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短編小説

アイ・キャッチ・ヒズ・アイ

 私がその魔術師と出会ったのは、ちょうど、私が死のうとしていた晩のことであった。


 ビルの屋上には、冷たく湿った風が吹き抜けていた。ぶるりと震える身体を抱きながら、私はそっと柵まで近づいた。夕方頃まで雨が降っていたから、空気も、コンクリートも、何もかもが湿っている気がする。深夜二時の薄暗い街中も、どこかどんよりとしている気がした。空には雲が残り、月の輪郭さえ見当たらない。私を照らしているのは、切れかけの電光だけだった。


 こんな夜に死ぬのは、少し、憂鬱だ。けれども、こんな夜を乗り越えてまで生きるのは、もっと憂鬱だった。


 私は靴を揃えて脱ぎ、腰辺りまでの高さしかない柵を越えた。少し、下を覗き込んだだけで、その高低差に頭がくらくらする。

 転落死って、痛いのかしら。

 意識は、飛び下りている最中に、吹っ飛ぶのか。それとも、落ちた瞬間に、消え失せるのか。最悪なのは、落ちて、とんでもない激痛を感じてから、死ぬことだった。出来れば、飛んでいる最中に、わけのわからないまま、死んでしまいたい。

 そんなことを思いながら、ずっと下の方にあるコンビニの光を眺めていた、そんな時だった。


 ――目の前に、何かが落ちてきた。


 それを空中で掴めたのは、本当に偶然だった。自分がそこまで反射神経の良い方だとは夢にも思わなかった。それでも、気が付けば、私の両手の中に、それは入っていた。何か、丸くて、柔らかいものだ。

 私は両手を胸まで引き寄せ、そっ、と開いてみた。そして悲鳴を上げ、それを投げ捨てそうになった。実際に投げ捨てなかったのは、驚きすぎて、その場に凍り付いてしまったからだ。


 私の両手の中には、目玉があった。

 真っ白な眼球に、青色の瞳。

 どうして、目玉が、空から降ってくるのだ。

 私は脳味噌がグラグラする感覚を覚えた。もしかして、死のうとしたから、頭がおかしくなったのかもしれない。そう思った時、その目玉の瞳が、ぎょろりと動いて、私を見た。


「ひゃっ……!」


 悲鳴を上げて、今度こそ、目玉を投げ捨てた。

 目玉はぽーんと夜空に浮かび、そのまま緩やかな弧を描き、何もない空中を、私より先に落ちていく――かと思われたが、その目玉を、ぽすん、と野球選手のようにキャッチした手があった。


「いやはや、どうも、ありがとうございます」


 目玉を掴んだのは男だった。ぴっちりとスーツを着て、ネクタイを締め、もう一方の手に黒革の鞄を持っていた。その男にはおかしいところが二つ、あった。


 一つ目は、祭りの屋台で売っているような、狐の仮面を被っていたこと。彼は鞄を脇に挟むと、その手で仮面を少しだけずらした。目玉を持っている方の手を、仮面の下へ差し込む。次に手が引き抜かれたときには、もう目玉を持っていなかった。


 二つ目のおかしいところ。男は、空に浮いていた。私は屋上の縁に立っているから、目の前には、男の立てる場所などないのだけど、男は、まるで空中に足場がある様に、平然とそこに立っていた。


 あぁ、とことん、頭がおかしくなったらしい。

 私は腰を抜かしてその場に尻餅を着いた。柵で思い切り後頭部を打ち付けたが、幻覚は消えなかった。ただ、痛いだけだった。


「おや、大丈夫ですか?」


 男は心配した様に背中を折り曲げ、私の顔を覗き込む。私は柵に貼りつくように腰を後ろへずらしながら、首を横に振った。


「大丈夫じゃない……」

「そうですか」


 男は深く頷くと、空中を歩き、そして屋上に足を下ろした。


「では、大丈夫にして差し上げましょう。あなたにはお礼をしなければいけませんから」

「お、お礼……」

「はい」


 男は嬉しそうな声を上げ、ぽん、と手を合わせる。


「あなたは私の目玉を見事受け取ってくれたじゃありませんか。いやぁ、私としたことが、不覚でして。深夜の空中散歩を楽しんでいたんですが、くしゃみをした拍子に目玉を落としてしまったんですよ。あのまま地面に落ちていたら、大損害を被るところでした。いやいや、目玉は魔力を溜めるには抜群の場所でしてね。潰れると困るのですよ。この星の法則まで乱れてしまう」


 私は何も言っていないのに、男はベラベラと話し始める。これが私の幻覚だとすれば、私は意外と想像力豊かな人間だったらしい。


「おっと! これは失礼! 自己紹介すらまだでしたね」


 男はハッとしたようにいきなり声を高くすると、ぺこりと腰を折り曲げ、九十度、頭を下げた。


「私の名前はサリヴァン。まぁ一介の……そうですね、この世界でいうところの、魔術師といったものでしょうか。趣味はいろいろな世界の夜空を散歩することです。そのたびにその世界の高等知能動物に姿を合わせているわけですが、まぁ、なんというか、ニンゲンというやつは、何とも繊細な作りでして。地球の生命体は基本的に繊細ですがね。随分とやる気がある時に創られたようですね。知ってます? この後に作られた世界なんて、この世界で言う、スライムみたいなやつばっかりですよ。変身には便利ですけども。まぁ、そういうわけでして、顔がですね、うまく作れないんですよ。目玉なんてしょっちゅう落ちる。この間は人間の頭の上に鼻を落としちゃって……と、これは失礼。あなたは私ほど暇じゃございませんね? 本題に入りましょう。失敬ですが、お名前は?」


 男はよく喋った。ぼんやりと長台詞を聞いていれば、いきなり名前を問われ、私は反射的に答えていた。


「お、折原未知子です」

「オリハ・ラミチコさん? そうですか、ラミチコさんと呼んでもいいですかね? オリハは私の親友と同じ名前でして、何やら不思議な心地が……」

「折原、未知子、です」

「オリハラ・ミチコさん? あぁ、これは失礼。ではミチコさんとお呼びしましょう。ところで未知子さんはここで何をしてらしたのです?」

「え、あ、その、飛び下りようと思って……」

「いやだなぁ、駄目ですよ。身の程を知らないと。未知子さん、ここから飛び降りたら死にますってば。家に帰りたいなら、階段を降りるか、エレベーターを使うかなりして、ちゃんと下に降りないと。面倒くさいからって、そういう短縮をしようとすると、さらに面倒なことになるんですからね。ま、面倒な事というか、死ぬんですけどね。全く、規模の大きすぎるドジっ子ですね? いやはや、これならかえって、僕が命の恩人ということになるのでは……」

「いや、だから、死のうとしてたんですけど」


 否定するタイミングを待って、口を噤んでいたが、男――サリヴァンは永遠と話している。少し語気を強くして、遮る様に言えば、サリヴァンは水を打ったように静かになった。こちらが恐怖を覚えるほどの、押し黙りようだった。


「……なるほど?」


 ややあって、サリヴァンは唸る様に言った。


「不治の病か何かに侵されているのですね?」

「いえ……」

「あぁ、借金!」

「違います、」

「わかりました、今、流行りの、いじめ、ですね?」

「あの、そうじゃなくて、」

「じゃあ何ですか?」


 説明しようとしているのに、サリヴァンはむっとしたような声を出す。私はほとほと呆れるような気持ちになりつつ、やっと答えた。


「旦那が事故で亡くなったんです」


 一拍遅れて、サリヴァンが「へぇ」と返事をした。それきりまた静かになったかと思えば、その狐の面が斜めに傾く。


「いやぁ、使い切った魂を蘇らせることは不可能です。申し訳ありません。……でも、死ぬだなんて勿体ありませんよ、未知子さん、まだお若いじゃありませんか。新婚生活で幸せだったのかもしれませんが、次を――」

「結婚して十二年は経ちました」

「おやっ」


 サリヴァンはわざとらしく仰け反り、その拍子に屋上から足を踏み外した。しかし、その先にも床があるかのように、彼は平気で浮いている。


「随分とお若くして結婚なされたんですね」

「……私、今年で四十になりますけど」

「おや、失礼。そうですか、あなたくらいの見目だと四十代なんですね。覚えました」


 何だか、そういう言い方をされると腹が立つ。思わずじろっと睨んでしまったが、サリヴァンは気に留めた様子もなく、うんうんと頷いている。


「人間はどれも同じように見えますからね。十年だの百年だの大した違いじゃありません」


 十歳と百歳では大きな違いだと思うが。辟易として、言葉にもならなかった。

これが私の妄想が生み出した生物なのだとしたら、私は随分と気が違ってしまったらしい。いや、幻覚を見ている時点で、かなり狂っているとは思うのだけれど。


 サリヴァンはなるほどね、なるほどね、と繰り返し述べたかと思えば、突然黙り込み、私の顔をじっと見つめ始めた。思わず見つめ返すが、そこにあるのは狐の面である。何を考えているのかさっぱりわからない。

 恐怖を覚えるほどの沈黙が続いた後、サリヴァンは出し抜けに明るい声を放った。


「――金! 若さ! 男!」


 ――は?


 驚いた拍子に、腰を滑らせ、私はまた柵で後頭部を打ってしまった。けれども、何が? という疑問で頭がいっぱいで、今度はあまり痛みを感じなかった。


「金! 若さ! 男! うん、いいんじゃありませんか? これこそあなたくらいのお年頃の女性が求める三大要素でございましょう」

「いや、あの、ちょっと」

「それを全て差し上げます。これくらいで……まぁ、こんな三つと私の目が並ぶのは多少癪ではございますけど。あなたに私の莫大な魔力の一片を差し上げたところで、必要のないものを貰ったあなたの方が困るでしょうしね。それこそ身の程にあったプレゼントが最大の幸福をもたらしてくれるというものですよ。えぇ、このあいだオリハもね、気軽に行けやしない、遠くの小さな世界をプレゼントされるくらいなら、あらゆる世界に存在する食べ物の中で最も自分好みのものをプレゼントされた方がウン百倍も幸せだって言ってましたからね。いやぁ、あなたもそういうお考えの方だといいのですが」


 まるで、金と若さと男が、子供の玩具だとでも言いたげな様子で、サリヴァンは喋り倒している。私が何も言えないままでいると(彼が話し続けているのが主な要因だが)、サリヴァンは私が納得したものと思ったらしく、さらに声のトーンを上げて、両手をぽんと合わせた。


「ようし、じゃあ、そう致しましょう。とりあえず、明日の朝に一生使っても使い切れない金をご用意いたします。昼には若さを差し上げましょうかね。夕暮れには、あなたが一目で恋に落ちるに違いない、とってもあなた好みの男をご用意致しましょう!」


 彼はそう言ってから、にっこりと、笑ったような気がした。残念ながら、その表情は狐の仮面で見えないのだけれど。


「ご安心を。社会の方は、たとえあなたの親であろうとも、あなたがそのように変化したことを、何の疑問にも感じません。こんなに幸せな改革はございませんよ。どれだけ腕のいい整形師だって、整形したことに気付かれないよう、相手を劇的に変えることは出来ませんからね」


 それから、彼は声を上げて笑った。コメディ映画でも見ているかのようなバカ笑いだった。何が可笑しいのか、さっぱりわからない。


「では、また、明日、お会い致しましょう。良い夢を、未知子さん」


 サリヴァンはそう言うと、そのまま後ろ向きに歩を進めた。両足が空中へ浮く。そこでくるっと軽快にターンを決めたかと思えば――消えてしまった。まるで、都会の闇に溶けるようにして、彼はいなくなった。私は慌ててビルの下を覗き込んだが、誰かが落ちて死んでいるような姿は見えなかった。まじまじと見つめていれば、その高低差に再び頭がくらくらした。


とりあえず、今日のところは、飛び降りるのはやめにした。



                    *


 ――子供ができたよ。


 そう電話をすれば、結婚して八年目になる夫の昭彦は、すぐに家へ帰ってきた。仕事はどうしたのかと聞く暇もなく、家の扉を蹴飛ばすように帰ってきた昭彦に、大きな腕で抱きしめられた。昭彦はすでに泣いて、顔をぐちゃぐちゃにさせており、その状態で駅から走ってきたのかと思うと、嬉しいような恥ずかしいようなで、抱きしめられながら笑ってしまった。


 子供は、私たちの悲願だった。それこそ、『一寸法師』の老夫婦が「指くらい小さくても構わないので子どもが欲しい」と願っていたように、私たちも必死で願い、寺社を巡ったりもした。毎晩、食卓を囲みながら、子供が出来たら、あそこへ行こう、これをしよう、と語り合ってきたのだ。

 ついに、我が家に宝物がやってきた。

 私たちは大はしゃぎをして、普段は行かないような高いレストランにまで、お祝いとして行った。私に付き合って、その日から昭彦も禁酒を始めた。風呂上りのビールが大好きな人だったから、初めは物惜しそうな顔をしていたけれど、次第に、風呂上りにビールではなく、お腹の子に話しかけることを楽しみとし始めた。


 昭彦は根っからの子供好きで、私以上に私の身体を慮り、大事にしてくれた。彼が休みの日なんて、私には家事の一つもやらせてくれなかった。ちょっと買い物に行こうとしただけで、真っ青な顔で止められた。優しい旦那ねぇ、と、すっかりママの顔になっている、私の旧友たちは話を聞く度笑っていた。


 幸せだった。私と昭彦は大学時代からの縁で、パズルのピースが合うように、ぴったりと合う二人だった。二人でいることに何の違和感もなかった。もう一人増えれば、それは天国だと思いながら、私はいつもお腹をさすっていた。それは最上のプレゼントであり、それこそ天使であった。


 僕たちの光だから、ひかりという名前にしたい、と、単純な昭彦は嬉しそうに言った。性別もまだわからないのに気が早すぎないかと言えば、名前を呼んで話しかけたいから、と昭彦は言った。

 でも、良い名前だと思った。この子はひかりだと、すんなり受け入れることが出来た。


 けれど、私はひかりに、光を見せてやれなかった。


 赤ん坊――『ひかり』が私のお腹の中にいたのは、たった一カ月の話だった。

 お酒も飲まなかった。煙草なんて、吸っている人の近くに寄る事すらなかった。激しい運動をするどころか、重い荷物を持って動くこともなかった。身体を冷やしたりすることもなく、風邪などの体調不良にも一切ならなかった。もちろん、段差を踏み外したりだとか、そういう事故もなかった。

 なのに、ひかりは死んでしまった。


「早期流産は起こりやすいことなんです。あなたは一切、悪くありませんよ。自然の摂理です。ただ、この子に、生き続けるだけの強さがなかったんです。悲しいですが、どうか自分を責めないで」


 ――流産、と告げてくれた医師は、熱心に、かつ優しく、私を慰めてくれた。隣で項垂れ、じっと話を聞いていた昭彦も、その医師の言葉を聞いているうちに、ぎゅっと私の手を強く握った。私は悪くないのだと、仕方がないことだったのだと、その手が伝えてくれた。


 ひかりは、亡くなるのがあまりにも早すぎて、死産届すら提出する必要がないのだと、その時に知った。ひかりは確かにこのお腹の中に存在した、確かにそこで生きていたはずなのに、この社会には生まれなかった。生まれなかったどころか、死なせてやることさえ、出来なかった。


 ひかりがいなくなって一週間もすると、昭彦は普通に笑うようになった。そして、もうひかりのことも口に出さないようになった。まるで、初めからそんな子はいなかったかのように。私はそんな昭彦が気に食わなかった。


「次の子を作ればいいって、思ってるでしょ」


 風呂上がりにビールを飲んでいる昭彦に、私はとうとうそう言った。昭彦はごくりとその泡を飲んでから、「そうだね」と答えた。私だって、次の子が欲しくないわけじゃなかったが、何だかとても悲しくて、そのまま部屋に引きこもった。


 ひかりが亡くなってからも、相変わらず昭彦は優しく、時に感情的になる私を受け入れてくれた。しかし、その落ち着いた様子が、かえって冷たく思えて、私は夫との間に深い溝が生まれたように感じていた。


 ひかりを失い、夫も信じられなくなっている私の心に、決定的な打撃を与えたのは、旧友だった。


 流産したことを、伝えた日の夜だった。

 その日は旧友で集まって、ランチを食べていた。私は手洗いに立ったが、ハンカチを持って行くのを忘れたので、すぐにテーブルに戻ろうとした。そして、信頼していた旧友三人の会話を聞いてしまった。


「ちょっと、怖いなと思ってたんだよね。空回りしてるっていうかさ。覚悟が足りないっていうか。子供を産むの、舐めてるのかな? って感じがした。幸せ幸せってばっか言って」


 初めに飛び込んできたのは、そんな言葉だった。それで私は足を止め、少し離れた場所から、テーブルの会話に耳を傾けた。盗み聞きするつもりはなかったが、何故かそれ以上動けなかった。


「そうそう。結局、子供が欲しいってだけで、子供を生む、育てる、みたいな覚悟、出来てなかったんじゃんね。子供は幸せの為の道具じゃないよ。命だよ」

「それ。大事にしないから、流産なんかするんだよ。可哀想だよ、赤ん坊」

「ほんと。段差とかさ、荷物とか、お酒とか、私たち、ほんっとに気を付けたもんね。絶対にちゃんと生んであげたかったから」

「ねー。それくらいの大変さも我慢できないで、子供なんか育てられないよね」


 私はしばらく動けなかった。ひかりがいなくなったのは、全て、私がひかりを大切にしなかったからだと三人は言って、そしていかにもひかりが気の毒そうに眉をひそめていた。


――違うの。


 ちゃんと、大事にしたの。ちゃんと産んであげたかったから、その為なら何でもするって決めたもの。赤ん坊に悪影響を与えるものは全部やめた。ちょっとくらいなら大丈夫、て言われたものも、全て避けてきた。そこには少しの余裕や軽視はなかった。


 私は、私なりに覚悟してたの。


 しかし、それを言ったところで、何にもならないことをわかっていた。私はただ一人で立ちすくみ、三人の会話がどうでもいいコメディ番組の話題に移っていた頃に、ひそひそとテーブルへ戻った。そして鞄を取り、お手洗いに行くふりをして店を出た。勘定をしていないことに気が付いたのは、着替えもせずに眠った次の日の朝だった。けれどもう二度と会いたくなかったから、こちらから連絡は出来なかった。たくさんメッセージは来ていたけれど、開く気にもなれなかった。それきり縁は、切れた。


 あとは、「次の子」を求める優しい昭彦と二人で灰色の日々を過ごすだけだった。そんな日々が四年も続いた。子供は出来なかった。


 そして、昭彦は突然死んだ。

 吹っ切れていたように見える昭彦が、私のいない場所、同僚との飲みの場などでは、ひかりのことを永遠と話し続けていたことを知ったのは、彼が暴走車に撥ねられて死んだ後だった。


 私の事を気遣って、何でもないふりをしてくれた優しい夫に対し、私はあの三人と同じような振る舞いをしていたのだと思うと――あの三人が私を信じてくれなかったように、私は旧友ではなく、夫でさえ信じられなかったのだと思うと、果てしない自己嫌悪が迫ってきた。


 私が屋上に立ったのは、昭彦が死んで、葬式等の慌ただしい後始末が片付いた、その矢先だった。

 ――もう、生きる意味もないから。

 死ぬ理由は、それで十分だった。


                    *


 身体が重い。眠っていたのだと気付くまでに時間はかからなかった。寝返りを打とうとしたが、何かに覆い被されているような心地がして、動くのは容易ではなかった。私はとうとう目を覚まし、ゆっくりと上半身を起こした。その拍子に、私の胸に乗っかっていたものが、バラバラと膝に落ちた。


「……ん?」


 視界に、およそ布団と似つかわしくないものが目に入る。しかも、大量に。

 私は目をこすり、膝の上に乗っているものを改めて見つめた。

 札束だった。一万円札が束になって、いくつも膝の上に落ちていた。


「……なにこれ」


 発した声が掠れている。下半身にもずっしりとした重みを感じて、私は慌てて布団を剥いだ。


 布団の中には、私の身体を覆う毛布の様に、ぎっしりと万札が詰まっていた。ざっと――いくらくらいあるのだろう。これほど大量の札束を見たことがないから、概算すら出来ない。それどころか、一万円札の札束など、生まれて初めて見た。しかも、片手で一つずつしか持てないような厚さで。


「うそ、これほんもののお金?」


 部屋はがらんとして誰もいない。私の声は壁に吸い込まれて消えていく。

 私は混乱したまま、髪の毛がぐちゃぐちゃなのも忘れて、上着一枚羽織ると、札束を一つ、鞄に押し込んで外に出た。降りてきたエレベーターに飛び乗り、一階まで降り、すぐ傍のショッピング・モールへと駆ける。すれ違った女子高生が、くすくすと笑いながら私を見た。でもそんな目線は全く気にならなかった。


 ショッピングモールの一階には、ちょっとお高めの鞄を売っている店がある。私はそこに飛び込み、十万円と値付けされた、普段は怖くて触りもしない鞄をむんずと掴むと、レジに放り投げるようにして置いた。

 パジャマに上着を羽織っただけで、髪の毛もグチャグチャ、寝起きそのままの女がやってきて、店員はしこたま驚いたらしい。私が気でもおかしいとでも思ったのか、彼はなかなかレジを打ち込んでくれなかった。私の方こそ、私が気がおかしくなったかどうか知りたいくらいなのに。


 私が自分の鞄から札束を取り出し、大体十枚程度の一万円を引き抜いて台の上に置けば、彼は訝しげな目で私の置いた万札を見つめた。けれど、「何も置かれてませんよ」という、私の望んだそんな言葉は一切飛び出して来なかった。「どうもありがとうございます」と彼は淡白な声で言った。


 ――このお金、私の幻覚じゃないんだ。


 私はそのまま、モールの通路に置かれたソファーに座り込んだ。膝の上は、別に欲しくもなかった、ブランドものの鞄が置かれている。


 サリヴァン。魔術師の、サリヴァン。

 あれこそ幻覚か夢かと思っていた。けれど、彼は私にお金を与えると言った。そして現に、ここにはお金がある。


 昨日の晩はしっかり戸締りをして寝たはずだった。それが、起きてみれば布団の中に札束を詰め込まれていた。まさか、何か大掛かりなトリックでも使ったのだろうか。その理由も、手段も、私にはさっぱりわからないが。

 怒りと恐怖と困惑が同時に襲い掛かってきた。あの家に帰るのが何となく怖くて、私はひたすらソファーに座って自分の膝頭を見つめていた。


 もしかして、ショッピング・モールにいると思っているのすら妄想なのかもしれない。そんな訳の分からないことまで考え付いた頃、隣に誰かが腰かけてきた。


「お姉さん、ずっと座ってるけど、気持ち悪いの?」


 まだ若そうな、二十代くらいの男性だった。親切そうな笑みを浮かべている。私は状況も忘れて、思わず笑ってしまった。


「ごめんね、大丈夫よ。お世辞がうまいのね、お姉さんだなんて」

「え?」


 彼は反応に困った様に瞬きをする。本気でまごついているようだった。


「え、あの……お世辞?」


 何が? とでも言いたげに問われて、驚いたのは私の方である。


「いや……お姉さんっていう歳じゃないわよ、私」

「……そう、ですか?」


 男性は曖昧に微笑み、不思議そうな顔をしながら、ソファーから離れた。変な人に声をかけてしまったという態度に見えた。お世辞を言ったかと思えば、いきなりどうしたんだろう。私はそこまで考えて、ふと、サリヴァンの言葉を思い出した。


 金の次は、若さ。


 私はブランドものの鞄をソファーに投げ出すと、そのまま近くのトイレへと駆け出した。トイレの鏡に顔を写して――


「うそ……」


 そこにいるのは、二十歳くらいの、若い私だった。もはや写真の中だった存在が目の前にいる。思わずベシャベシャと顔を洗ってみたが、いくら水をかけても、手で拭おうとしても、その顔はいつまでも若々しいままだった。その水の冷たさが、かえって、これは現実なのだと私に告げるようだった。


 サリヴァンは、本物だ。

 本物の、魔術師だ。


 私はのろのろとトイレから出た。確かに、さっき駆けた時、いつもよりも身が軽かった気がしたのだ。体力や筋力も若い自分に戻っているのだ。


 ――朝に金を、昼に若さを、そして夜には私好みの男を。


 サリヴァンはそう言った。

 私好みの、男。私が一目で恋に落ちるに違いない、男。

 私はふらふらと夢見心地のような足取りで、マンションへ戻った。もう誰の目線も感じなかった。そんな余裕はなかった。


 今の私は、一生遊んで暮らせるお金を持った、若い女である――もう一度、新しい人生をやり直すには、十分な状況ではないか?


 光の移動と共に、エレベーターが私の元へと降りてくる。


 昨日の夜、昨日までの私は死んだのかもしれない、と私は思った。ひかりを失い、昭彦を失った私は、昨日の夜に、屋上から飛び降りて死んだのかもしれない。そして、魔術師の目を掴んだ、今の私だけが生き残った。昔の記憶(ひかり)を持ったまま、新たな人生(ひかり)を握って。


 甲高い音がして、エレベーターの扉が開く。がらんとした箱の中に乗り込み、目標階のボタンを押す。扉はゆっくりと締まり、光が移動していくのと一緒に、私は滑らかに上がっていく。何の苦労もなく、目標の場所まで、上がっていく。


 もう一度扉が開いて、私はエレベーターから降りた。何となく、自分の部屋まで、スキップをしてみた。気持ちが軽くなる気がした。何となく楽しかった。


 扉に鍵をかけるのを忘れていた。ドアノブを回し、スキップしたまま部屋の中に入る。そして上着を投げ捨てて、鼻歌を歌い始めた。くるくる回って、決めポーズも決めちゃう。


 そして、ぴたりと止まった目の前に、昭彦の遺影があった。彼の遺影を選ぶのは、苦労をした。どの写真も、素敵な笑顔だったから。


 無理。


 私の中で、無理やり最上階まで手繰り寄せていたエレベーターの、糸が切れて、そのまま最下階へと落ちていく。がっしゃん。壊れた。


 ――昭彦とひかり以外の家族を持つのは、無理。


 どれだけ素敵な人だって、昭彦に勝てるわけがない。でも、サリヴァンは死人を生き返らせることは出来ないと言った。


「……役立たず」


 お金を用意したり、美貌や若さを与えられたりしても、彼を生き返らせることができないのなら、無能だ。それが出来ない魔術なら、私には必要ない。


 あんな目玉、握り潰せばよかった。

 私たちの光が、運命に握り潰されたみたいに。


 私はベットの上の札束の山を、乱暴に払い落とした。床に落ちていく札束が、意外なほど大きな音を立てる。階下の人は突然の音にびっくりしただろうか。それが大金が床に落ちる音だと気付けば、もっとびっくりするに違いない。


 私はそのまま布団にくるまり、全てから逃げるように目を閉じた。布団にはお金の生々しい匂いが染み付いていて、正直、吐き気がした。



 ぴんぽーん。

 私が目を覚ましたのは、そんな音だった。ハッとして飛び起きれば、窓の外はすっかり暗くなっている。夜だ。夜になってしまった。


 ぴんぽーん。

 チャイム。外に出なくても、相手が誰かわかった。サリヴァンだ。わざわざチャイムを鳴らす理由はわからないが、尋ねると長くなりそうだ。


 断らないと。男なんて要らない。金も若さも要らない。死だけが欲しいからほっとけと。

 私はそう思い、札束を踏み分けながら玄関へ向かった。無造作に扉を開ければ、果たして、狐の仮面の男がそこに立っていた。しかし、私好みの男の姿は見えない。サリヴァンは両手に真っ白な布で包まれた荷物を持っていた。


 まさか、と思い当たって、私は思わず溜息を吐いた。


「私好みの男って、あなた?」


 サリヴァンは一拍遅れてから、おずおずと尋ねた。


「もし、そうだって言えば、どうします?」


 扉を閉めようとしたら、「わー!」と声を上げて、サリヴァンが長い足を扉の間に差し込んできた。


「冗談ですよ!」

「どうかしら。じゃあ、その大荷物は何? 生活に使うものでも入れてるんでしょ。帰って帰って」

「流石、お若くなった分、舌も回るようになりましたね」


 サリヴァンは感心した様に笑い声を上げる。私はカチンときたが、確かにそうかもしれなかった。少なくとも、昨晩よりは思考がクリアだ。何も言えないでいれば、サリヴァンが狐面越しに笑うような気配がした。


「困るとすぐ何も言えなくなるのは、昔からの癖のようですね。いやぁ、それにしても、随分とお若く、美しくなられた。いいですねぇ、いいですねぇ、魔法をかけた甲斐があるってものですよ。財力と若さ、そして最後に素敵な男と来ましたら、まぁ完璧でございましょうね」


 私はハッとした。そうだ、サリヴァンに好き勝手喋らせている場合じゃない。


「その事なんだけど――」

「えぇ、その事なんですがね、未知子さん」


 しかし、せっかちなサリヴァンは、私の言葉を遮って、憂鬱そうな声音で話し始めた。


「お金は非生物で魂が要りませんから、いくらでも生み出せますし、あなた自身に修正……失礼、変化を加えるのも、無から何かを生み出すわけじゃありませんから、特に大変ではありません。けど、男という新たな生命を、無から生み出すのは非常に大変なんですよ。それが、ちょうど若きあなたと恋仲になれそうな、二十代の男だとすれば、もはや無理という領域に入りましょう」


 つまり、「私好みの男」を用意するのは無理だった、ということだろうか。私はほっとして胸を撫で下ろした――が、サリヴァンは「そこでですね」と意気揚々と続けた。


「未知子さんは、二十歳の年の差を気になさるほど小さな器の持ち主ではございませんね?」

「え?」


 思わず聞き返したが、サリヴァンは満足した様に頷くばかりで、次々と話を進めてしまう。


「いきなり二十代の完成された男を用意するのは非常に難しいので、あなたには、いずれあなた好みの男性になること間違いなしの有望な人間を差し上げましょう!」


 言葉を挟む暇もなく、サリヴァンは両手に抱えていた荷物を私に差し出してくる。私は思わずそれを受け取った。


 暖かく、そしてドキリとするような重みのある荷物だった。その衝撃を皮切りに、私の心臓が少しずつ跳ね上がり始める。僅かな予感の為に、両腕が震えた。


 サリヴァンが手を伸ばし、荷物を覆っていた白い布を、少しだけはだけさせた。


 その間から顔を出したのは、幼い赤ん坊だった。ビー玉みたいに大きくて綺麗な目に、私が写り込んでいた。人形じゃないか、と思うくらい、綺麗な目をしていた。けれどもその暖かみと重みが、生きている赤ん坊なのだと告げていた。


 そして、私はその顔に見覚えがあることに気が付いた。

 昭彦に、なんとなく、似ている。

 まさか、昭彦を赤ん坊として転生させたわけではあるまい。死んだ人間を生き返らせるのは無理だと、サリヴァン自身が言ったのだから。


「あなた好みの男性……折原昭彦さんにそっくりでしょう?」


 私の心を見透かしたように、サリヴァンが言う。思わず顔を上げ、頷けば、サリヴァンは当たり前だとでも言いたげに、胸を張った。


「その赤ん坊の半分は、折原昭彦さんと同じ遺伝子を持ってますからね」


 身体が震えた。


「残りの半分は……?」


 尋ねた声が震えている。震えのあまりに、視界が急速に狭まっていくのを感じた。もう、狐のお面しか見えない。それ以外は全部、滲んでいる。


「使い古した魂は二度と使えません」


 サリヴァンは、はぐらかすようにそう答えた。


「だから、昭彦さんはもう二度と蘇らない。彼の命の火を灯していた蝋燭は、とっくに溶けて消えましたから。けれども、蝋燭に火をつける前に、火が消えてしまうこともございます。そのような蝋燭は、もちろん、少しも溶けませんし、消えることはありません。もう一度、火をつけてやることも出来るんですよ」


 サリヴァンの手が赤ん坊――ひかりの額を撫でる。何か特別な魔法でも掛けているような手つきだった。


「この子の蝋燭が丈夫で長いものでありますよう」


 サリヴァンは祈る様に囁く。私はひかりを強く抱きしめた。もう離さない、そう誓った。

 視界は涙で滲んで、もう何も見えなくなった。ややあって、ハッとして見上げてみれば、もうそこにサリヴァンの姿は、見えなくなっていた。




                   *



 ――うちのママは、たまにおかしい。


「ママー、ハンバーグ、入れた?」

「入れたわよ」


 階段を駆け下りれば、ママはタイミングよく、機関車のイラストが描かれているお弁当袋を僕に渡してくれる。

 今日は遠足だ。ハンバーグは僕のお気に入りのご飯だ。ママは水筒を僕の首から下げながら、怒ったような顔をしている。


「遠足なのに、何、寝坊してるのよ。みんなと遊んでる時に眠くなっても、ママ知らないわよ」


 どうやら、僕が起こしても起こしても、なかなか起きなかったから、怒っているらしい。


「寝れなかったのは、ママのせいだよ」


 僕がそう言えば、ママはびっくりしたような顔をした。


「ママのせい? 何で?」

「ママ、昨日誰とお話してたの? ベランダで」


 ――やっと、聞けた。


 ママは、昔から、何でもないような夜に、いきなりベランダへ出て、ずっと一人でひそひそと話していることがある。電話でもしているのかと思ったけど、携帯を持って出てないから、違うみたいだ。僕がベランダのある部屋に行けば、ママは話すのを止めて僕のところへやってくる。だから、いつも、扉の隙間からこっそりと見つめるのだ。でも、風で揺れるカーテンの隙間から、ママの背中が見えて、ママの笑い声が聞こえてくるくらいだから、そこに誰がいるのかわからない。


「もしかして、パパ?」


 そう聞けば、ごつん、と頭を殴られた。


「まさか。パパの方が幾百倍も素敵だわ。一緒にしないで」

「じゃあ、誰なの?」

「知り合いよ。ちょっとした」


 ママはそう言いながら、僕の背中を押し出す。時計を見れば、なかなかにまずい時間だった。


「誰なの?」


 靴を履きながら尋ねるけど、ママは教えてくれない。言いたくないと言うより、何か困ってるみたいだった。僕は準備を終え、扉の前でぴたっと立ち止まって、ママを見る。ママは答えないと僕が遠足に行けないとやっと気付いてくれたらしく、軽く笑って、言った。


「夜空を散歩してる変人がいるのよ」

「よぞらをさんぽ?」

「そうよ。さ、早く行きなさい。バスに遅れたら、学校で勉強する羽目になるわよ」

「わ!」


 それはイヤだ。

 『よぞらをさんぽするへんじん』も気になるけど、遠足に行けなくて、学校で勉強なんて絶対にイヤだ。僕は部屋から飛び出して、マンションのエレベーターへと駆け出した。そんな僕を、ママの声が追いかけてきた。


「いってらっしゃい、ひかり!」


所属する文芸サークルの10月月例作品として書いたものでした。とはいえ、基本は5000字前後が望ましい月例作品なのに、気が付いたら1万字突破していたので、サークルに持って行くのは諦めました(笑)

ちなみに、提示されたテーマは「魔術師」「目が綺麗ですね」「ハンバーグ」でした。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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