1 浮世絵好きの店主
東京の骨董屋で10年ほど修行した私は、とある事情で独立しをした。といっても店を開く訳ではなく海外で面白そうなものを買い付けて、日本に持ち込んで転売する、という仕入れ専門で生計を立てることにした。店舗の経営とか運転資金とか色々たいへんだしね。
主にヨーロッパを数ヶ月かけてまわり、資金が無くなったら帰国して集めた物を販売し、資金の余裕ができたらまた旅立つ、その繰り返しで日々を過ごしていた。
最初のころは北の方の国から入って南の国に抜けていたが、そのうちになんとなく気に入った順路のようなものが出来て行く。ようは掘り出し物に出会った経験のある土地を、またなぞるように通っていただけのことなのだが、私の顔を覚えてくれている店も出来て行き、仕事としてまあまあうまく行きだした頃のことだ。
東欧の小国、あまり日本人の骨董商は訪れる事がないだろう小さな古い街。それでも私は買付けの際には必ず訪れる店があった。それというのも、初めて訪れて以来、その店では必ずと言ってよいほど掘り出し物を見つけることができていたからだ。
最初に手に入れたのは磁器の皿で「柿右衛門手」だった。有田焼の名工「柿右衛門」の手になる作品群は、江戸時代の中頃から東インド会社を通じてヨーロッパに輸出されていた。その特徴的な絵柄と美しい磁肌は人気を呼び、ついには多くのコピー作品をヨーロッパの著明窯において生み出す事となった。それが「柿右衛門手」と呼ばれる磁器の作品群である。
白磁の肌に鮮やかな色絵を描く技術は、凡庸の窯では再現できず、したがってコピーと言えどそのレベルは高い。今に残る「柿右衛門手」は、そのほとんどが高額で取引される名品なのである。
だから店内の棚にそれを見つけた時は、私に扱えるとは思えなかった。もちろん高価な値がついているだろうと予想がついたからである。通常「柿右衛門手」には、私なりの下世話な表現でいう「和洋折衷」的なアンバランスさがあるものだ。またそれが魅力であって、作品としての面白さだと思う。ところがその、径三十センチばかりの絵皿はあまりに出来が良すぎた。磁器の肌・絵付け・皿としての形などの印象が本物の初代柿右衛門そのものに見えた。そしてその印象とは相反するのだが妙に「若く」見えた。本来磁器の時代を見るのは難しいものだが、それでも多くを見て経験を積めば,おおよその見当がつくようには成ってくる。商売として扱う機会は少なかったが、それなりに真面目に勉強していれば眼は養われていく。
その絵皿は、私の眼にはまるでつい最近に窯出しされたかのように見えた。ならば現代ものの柿右衛門窯かというと、それとも違うようだ。(有田の柿右衛門窯では現在も作品を作っており、普通に店舗で見る事が出来る)
悩みながらしばらく見ていると声がかかった。
「どうぞ手に取って見てください」
店主らしき男性からのものだった。
私はお礼を言って、だがすぐには手を出さなかった。先に確認するべきことがある。
「お値段は御幾らなのでしょう」
帰ってきた答えは破格のものだった.なんと安いのである、現代ものでも百貨店で買えばその倍はする。ならばとようやく手に取って裏を見た。陶器磁器の物を見る時裏底を見るのは基本中の基本である。そこには窯のシンボルマークがあり、時には絵付師のサインがあり、釉薬の掛かっていない地膚が見える。しかしこれにはなにもなかった。けずって消したり上から塗ったあともない。表にかえしてあらためて絵付けを観察する。透明感のある白磁に美しい発色の色絵、接ぎや直しの様子もない。
「これはどちらの窯のものでしょう」
とりあえず聞いてみることにした。
「よくわからないのです、絵が美しいので手に入れたのですが来歴などの説明はなかったのです」
何とかという街のバザールで(街の名前は私には聞き取れなかった)買ったそうだ。
「こちらの地方産ではないのですか?」
「残念ながら我が国にはあまり良い窯元はありません」
地元産の土を使わざるを得なかった頃ならその通りだが、今どき小量ならどこの陶土でも釉薬でも手に入る時代だ。窯だって薪を積み上げることが出来なくても、電気さえ来ていれば好きな温度で好きなだけ時間を掛けて焼成することが可能だ。
この主人が知らないだけで、案外皿を作った本人から買い取っていてもおかしくはない。そこまで考えて、二匹目の泥鰌も期待しつつ買い取ることにした。ついでに習性のようなもので一声値切ってみるとあっさり応じてもらえた。
結果から言えばこの商いは大正解だった。
「今までで一番ええ仕入れやな」
たまに怪しげな関西弁を操る、私の元のボス、今でも仕事上色々と便宜を図ってもらっている親方は、しばらく絵皿を観たあとそう言って褒めてくれた。
「素性はわからんが出来は良い」
初見での私の持った印象以上のことは親方でもわからなかった。
親方は仕入れ値を聞くと「適正」な利益分を乗せてそれを買い取った。そして「相当」な売値を付けてさばいてしまった。
まあ仕方ない。まだまだ私には「販売力」がない。店もなければ信用もなくたいしてコネもない。仕入れたものを七割ほどさばくことが出来たのち、私はまた仕入れの旅に出た。
その後、その店には数回訪問し、都度「掘り出し」が出来た。ただ全て物は違った。
店主は日本物に興味があるようで、いつも数点日本製らしき雑多なものを点頭に出していた。薩摩焼風の陶器、象牙の根付、漆器、日本刀等々。面白いことにどう見ても新しいのに妙に貫禄があった。あの「柿右衛門手」のように。
そもそも店全体の雰囲気も、アンティークショップというよりは、雑貨屋的なのだ。置いている品々もそれぞれ意匠は古いのに古物特有の匂いがない。私が勝手に骨董品屋と思っていただけで実は出来の良い土産物店なのかもしれない。
二回目に訪れた時、店主は私のことを覚えているといって歓待してくれた。ゆっくりしていけと言って紅茶にクッキーまで付けて出して来た。そして、いくつかの「日本物」を私の前に並べて言ったのだ。
「これについて教えてくれないか」と。
前回購入した様なものはもうないのかと聞くと、その後、出てこないと言う。その代わりこういうものを見つけて来たという。
買わなくても良いからこれらの物の解説が欲しい、ということらしい。私も結構物について語るのは好きな方だ、資金には限りがあるが、話すネタなら結構豊富にあるつもりだ。
調子に乗ってあれこれ喋った挙句、その日買い入れたのは薩摩焼風の花瓶一点だった。一振りあった日本刀は無銘だが完全な本身で美しく作りも良かった。しかしどんなに出来が良くても、証明書のない現代刀では日本に持ち帰れない。どうみても本象牙で作られた根付も、税関で見つかれば没収ものだ。欧州圏内なら移動は出来るので、英国あたりで転売という手もあったが、素性の知れないものを不慣れな土地で扱うのは剣呑だ。それよりここの主人に、業者仲間に転売する方法を教えた方が、後々のことを考えると有利と思い色々と話題にしてみた。
主人(リチャードと呼んでくれとのこと)は喜んだ。商売は最近になって始めたものらしく、ちゃんと勉強をしたわけでもないらしい。骨董品を扱いたいが、なかなかうまくいかないとのこと。西洋物の知識も常識以上のことはあまりなさそうだし、まして日本物についてはほとんど素人同然。
ただし物を見る目はしっかりとしていて、仕入れていたものも品物それ自体は良い出来で、ただ現代の製造品ばかり。それでも土産屋によくある粗製品ではなかった。前回の「柿右衛門」にしても今回の「薩摩」にしても、どんなところで作っているのか、製造元が判るのならすぐにでもいってみたいところだ。
だがリチャードは、それはわからないという。小さなバザールでたまたま見かけたもので、似たようなものはその後出てきていないらしい。このあたりで作られたものではないかもしれない。そうなると、追求しても無駄なことになる。再訪を約束して次の目的地に向かうことにした。
そして今回はとうとうリチャードの家に泊まっていくことになった。
その日は浮世絵を大量に見ることになった。その出来の良さに驚いた。何しろどう見ても新しいのに印刷ではなく木版刷りにしかみえなかったのだ。一枚一枚じっくりと見ていくうちに時間が過ぎ、気が付くと夜になっていた。あわてて暇乞いをしようとする私に、リチャードはゆっくり酒でも飲みながら話をしようと提案をしてきた。
正直な所ありがたい話だ。大量にものを見た私はかなり疲れていた。夜道を宿のある街までドライブするのは出来れば避けておきたかった。
店の裏手が彼の住居だった。というよりはおおきなお屋敷の道に面したほんの一部が店舗になっていたのだ。
建物の凄さから期待をしたのだが、食事は質素だった。家族達は現在旅行中とのこと、そのためか身の回りを世話するメイドさん(初老!)が居るだけの簡素バージョンで生活中らしい。
さすがにお酒は美味しかった。とてもじゃないが私が自腹で外で飲めるような代物ではない。このあたりが旧家のあなどれないところだ。
私は酒で軽くなった舌をフル回転させながら彼の質問に答えていた。
「近世の日本で浮世絵を扱っていたのはツタヤだけなのですか?」
「版元はいくつもあったけど、蔦屋は一番の大手ですね」
いろいろと私の分かる範囲で薀蓄を語っていくうちに、江戸時代の話になっていた。
「ここにあるのがその店でしょうか」
そう言って彼が出してきたのは、なんと江戸切絵図だった。さすがにコピーだったが。
「ああ、そうですね、ここにまちがいありません。しかしよく調べましたね」
「先日パリに行って調べて来たのです」
E∪が出来てからヨーロッパは狭くなった、と親方も言っていたが、あまり国境を気にせず移動出来るのは私達のような商売にとっても楽でありがたい。
「現在の地図でいうとどのあたりになるのでしょう」と、今度は新しい東京の地図を出してきた。蔦屋跡はどこなのかということだ。
江戸期と現在の比定は慣れていないと難しいところがある。このあたりやヨーロッパ全般にも言えるが、昔の道や建物がそのまま残っていると古い地図でも結構利用できたりするのだが、東京はそうはいかない。そもそも地名がすっかり変っている。「オリンピックとバカ役人共が悪い」と親方はよくぼやいていた。それでも私はその場所を新しい東京の地図上で特定出来た。
耕書堂・蔦屋重三郎。十八世紀後半、和暦で言えば天明・寛政頃の江戸に於いて絵草紙や浮世絵の版元として活躍。喜多川歌麿や東洲斎写楽も彼の抱えた絵師だ。当時の浮世絵の隆盛、ひいては日本文化の代表の一つを作り上げた功労者の一人と言っても過言ではない。
だからと言って二百年も前の店舗の場所など研究者でもない私が知っているわけがない、本来は。だが幸か不幸か(この後に起こったことを考えると本当に大袈裟ではなくそう思う)私はつい最近東京の✕✕を歩いていて蔦屋跡を示す看板を見ていたのだ。だから簡単に現代の東京区分図の該当箇所にマークを付けることが出来た。
その時の彼の驚き様と言ったら、人がみるみるうちに興奮して顔色の変わるさまなどそうそう見れるものではない。後々まで私はその様子を思い浮かべることが出来た。
「✕✕✕✕✕……!!!」
それまでの流暢な英語ではなく、おそらくは現地語で興奮しながらしばらく何事かを話したあと、ようやく気がついてわたしにも判るようにしゃべりだした。要は「なんでこんなピンポイントに場所が特定できるのか」ということに驚いたらしい。
私の事情を話すと納得できたようで「素晴らしい、奇跡だ、神に感謝を」などと繰り返す。そして、それまで飲んでいた酒を置いて、別のボトルを持ち出してきた。シャンパンのようだが素養のない私にはよくわからなかった。どうも特別の酒を飲もうということらしい。
私はそれほど酒飲みではない。嫌いではないが量が飲めない。そして自分の限度を越えるとどうなるかというと、ねむってしまうのだ。
この時もあっさりと限度を越えるとそのままテーブルに頭を伏せてしまったのだ。
しばらくして目が醒めた。なぜかどうにも体が窮屈で、あまりの不快さに耐えられなくなっての事だった。さっきまで飲食をしていた部屋ではないようだ、座っている椅子も違っている、なにより驚いたのは、私がその椅子にしっかりと固定されていた事だ。
「なんだこれは」
思わず声を出した。
「ああ気がついてしまったのか」
ずいぶんと近くで声がした。声のした方を見るとリチャードがしゃがみこんだままこちらを見ていた。
「すまんな不自由をかけて」
「これはどういうことだろうか、私は悪酔いをして迷惑でもかけたのだろうか、もしそうならお詫びをしたい、ちょっとこの手足を自由にしてくれないだろうか」
私は丁寧に話しかけた。
「その必要はない、君は大変おとなしく寝ていた、これは私の都合でしていることだ、できれば君には寝たままでいて欲しかったのだが」
(買付時の注意)
浮世絵は現在でも作られています。江戸時代の意匠のままの物もあれば現代作家による新しいデザインの物も普通に売られています。木版を新しく彫り直し、新しく漉かれた和紙に刷られていてアート作品としてなかなか手頃なものと思います。二万円ぐらいから買えたと思いますが、私自身はまだ買った事はありません。