから使うのだという。一枚を完成させるまで、絶対に回さない。
「油絵ってのはね、色んな感情が全て重ねられているんだ。そのキャンバス一枚にね。私がこのアトリエの換気をしないのも――もちろん雑音が耳に入るのを避けたいというのもあるが――無駄にしたくないんだよ」
教授はアトリエに籠もる空気さえも積み重ねられたもので、それを外に逃がしたくないのだといった。換気扇を回すことで絵が完成する、と彼はそんなジンクスを持っていた。変人が多いとされる芸術家において、教授は表面上は一般人と大差なく装っていたけれど、その内側はご多分に漏れず変わっていた。
「君の好きな画家は?」
「とくには。どんな画家も凄いなあと思うだけで」
「そう、例えば写実的か、抽象的か。どちらが好みかな」
「どうでしょうか。僕は見るだけならどちらも好きです」
「じゃあ、描くなら?」
「どちらも……」
「――嫌いだろうね。私も嫌いだ。大嫌い」
教授はそう言ってくすくす笑う。
「考えても見たまえ。現代美術いや、あえて芸術と言おうか。例えば、真っ白な壁にバケツに入ったインクをぶちまける。様々な色を、だ。そうして無茶苦茶な色彩と、構成なんて何一つない、ただ自然の摂理によって放物線を描く大小様々な線が、縦横無尽に駆け巡るわけだ。これが芸術かね? 君はどう思う?」
僕は少し考えてそういう芸術もあるでしょう、と答えた。教授は笑って頷いたがこう言った。
「だがね、そんなものは自然界のどこにだって存在しているよ。そんなものをわざわざ人の手を介して作る必要がどこにあるんだい?」
まあ否定はしないし試みそのものは面白いがね、と教授はまたコーヒーを飲んだ。
気分が悪くなるようなアトリエの空気の中で、僕の淹れたコーヒーを教授は大層美味しそうに飲んだ。空っぽになっても、まだカップの中に残った匂いを堪能するように鼻を近づけて、そうして何かを諦めるようにカップを逆さまにする。
ある日の朝。
教授は僕が淹れたコーヒーの香りを満喫し、そうして読みもしない新聞紙を広げて言った。
「君が後生大事に保管している〝あの絵〟だけれどね。あれは誰が描いたんだい?」
高校時代に憧れの先輩からもらったその絵を、教授は何度か見たことがあった。
その度に微笑ましいものを見るように目を細め、そうして最後に必ず悲しそうな顔をした。
僕は正直に答える。
「高校生の時、憧れていた先輩にもらいました」
「それは女性?」
「はい」
「いいね。高校の美術部としてはありきたりな青春ストーリーだよ」
「僕もそう思います」
教授はからから笑った。
新聞の一面を飾った嫌いな政治家にコーヒーの滴を垂らして汚すのが、教授の悪い癖だ。
僕はその不毛な作業を見るのが存外嫌いではなかった。
「その先輩とは?」
「絵をもらった直後に、先輩は学校を辞めてしまったので」
「そうだろうね。そうだと思ったよ」
教授は〝あの絵〟から何かを読み取ったらしかった。
彼は新聞紙をくしゃくしゃにしてゴミ箱に放り投げたけれど、上手く入らなかった。
「芸術家になろう、なんて人間はろくなもんじゃない。他の動物が何かを表現しようなんて考えるかい? 人間もまた生き物だ。毎日生きるために必死に働いている。むしろそっちの方が正常なんだ。私たち芸術家というのは生物としては欠陥品なんだよ。だから奇人変人が多い」
初めて聞く理論だったけれど、僕は教授の悪し様な言い草にどこか納得した。
「君も変人といえば変人だし、私なんてもっと変人だよ。私よりもずっと頭のネジがぶっ飛んだ人だって大勢いる」
それは美大に通っていればわかる。多くの学生がいる美大でも、中には奇人変人では説明のつかない人間が稀にいる。
そういう人間の方が凄いのは僕もよく知っていた。
「コンピュータで言うところのバグみたいなものだね。普通に生きるためにプログラムされていないんだ。あるいは普通に生きていたのに、どこかでネジを抜かれた人もいる。例えば君を描いてくれた憧れの先輩も、そのタイプかもしれない」
「先輩が……」
教授は空っぽになったカップをこちらに向けておかわりを要求した。
おかわりを注いだカップに鼻を近づけて、教授は満足げに微笑んだ。
「私が君に教えてあげられることなんて何もないんだろうね。そりゃあ技術的なことはいくらでも教えてあげられる。けれどね、そんなことは独学でもどうにかなるものさ。どうして私が君を弟子にしようと思ったかわかるかい?」
僕が首を横に振ると教授は面白そうに笑い、カップを静かに置いた。
「君はきっと売れない画家になるよ。少なくとも生きている間はね」
「あんまり嬉しくないですね」
すると教授も首を横に振った。
「むしろお金のために絵を描かなくてよくなるからね、そこは喜ぶべきことかもしれない。もちろん、それで収入を得ることができたら素晴らしいことだ。私だってそうやって生計を立てていた時期がある」
しかし、それが全てじゃない。教授は床に落ちた新聞紙を拾い上げてゴミ箱に入れる。くしゃくしゃになった新聞紙が底にぶつかって乾いた音を立てた。
「お金のために働く芸術家もいる。それはそれでいい。むしろ仕方がないことなんだ。別に否定なんてしないさ。だが、そう割り切れることが私には羨ましくも感じられる。けれどね、流行に合わせて、依頼主の要望に添うように、そんな風に作っても、君は満足できないよ。私がそうであるようにね」
教授は僕の心を見透かすように言った。けれど、それが心なしか真実のような気もして、僕は反論のひとつもできなかった。
「私はね、君の描く絵がそれほど好きじゃない」
「知ってます」
「でも、嫌いとも言い切れない。むしろもっと見たいと思っている」
何かが足りないんだよ、と教授は言った。
そうしてしばらく考えた末にこう言った。
「君は恋を知っている。けれど、女を知らない」
思わず赤面する僕を教授はからかったけれど、こうも言った。
「少なくとも、君が憧れた先輩は〝女〟だったはずだよ」
黙り込む僕に、教授は言った。
「ところで〝あの絵〟だけれどね、私が題名をつけていいなら、きっと『無垢』、いや、もっとこう……。そう『羨望』あたりにするだろうね」
その意味に気づくのは、教授がまた筆を握ったあとのことだった。
*
美大を卒業したあと、僕は職を転々とした。
そうしているうちに、芸術とは縁の遠い生活が続き、いつの間にかギャラリーを管理する会社でイベントスタッフになっていた。
一見すると芸術に近いこの仕事も、内容としてはその手助けを事務的にこなすだけで、芸術とはほど遠いものだった。
しかし、それに不満があったわけではなかった。教授はむしろ僕が芸術から遠ざかることを「賢明だ」と評した。
ある日、教授の名前が書かれた企画書が届いた。
それだけなら別になんてことはない。教授だって画家だったのだ。個展ぐらいするだろう。
けれど、タイトルには追悼展とあった。
僕がいるギャラリーに教授の描いた最期の一枚がやってくる。
それは悲しいとも嬉しいとも言えなかった。
一年ほど前に、電話をしたときは「また筆をとったよ」と言っていた。
理由は尋ねなかったけれど、教授の口癖を思い出して不思議な気分にもなった。
いざその企画が通り、うちのギャラリーに絵を並べたところで、僕は教授がまた絵を描いた理由に気づいた。
『絶望』と名付けられたその最期の一枚には、アネモネを手折る少女の姿があった。
僕にはその少女があの先輩を描いたものだとすぐにわかった。そして、それが絶望であるという意味がわからず、煩悶とした。
期せずして、先輩が個展に現れた時、僕は喜びよりも困惑した。
それはただの偶然に過ぎなかったし、先輩は成長した僕に気づくこともなかった。僕も声をかけることはなかった。
いや、本当は声をかけたかった。
けれども、それはできなかったのだ。
先輩は小学生の子どもを連れていた。
どこかの誰かに似た少女の手を引いて、長い間『絶望』の前に立っていた。
やがて子どもが飽きてしまって他の絵を見ようと言い出すと、仕方なくその場を移動した。けれども、どんな絵の前に立っても、彼女の瞳はずっと『絶望』に向けられていた。
まるでそれが何か懐かしいものであるかのように。あるいは失われた何かがそこにあるかのように。
先輩は帰り際にようやく僕に気づいて驚いたような顔をしていた。
けれど、挨拶をするのも変な気がして僕は会釈だけに済ませた。
個展なんて子どもには面白くなかったのかもしれない。
早く家に帰ろうという子どもに引っ張られて、先輩はギャラリーを出ようとしたけれど、振り向いて言う。
「アネモネの花言葉を知ってる?」
懐かしい、先輩の声だった。
首を振る僕に、先輩は言った。
「知らない方がいいわ」
だって、その方が幸せだもの――子どもと手を繋いで歩く先輩の後ろ姿を見送って、僕は自分の中で何かが沸き立つのを感じた。
最期を迎えるためにもう一度キャンバスに向かった教授のことを思い出す。
先輩は確かに「羨望」していたのだ。手折られる前の無垢なアネモネを。