ギアニルステン
ギアニルステンと呼ばれた青竜の4つの目が一斉にクオ・ヴァディスに向く。
その目がまるで訝しむように細められ、そして驚いたように見開かれた。
「古キ匂イヲサセテイル者ガ居ルト思エバ……、世界樹ノ末裔カ」
世界樹の末裔。
ギアニルステンは確かにクオ・ヴァディスをそう呼んだ。
聞き慣れない単語に考えを巡らそうにも目の前の恐怖と、それにクオ・ヴァディスが竜と顔見知りだった事への驚きとで考えが全く形を成さない。
「キミの居所とは知らず煩くしてすまなかったね。人界の事情で申し訳ないのだけれど、ここの鉱脈筋の調査に来ていて、その、なんだ。相手方とお互いの主義主張の相違? があってさ。しかしキミが居たとなれば此処はキミの家だ。我々の都合で掘り起こす訳にはいかない。雇い主にはそう伝えておくよ」
「貴様ガ人族ニ雇ワレテイルト?」
咆哮。
巨大な頭部から発せられる大音声に鉱脈全体が震えているかのような錯覚に襲われる。
恐らく、笑っているのだろう。咆哮が収まると金色の瞳を細めクオ・ヴァディスにずいと顔を寄せる。
「貴様ト在ロウ者ガ人族ニ下ッタト言ウカ、角ノ人ヨ。傑作ダ。コノ数百年コンナニモ笑エル話ハ無カッタゾ」
「下るも何も私も人族さ。どうだろう、2度と此処には踏み入らないし何なら緩衝区の線引もどうにかしよう。だからこのまま大人しく帰っても良いかね?」
「貴様ガソノツモリデモ彼方ノ人族ハ違ウヨウダゾ?」
言われて視線を追うと怯えを振り払い、ザラが臨戦態勢で長剣を構えていた。
この相手を前に、構えをとれるだけ豪胆だとは思うがいかんせん相手が悪過ぎる。自殺行為だ。
「ザラくん、やめておいた方が良い。ギアニルステンは齢1200歳を超える純血種の竜だ。穏健派に属してはいるがそれは別に人族に優しいという意味ではないよ?」
「五月蝿え、こちとら竜狩だぜ。こんな大物を目の前にして退けるかよ!」
クオ・ヴァディスの制止を振り切り、ザラが前進。ギアニルステンの頭部に必殺の刺突を繰り出す。
だが、しかし。
音速の刺突はギアニルステンの鱗1枚傷付ける事なく、逆に金属音と共に長剣が砕け散っただけだった。
驚愕に、ザラの表情が凍り付く。
「キミ達ジャッカルは第4次竜伐隊の生き残りだと聞いたが、あの戦役でキミ達が戦った竜は改革派の、せいぜいが400歳程度の若い竜達だ。1000歳を超えた、しかも純血種の竜は生物としての格が違い過ぎる」
言明されていないとはいえ、役不足と言われたにも等しい言葉にザラが唇を噛む。
「少佐、ここは退こうや。死んだら元も子も無ぇ」
「……おい、刺青」
掛けられた声に、クオ・ヴァディスが小首を傾げる。
「手前、名前は?」
「クオ・ヴァディスだよ。別に憶えてくれなくて構わないんだが」
「何故だか知らねえが俺等を殺さなかった事を後悔させてやるからな。フィッツジェラルドのお抱えなんだろう? それならまた顔を合わせる事もあるだろうからな、その時はしっかり殺しきってやる」
「捨て台詞が小物臭いぞ、ザラくん。そういう時は一言で良いんだ」
口元は笑ったまま、クオ・ヴァディスの目が細められ深紅の瞳が冷たくザラを睨めつける。
「次は、殺す」
ザラやアンナとは全く異質な、氷のような殺気だった。
激情や憤怒に彩られた熱のある殺気ではない。その言葉は、波もなく月を写す湖面のように静まり返っているはずなのにまるで喉元に氷の刃を突き付けられているかのような奇妙な感覚。直に向けられているわけではないにも関わらず、実際に体感温度が低下したかのように鳥肌が立つ。
絶えず和やかな雰囲気を纏うクオ・ヴァディスからは想像も付かないような冷気に、思わず身震いした。
「……ちっ」
殺気から逃れるようにザラが舌打ちを1つ、踵を返す。
「ちゃんとお仲間は連れて帰ってくれよ? 長時間阻害式に当てられていたから少し魔力欠乏気味かも知れないが、まあ命に別状は無いよ」
クオ・ヴァディスはそう言うとずっと背負っていたグレイプニルの統合式を解除する。同時に天井にぶら下がっていた食人花の如き鎖の繭がゆっくりと魔素に還元されて行き、吐き出されるようにポロポロとジャッカルの面々が解放された。
ダービッドやアンナが力無く横たわっている最中、解放された途端に手足をバタバタとさせクオ・ヴァディスに駆け寄る影があった。
全身、頭までを黒のローブに身を包んだ人物だ。
その耳にあたる部分にはシャックスの駆動式が据えられている。新たに展開した様子が無かったということは、あの阻害式の塊の中でシャックスを維持し続けていたという事になる。
クオ・ヴァディス程ではないにしろ常識はずれの魔力容量だ。
駆け寄るローブにクオ・ヴァディスの目が警戒に細められる。しかしローブの人物は武器を構えるでもなく、駆動式を展開するでもなく、ただただ待ち合わせに遅れた乙女のような足取りでクオ・ヴァディスに近付き、アペシュによって外骨格に包まれた右腕に全力でしがみ付いた。
「あぁ、あぁ……凄い……わ。本当に凄い……。貴方の音……本当に堪らない……わ」
「また随分強烈な子が居たな……」
腰をクネクネとうねらせながら熱っぽく語りかけるその声は明らかに女性のものだった。
うんざり、と言うか若干引き気味にクオ・ヴァディスが手を振るもローブの女性は一向にしがみ付いた右腕から離れようとしない。
「何してるカルラ! 撤収だ!」
「私はカルラ……。カルラ・グレイプウッド……よ。近い内にまた逢いましょうクオ・ヴァディス……。貴方の音……もっと私に聴かせてちょうだ……い」
カルラと名乗った女性は思わせぶりな言葉を残し、漸くクオ・ヴァディスの腕から身体を離す。
「また……ね?」
ローブに隠れた顔に一瞬だけ発光酵素の光が差し込み、真っ赤なルージュの引かれた艶かしい唇が嬉しそうに歪むのが見えた。
クオ・ヴァディスは、うへぇと言わんばかりに顔を顰め、ご挨拶程度に左腕をピラピラと振る。
同性の自分から見てもわかる女の色香だったのだがどうもクオ・ヴァディスはあの手のアピールがお好みではないらしい。
……やはり身近にハルメニアのような絶世の美女が居ると女性に対してのハードルが上がるのだろうか。
溜息を1つ、クオ・ヴァディスがギアニルステンに向き直る。
「助かったよ、ギアニルステン。あのまま続けていたら余計な怪我をさせなければいけなくなるところだった」
その言葉を聞いて、ギアニルステンが鼻で笑う。
「随分ト御優シイコトダナ、角ノ人。我ガ生ヲ受ケル以前ノ貴様カラシタラ考エラレヌ」
ギアニルステンが生まれる1200年よりも以前。恐らく黒い獣の頃の話だろう。
「今ノ貴様ヲ見タラ、アノードステルハドウ思ウデアロウナ」
言葉を切ったギアニルステンの瞳が、ふと一瞬だけこちらに向き、すぐにまたクオ・ヴァディスに戻る。
「人族に肩入れしても碌な事が無いという事は貴様が一番知っている筈だ」
改めて発せられた言葉は声膜を通さない竜の言語であった為内容はわからない。しかし、ギアニルステンの視線の動きと、それを聞いたクオ・ヴァディスの痛みを堪えるような表情を見て、チクリと胸が痛む。
恐らく、甲角族の角狩りの事を言っているのだ。
「あー……」
クオ・ヴァディスが何かを言いかけて、やめる。
出かけた言葉を飲み込むように2度3度と口を開けては閉め、こちらを見やる。
自分を見、ダブラスを見、どこか慈しむような顔で、笑う。
「まあ、でも楽しくやっているよ。アノードステルには莫迦にされるかも知れないけれど」
カラカラと笑いながら、維持したままだったアペシュを解除。言っていた通り即座に組成が組み代わり元の状態に戻って行く。
それを聞いたギアニルステンは肩透かしをくらったように溜息を吐き、やれやれと言うかのように目を細めた。
「古キ者ガ何ヲ考エテイルカ知ラヌガ、アノードステルニハ角ノ人ハ息災デアッタト伝エテオコウ」
「いや別にそんなに気を回して貰わなくても良いのだけれど」
クオ・ヴァディスの表情に何故か焦りの色が垣間見える。どこかで見た表情だと記憶を辿ってみると、簡単に思い当たった。
レゾの感謝祭の時に、取り乱したハルメニアに対して見せたあの顔だ。
「クオさん、女性の話になると何だか慌ただしくなりますけれど……」
「マジかよ旦那……ぽえっとした顔してやるこたぁやってんだな……と言うかちょっと待て、アノードステルって女性なのか⁈」
「あー、そのくだりは前にやったなぁ」
純血種の年経た竜の前でなんという緊張感の無さだろうと、つい開いてしまった口を噤む。しかし当のギアニルステンは怒るでも呆れるでもなく4つの瞳でこちらを見ていた。
「永カッタナ、角ノ人」
「……そうだね」
そのやりとりの意味はわからなかったが2人はこれで話は終わりといったように、笑った。
「じゃあ失礼するよ、ギアニルステン。息災でな」
「貴様モナ、角ノ人。そして、イルガーノ匂イノ人族ト、魔力ガ無イ異端ノ人族」
ギアニルステンが言葉を切り、こちらを見る。
「長ク、生キヨ」
そう言って巨大な頭部を擡げ、踵を返して鉱脈の奥へと帰って行った。
最後の言葉の意味は何だったのか。
何故、少しだけ悲しそうな目をしたのだろう。
一瞬緊張の糸が切れてしまい、途端に思い出したかのように肩の傷口が灼熱した。傷口はやたらと熱いのにそこから先の感覚が無いのが怖い。
「リーリエ⁈ おい旦那! 早く治療してやってくれ!」
ダブラスの叫びにクオ・ヴァディスが慌てて駆け寄ってくる。
左腕を手に取り、肩に取り敢えずとばかりに当てられていただけの止血帯を剥がし、傷口を確認する。
取られた左腕に触られている感触が、ない。
本能的な恐怖に傷口を確認しようと視線を向けた瞬間、クオ・ヴァディスの掌によって優しく目隠しされた。
「んー、見ない方が良いかな。三角筋どころか上腕骨ごと断ち斬られてて殆ど皮膚で繋がっているだけの状態なんだ。でも驚くほど綺麗な切り口だから大丈夫。傷痕を残さないで済みそうだ」
傷痕が残らないのは女子として有難いが今、現状を以って自分の腕の状態が恐ろしい。
感覚が無いはずだ。大きな怪我によるショック状態回避の為に脳が痛覚の伝達を拒否しているのだ。
「だだだ大丈夫なんですの? 本当に元に戻りますの?」
危うく左腕を欠損しかけるという体験したことのない怪我に思わず舌が縺れる。
「元に戻るのは保証するけど……」
「何故そこで言い淀みますの⁈」
「や、筋肉だけじゃなくて骨までの再生だからね。凄く痛いよ?多分斬られた時より」
目隠しされたままでもわかる。今この男、凄く良い笑顔で言った。間違いない。
本当は痛覚をカットして痛くなく治療出来るのにわざと痛いまま治療しているのではなかろうか。
しかし、背に腹は変えられないというのは正にこの事だ。
無言のまま、渋々頷く。
「ダブラス、綺麗な布を用意してくれ。痛みでリーリエが舌を噛まないようにしっかり布を噛ませておいてくれ」
「……うわ、何かこの絵面すげえ犯罪的だな……」
「言葉にしないでくれないか……。リーリエ、我慢しないで気絶した方が楽だからね。ちゃんと負ぶって外に連れて行くから安心して寝ていてくれ」
レゾで毒抜きをされた時の情景が脳裏にフラッシュバックした瞬間、傷口の灼熱感が爆発した。
「っっっっっっ⁈」
身体中の筋肉が一斉に硬直し、座っていた身体が跳ねる。
傷口の細胞1つ1つが爆発していくかのような常軌を逸する痛みに脳髄が灼けるかのような錯覚を覚える。いや、錯覚ではなく本当に灼き切れているのではなかろうか。
「意識を手放せ、リーリエ。痛みで発狂してしまう」
やけに落ち着いたクオ・ヴァディスの声を最後に、痛み以外の事を考えられなくなっていた意識は闇の彼方へ旅立って行った。




