9 笑顔の虜
そのあと私も落ち着いて、ベッドを出て食事を取ることが出来た。ダイアナとメイドさんの二人がかりでのサービス付だ。ミシュラン級のレストランで食べるより気分が良かった、味は普通でも。
食べながら私たちは互いのことを話題にしておしゃべりをした。この場合それが一番当たり障りのない話題だった。
私は自分がなぜこんな仕事をしているのかを語った。彼女たちは聞き上手というか、聞きながらどんどん話をふくらましていくような感じで、いつの間にか親や祖父母、果ては自分でも詳しくは知らない明治や江戸期の先祖のことまで語らされていた。というのも私の語りに合わすように彼女たちは彼女たちの先祖のことを語ってくれるのだ。私の方はとっくにネタがつきて、もう日本史一般のような話になっても、彼女の話は恐ろしいことに固有名詞はどんどん出てくる。なにしろ数百年は続いているこの土地に根付いた一族の末裔であり、おまけに現在も貴族であるとのことだ。大戦までは(第1次だ!)このあたり一帯を統治していたのだが、国境線や国そのものが乱れ、政治形態が変化し、結果随分と没落し現在にいたるそうだ。彼女は「没落貴族なのよ」と、なにか嬉しそうに自分たちのことを表現した。
しばらく姿が見えなかったメイドさんがあらわれて。「さあ食事の時間ですよ」と声をかけてきたときには、外はもう日が暮れて真っ暗だった。
「おねがいがあるのですが」
私たちが使っていたテーブルの向かいで、ダイアナさんはまるで神に祈るときのように両手を組んで言った。
「あの馬鹿な弟を許してやっていただけませんか」
これを断れるほど私は女性の扱いに手慣れてはいない。まさしく赤子の手をひねるように私は彼女の言いなりになったのだ。
そして夕食のテーブルは三人で囲むことになったのだ。
「本当にすまなかった、許してほしい」食堂に入るとすでにリチャードが待ち構えていた。
「昨夜はどうかしていたんだ、」ひざまずいてわたしの手を取り恭順の姿勢を取る。
「やめなさいリチャード。そんな簡単にゆるしてもらえるわけがないでしょう」私が答える間もなく彼女は強い口調で言った。
「同じテーブルにつくことを彼は寛大にもゆるしてくれたのよ。感謝して早く座りなさい」
大仰な言い方をしながら、彼女はリチャードの耳をつまむと席の方に引っ張っていった。
「さあどうぞ、おすわりになって」そして私に向かって、とびきりの笑顔で言うのだ。
食事はフルコースディナーといって良いものだった。メイドさんが用意したものと思っていたが、姿がみえなかったのは小一時間もなかった。あんな短時間でこんな料理ができるとも思えない。キッチンに別に料理人でもいるのだろうか。それともこれも魔法でも使ったのか。味も良かったように感じた。
「どうかしばらく滞在してくださいね」
デザートに出てきたチョコレートケーキを味わっている時に、ダイアナは言った。
「あなたの様子は外にでるには少し問題があるわ。そんなにスケジュールの詰まったようでもなさそうだし」
「いや、そんな迷惑をかける訳には…」
「なにをおっしゃるの。迷惑をおかけしているのは私共です。あなたが遠慮するようなことは少しもありません」
少し強めの口調で言ったかと思う間もなく「どうかそうしてくださいね」とうっとりするような笑顔でやさしく語りかけてくるのだ。
こうして私はしばらくの滞在をすることになったのだ。
(買付時の注意)
チョコレートケーキといえばザッハトルテですが、この時はそこまで濃厚なものではありませんでした。食事のあとにあれは食べれませんよね。
ちなみにテーブル上のカトラリーはすべて統一感のある銀製だった。そっとホールマークを見ると間違いなく十九世紀中期のものと思われた。ジャン・バルジャンの気持ちが良く分かった。さすがに皿の裏側は見なかったが、白磁に金の縁取りが上品に施されていた。