釜の中
微グロ注意
今の季節ほど雨は冷たくなかった。それは覚えている。少なくとも屋外で、かつ濡れ鼠だったにも関わらずさして凍えるような状況ではなかったのは間違いない。それは確かだ。
ただ今ほど身体は清潔ではなく、今ほど身体に肉も無く、今ほど何の感慨も無く他人の身体に刃を突き立てる事も出来なかったように思う。
「い……ぎゃあぁぁぁぁぁぁ!」
僧帽筋と鎖骨の隙間にナイフを5cmほど刺し込んでやると、そのブクブクに膨れた脂肪袋のようなそいつは下品に鳴き声を上げた。
この脂肪袋の名は何と言ったか。
国防省の高官らしいがどうも宮仕えの奴等はどれも同じようなだらしない脂肪の塊にしか見えなくて判別がつかない。偉くなったから脂肪が付くのか、脂肪が付いてるから偉いのか。生まれてこのかた社会というものに組み込まれた事の無い我が身にはてんで判別がつかない。
わかるのは、総じてこいつ等は財布の紐と口が緩いということくらいか。
「全く、余計な事をしてくれたものだ」
周囲を囲む石壁に反響した硬い声が響く。
地下ということもあり声は奇妙な残響を持ち、耳に届いた。
声に、天井から下がる鎖に繋がれた脂肪袋が顔を上げる。
「ち、違うのだハイマン……。話を、話を聞いてくれ!」
「何が違うと言うのだマクベス。貴様は口を割り、此処の場所が割れた。今頃協会はギルドを通して名うての手練れ達をかき集め襲撃の準備をしている事だろう。……なあ、マクベス。そうだろう? 何が違うのだ」
ハイマンと呼ばれた漆黒のローブを着込んだ禿頭の男の正論に脂肪袋が押し黙る。
「国会での度重なる極右的発言に目を付けられていたのだろう。あれではどんな阿呆でも貴様の悪癖に気付く。この戦争愛好家のネクロフィリアめ」
その言葉に、脂肪袋の顔が空焚きされたヤカンのように紅潮する。
「黙れハイマン! 私が一体どれだけの援助をして来たと思っている⁉︎」
「金をちらつかせて我々に擦り寄って来たのは貴様の方だろう。それに、貴様の援助など無くても我々の活動には何の影響も無かったのだよ。ただ、国防省のパイプとして飼っていただけだ。勘違いするなよ、マクベス」
ハイマンからの目配せで拷問を再開する。
脂肪袋の痛覚と正気を紙一重で保ちながら、長く、最大の苦痛を与え続ける。
道端で死に掛けていたところを拷問吏としてここに拾われてから随分経つが、未だにこの作業には慣れない。
死なないように痛めつけるというのはなかなかに奥が深い。
人間は直ぐに発狂したり痛覚が遮断されたりして、脳が苦痛から逃げてしまう。そうなってしまうと何をしても暖簾に腕押しだ。何の意味も無い。
拷問というものは苦痛に緩急をつけ、対象に常に新鮮な痛みを与え続けなければならないのだ。あの頃に、生きる為にやってきた殺しとは訳が違う。
脂肪袋に釘を打ち、鋏を入れ、爪と皮を剥ぎながらここに拾われた頃を思い出す。
正直、邪龍信仰それそのものにさしたる感慨は無いのだ。ただ単純に道端で風雨に曝されているよりは生きやすいだろうと思っただけの事だ。
それでも最初の内は人間の悲鳴に耐え切れずよく反吐を吐いていたものだ。自分と同じ形をしているものを壊していく作業は酷く精神を蝕んだ。まだ野晒しでのたれ死んだ方がマシだったのではないかと思わせるくらいには。
悲鳴が、途切れる。
舌を切り取った事によって舌根が喉に落ち、呼吸困難に陥ったのだ。肉を震わせながら脂肪袋が痙攣を始める。
「もう壊してしまったのかい? 堪え性のない事だ。まああまりそれに時間も取っていられないからね。いつも通り死体は釜に放り込んでおいてくれ」
脂肪袋の痙攣が終わるのを待つことなくハイマンは部屋を後にする。
痙攣が終わり、窒息によって漏れ出した糞尿を水で流した後、死体を引き摺り部屋を出る。
湿った地下の通路の更に奥。幾重もの鍵によって厳重に施錠された扉の奥にそれはある。
見た目は石造りの井戸だ。しかしもう数えるのも馬鹿らしくなる程の死体を投げ込んでいるのに全く一杯になる気配が無い。この入り口の先がどれだけ深いのか、地獄に続く魔獣か何かの口のようなこの中が気にならないでもないが確かめたいとは思えない。
いつも通り、死体を穴に投げ込むと床にビッシリと描かれた模様が赤黒く明滅を繰り返す。光り方が昔よりも強くなっている気がするのは気の所為ではあるまい。
しかしこれが何を意味するのか。自分が何の方部を担いでいるのか。それを考える意味は無いのだ。
何故ならば、こうしていなければ自分とてこの口の中に放り込まれるのは間違いないのだから。
無駄な事に頭を使うより今日の糧を得よう。
陽は見れずとも、明日はまた来るのだから。




