エレンディア秋のパイ祭1
目が醒める。跳び起きる。
寝間着を脱ぎ捨て着慣れた仕事着に袖を通す。体毛がややごわつくのは秋のこの季節だからしょうがない。
ぴっちり閉じた木枠の窓を開けると清々しい朝日が……とはいかない。まだ午前3時だ。この時期の日の出はもう2時間以上後になるはずだ。
しかし程々冬に差し掛かった、鋭いとまではいかないまでも冷たい清廉な空気がまだ微睡む意識に心地いい。
「……くぁ」
背筋を伸ばして欠伸を1つ。
何故伸びをすると欠伸が出るのだろう。長年疑問ではあるが調べる程の興味も無く、2秒後には忘れる。
「さて……と」
今日は特別な日だ。エレンディア東街区をあげての収穫祭。その名もエレンディア秋のパイ祭だ。
東街区の名だたる飲食店から小さな個人営業の店までがこの日に限ってはその店の特製のパイを焼き、振舞うのだ。客は気に入ったパイに投票し、夕方に集計されその年のグランプリが決定する。グランプリに輝いた店は1年間、税が免除される上に各メディアにも大々的に取り上げられる。特に個人営業の店にとっては千載一遇のチャンスと言えるだろう。
あたしが世話になっているこの小さな飲食店、『青緑亭』にとってこれ程特別と言える日は無い。
エレンディア東街区のメインストリートから路地を3本も挟んだ決して良い立地とは言えない場所に佇むこの店の客入りは、正直芳しくない。しかし店主であるソーンのデニスが得意とする魚介系料理は絶品であるし、あたしのロイトリならではの手先の器用さを活かしたジビエ料理だって大手に引けを取らないと自負している。
実際、毎日のように通ってくれている常連さんも居るし、着実にご新規さんも増えている。
だが、しかし、だ。
やはり表通りに居を構える大手とは集客力において比べるべくもないのは事実だ。それは認めよう。
だからこそ、今年こそはこのパイ祭でグランプリを受賞し多くの人にこの店の味を知って貰いたいのだ。
その為の早起きである。
ジビエ料理の基本にして極意は何と言っても下処理だ。血抜きを怠れば臭みが残り、かと言って仕留めてから時間を置きすぎるとまた臭みが出る。食材としては大変にピーキーで扱い辛いが、高いレベルで調理されたジビエ料理は肉料理の最高峰だと思う。
あたしが住処として2階を間借りしている店舗の裏口を出ると高い壁に囲まれ、通りからは見えないようになった店の専有スペースがあるのだが、そこには4m四方の鉄製の箱が安置されている。駆動式により低音に保たれたこの箱の中身は今日の為の秘密兵器だ。
「ふふ」
思わず笑いが漏れる。
魚介系を主とするデニスにはジビエの効率の悪さを散々に言われてきたが今日こそは鼻を明かしてやれるというものだ。
何せ昨日の内に罠にかけ、麻酔状態にしてあるこいつはエレンディア大陸における最高のジビエである『ハナイノシシ』なのだ。捕獲と同時に魔法で麻酔状態にして極力ストレスを与えぬよう生捕りにしてあるハナイノシシは、その捕獲の難しさと肉の旨さから非常に珍重されている。獰猛極まるハナイノシシは普通に捕獲しようにも暴れ狂い、直ぐに肉質を損ねてしまうのだ。しかし、麻酔罠によって捕えられたハナイノシシの肉は柔らかく、臭みも出難い。当然血抜きをする必要はあるが麻酔状態故にそれも容易い。
今日という日の為に研究に研究を重ねた甲斐があったというものだ。
「ふっふっふっ」
いけないいけない。
あのデニスの偏屈オヤジを驚かせられると思うとどうしてもにやけてしまう。
いつもいつも、やれ獣臭いだのなんだのとバカにして。
行き倒れていたところを拾ってくれた恩もあるし、料理の腕は尊敬もしている。亜人法が適応されロイトリが人族として認知されたと言っても身体を包む体毛故に飲食業界ではウケが悪い中、調理場に立たせてくれているのも、まあありがたい。
でももうちょっと褒めてくれても良いではないか。
考えていたら腹が立ってきたので別の仕込みを進めることにする。
ハナイノシシの仕込みは正午からの祭の開催に合わせて血抜きと解体をすれば良い。今回内臓は使わないからあたしの技術を持ってすれば解体は1時間程で終わる。傷み易いハナイノシシはギリギリまで寝ていてもらおう。
店に戻り、厨房へ入る。
先ずはパイ包みの為のパイ生地を仕込まねば。
パイ生地の為のデトランプを作る為に等量の強力粉と薄力粉を振るう。これに塩を溶いた水を加え混ぜる。パン生地のように練る必要はないから作業的には楽だが、いかんせん今日はそこそこ量を作らねばならない。
適度に纏まったデトランプに包丁で十字の切れ込みを入れ、ラップで包み冷蔵庫へ。ここでデトランプを休ませる事によってグルテンのコシが切れてパイ生地を仕込む際に作業がしやすくなるのだ。これを何度か繰り返す間に最初の生地が適度に休まる。今度はこのデトランプを十字の切れ込みから開き、伸ばしてバターを折り込み、パイ生地に仕立てて行く。
開いたデトランプに折り込むバターを綿棒で叩いて伸ばすのだが、これがまた非力なロイトリには重労働だ。口煩く文句を言ってくるデニスの小憎たらしい顔を思い浮かべながらこの野郎とばかりにバターを叩く、叩く。
ヒトデ型に伸ばしたデトランプにバターを斜めに乗せ、風呂敷を閉じるようにバターを包む。
これを綿棒で伸ばし、折り畳むこと数回。
これで漸くパイ生地の出来上がりだ。
全てのパイ生地の仕込みが終わる頃には既に朝の8時を回っている。ここで厨房の扉が開き、エプロン姿のデニスが欠伸混じりに顔を出した。
「おう、おはようロッテ。なんだ、随分早いじゃねえか」
トレードマークのチョンマゲと髭を摩りながら言う。
「パイ祭の仕込みって言ってあったじゃない。デニスはパイ出さなくても、あたしは出すんだから」
デニスは毎年パイ祭には参加しない。
魚介がそもそもパイ向きじゃないと言って聞かないのだが、それは工夫次第だとあたしは思う。
それを証明する為のハナイノシシのパイ包みだ。
大手は通年、フルーツ系の甘いパイで参加しているし、あってもミートパイ程度だ。本格的な肉料理での参加は今の所、皆無である。
ここで新風を巻き起こしてやるのがあたしの狙いなのだ。
「お前、まだそんな浮ついた事言ってるのか? そんな事しなくったって味をわかってくれる客は居るし、第一ヴァン・サン・ミッシェルみたいな大手にうちが勝てる訳無ぇだろうが」
「デニスがそんなだからご新規が増えないんだよ! なんと言われてもあたしはやるからね!」
同じ土俵に立とうともしない内から諦めてたまるものか。
別に是が非でも業界のトップを目指したいとかそういう類の野心がある訳ではない。
ただ、デニスの料理はこんな路地の片隅に埋もれていて良いものではないと、あたしは思っている。あたしがパイ祭で話題を呼び、ひいてはデニスの魚介料理の素晴らしさを皆に知って欲しいだけだ。
フンと鼻を鳴らし、次はソースの仕込みへと移ろうとした矢先、裏庭の方で金属がひしゃげるような轟音が響いた。
背筋を駆ける怖気。
こんな音を立てる要因など1つしか無いではないか。
まさかと思い、それでも一抹の希望を胸に裏庭に飛び出す。
希望は、容易く打ち砕かれた。
裏庭に飛び出したあたしの視界に飛び込んで来たのはぽっかりと口を開け、空の中身を晒す鉄の箱だった。
「な、んで……。麻酔は⁈」
大急ぎで箱に書き込まれている駆動式を確認すると、維持の部分に僅かな綻びがある。恐らく、長時間の起動に耐えられず一時的に麻酔が弱まってしまったのだ。
「中身は⁈」
見回すと通りに面した側の柵が外側に向かって破られている。
野生の、しかも捕獲されたことにより気の立ったハナイノシシが街に放たれてしまったということか。
不味い不味い不味い。
先ずはどうする? 急いで見付けて……いや見付けたところで罠も仕掛けられないこの状況であたしが何を出来ると言うのか。
このままハナイノシシが暴れて住民に危害を加えでもしたら店の評判が云々の前に間違いなく営業停止だ。ならば早急に魔導協会に連絡して代行者による駆除を優先するしか……。
「……!」
意を決して部屋に駆け戻り、狩りに使う麻酔銃が入ったケースを担ぎ街に走り出す。
諦めるにはまだ早い。
時間はまだ9時。幸いまだ人通りは多くはない。表通りに出られる前に仕留めてしまえばまだ何とかなるはずだ。デニスの叫び声が後ろから聞こえるが応じている暇はない。破られた柵から路地に出ると柵の破片がハナイノシシは右に曲がった事を示している。
表通りとは逆だ。まだ望みはある。
あたしの所為でデニスの店を潰す訳にはいかない。まだ何も恩返し出来ていないのだ。このままでは恩を仇で返す事になってしまう。
嫌だ嫌だ嫌だ。
代行者に駆除を依頼してしまうのが1番の安全策なのは百も承知だ。しかしこのチャンスを不意にしてしまうのがどうしても怖かった。
来年もハナイノシシが都合良く捕まえられるとも限らないし、大手の傾向が変わって肉料理のパイ包みなど出されたら話題性や集客力的に見ても手も足も出ない。
今しか無いのだ。
然程広くない路地の石畳に残る蹄の跡を追い、十字路を左折する。
幸い上手く人通りを避けてくれている今の内が勝負だ。
肩に掛かるケースのベルトを握り締め、あたしは路地を駆けた。




