8 再び死にかける
彼女は私が鏡に見入っているのを確かめるように近づいてきた。
鏡越しに見える顔が少し笑っている。
「あの、とても可愛いわ。すべすべして赤ちゃんみたいで」
私はそれに言葉を返せない。なんだろう、呆然として何も答えられない。
「大丈夫よそんなに可笑しくはないわ」
私はゆっくりと頭に手をやる。確かにすべすべだ。刈り込んだのとは全く違う手触りだ。これが彼女の持ってきた浮世絵に替わったのか。いや、そんな事言われても訳が分からない。ほかにも違和感がある。眉だ、眉毛もない。眉のあたりをまさぐる。目の周りの骨の形がとてもよくわかる。そのまま頬に手が行く。綺麗なもんだ、日本の散髪屋さんで剃ってもらったってこうはいかないな。これからは朝髭を剃る手間が省けるのか。朝の支度が少し楽になるな。頭の方だって寝ぐせに悩むこともないのか。髪質が固い方だったので前々から苦労してたんだ。どうしょうもないときは帽子をかぶったりしてね。そんな心配もなくなったな。これって身体中がこうなのか。手鏡を持つ手をかえして手の甲を見る、あーここもだわ、二の腕も。たぶん下半身もそうなんだろう。なんてことだ。
なんとなくもう一度鏡を覗き込む、よく見ればなるほどまつ毛もない、すごいな徹底的だ。笑ってしまいそうだ。
と、その目から涙がこぼれてきた。自分の目から涙があふれる瞬間を目撃するなんて初めてだな。涙は筋になって顎へと流れる。
「ああ!ごめんなさい、そんなつもりで…」
私の涙を見たのだろう、彼女は叫びながら私に抱き着いた。悲しむ子供をがいればいつでもそうしてきたのだろう。まったく自然に私は彼女に、正確には彼女の胸に強く抱きしめられた。ハグなんてものじゃないな。口と鼻を完全にふさがれて私は本当に息が出来なくなった。
「お嬢様いけません!息が詰まってしんでしまいますよ!」
多分そう言ってくれたのだろうと思う。英語ではなかったが、消え行く意識の中で誰かがそう叫んだと思う。その理解で間違いはなかったのだろう、すぐに彼女の胸から私は解放された。かろうじて意識をうしなうことはなかった。
「あの、本当にごめんなさいね、色々とご迷惑をかけて…」
目の前に頬を真っ赤に染めた彼女の顔がせまっていた。まったくこの姉弟は、二人して私を殺すつもりなのか、方法は全く違うけれど。
私を救ってくれたのは、昨夜食事を作ってくれていたメイドさんだった。そしてリチャードの魔法からからギリギリのところで助けてくれたのも彼女らしかった。昨夜からリチャードの様子がおかしかったことに気をもみ、外出から帰ってきた姉をいち早く私達のもとへ案内してくれたらしい。おいおい本当に命の恩人じゃないか、なんか後光がさしてみえるよ。
ところでお姉さんの名前はダイアナといったはずだ。名前で呼び掛けると随分と意外だったようで文字通り眼を丸くして驚き、感激してくれた。一度しかお店であっただけなのに。ということだが、私も普通に男なのでやっぱり美人は忘れません。
そのダイアナからこの出来事の説明をたっぷりとしてもらった。
(買付時の注意)
この時の鏡は銀縁で花と葉と枝が絡まりあった意匠の英国ビクトリアンの手鏡。鏡そのものも美しく正確なカットの施された逸品。手に取った瞬間には思わず値踏みをやりかけた。