対人戦
肌に殺気が突き刺さるのがわかる。
アンナと呼ばれていたあの東国の少女が何故貴族を毛嫌いしているのかはわからないが、肌に感じる殺気の程は尋常ならざる気配を漂わせていた。
まともな対人戦闘はこれで2度目だが魔獣や竜とはまた違った緊張がある。
魔獣は然程知性の高くないものが多いため純粋に対能力戦を意識すれば良い。
竜はそもそも個人に対して殺気を振りまくような気質をまず持ち合わせていない。
しかし、人が人に向ける殺気というものがこれ程恐ろしいとは。
先の斥候との戦闘でも感じたが、あの時とは質が違うように思う。より感情的とでも言うのだろうか。個人的な執念とか怨念めいた何かに裏打ちされた黒い感情をぶつけられているようだ。
膝が、震える。
これでも代行者として、金星天としてそれなりの修羅場は越えて来たつもりだ。暴徒とも、魔獣とも、竜とも大精霊とも戦って来た。
だが、明確にリーリエ・フォン・マクマハウゼンという個人を認識し尚且つ殺す腹積もりの個人と戦った事は、終ぞ無かった。
「震えてるぞ、糞貴族」
その恐怖を隠し切れるはずもなくあっさりと見透かされる。
「大見栄切ったくせにそのザマか。大人しく温室で暮らしてないから、そうなる」
年端も行かぬ少女から発せられる辛辣な言葉が心を抉る。
確かに、クオ・ヴァディスに褒められた事によって少し思い上がっていた部分が無いとも言い切れなかったからだ。
「何故、そんなにも貴族が嫌いなのか聞いてもよろしいですか?」
恐怖を誤魔化そうと絞り出した問い掛けにアンナの整った顔に凶相が刻まれる。
「よろしいですか? はっ! だから貴族は嫌いなんだ!」
アンナの感情が突如として爆発した。
桜色の可憐な唇から犬歯を剥き出しにして、腰から引き抜いた2本の短刀を逆手に構える。
「『そのご丁寧な物腰叩き折って命乞いしか出来なくしてやる』」
東国の言葉で吐き出されたその言葉の意味はわからなかったが、表情と語気で心情は汲み取れた。
来る。
魔眼を起動するのと同時に相手の両踝の辺りに見慣れない式が展開する。駆動式のように視えたがそれを据える魔導回路が存在しない。
東国固有の魔導体系、『術式』と呼ばれる身体能力強化に特化した魔法だ。
反射的に眼前に構えたゼフィランサスに衝撃。それと共に右肩が浅く斬り裂かれ鮮血が舞う。
彼我の距離は凡そ5mあったと言うのにその距離を一足飛びに斬りつけられたのだ。
痛みを感じる間も無く背後で具足が大地を噛む音が耳に届く。体勢を立て直すのがまるで間に合わない。
背中に十字の熱。
十文字に斬りつけられたのだと理解したのは、緊急回避で転がった際に切り落とされた協会のマントが視界に入った時だった。
一拍遅れて訪れる痛みを堪え、転がった勢いを殺さずに立ち上がる。
顔を上げた先にアンナの姿は、ない。
時々周囲で上がる地を踏む音はアンナが魔法によって姿を消した訳ではなく、短距離の高速移動を繰り返している事を教えてくれる。
確か『縮地』という名の術式だったか。
本来は縮地法と呼ばれる武術の体捌きの総称だが、体幹及び下半身の筋肉群と三半規管からなる神経系を強化する事によって本当に大地が縮まったかのような高速移動を実現させる術式だったはずだ。
東国の術式は魔導回路を用いず、体内の魔力を駆動式で制御する特殊な構造をしている。魔素を物質置換せず内在する魔力自体を身体強化に充てる為に、駆動式によって魔力の質そのものの方向性を決めてやるのだ。
話には聞いていたが実際に目にしてみると、それは神業だった。
最初に駆動式を起動する際に消費する僅かな魔力以外は殆ど損失の無い循環を成立している。体外での物質置換が必要無いからか踝に据えられた駆動式と体内の魔力の循環が美しい環状を描いていた。
これを成立させているのは極めて緻密な魔力の循環速度のコントロールだ。遅すぎても早すぎても、例え僅かでも速度が狂えば簡単にこの循環は瓦解してしまう。
アゥクドラとの会敵した際に、自分はクオ・ヴァディスとその魔導回路の補助があったからこそ成し得たが、回路の補助無しにこれを維持し続けるのは毛髪程の細さの針に更に細い糸を通すかのような繊細さを要求される筈だ。しかも高速戦闘中ともなればそれはもう神業としか言いようが無い。
「契機—エンゲージ—!」
対象は見えないが構うものか。魔導回路にユピテルの駆動式を据え、起動。手当たり次第撒き散らす積もりで発射する。
「『ユピテル』!」
自分を中心に発生した電光の渦が鉱脈を明るく照らす。
足止め程度にでもなれば良しとユピテルを選択したが、ふとチェルリアでの自分の言葉が脳裏をよぎる。
『相手が何らかの絶縁手段を持っていたら簡単に無力化されてしまいます』。
絶縁手段。
思い出して鳥肌が立つのとほぼ同時に電光の渦に踏み込む影。
エメラルドグリーンに発光する絶縁補助式に包まれたアンナだと認識したのは先程とは逆の左肩を深々と斬り裂かれた後だった。
「うぅっ⁈」
左肩に生まれた灼熱に声が漏れる。痛い痛い痛い痛い痛い!
「糞貴族、短慮。装具に絶縁、徒党を組むなら当たり前」
あって然るべき要因なのに完全に失念していた。自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。
よほど深く斬られたのか上がらぬ左肩を意識から外し、必死に頭を回す。
今求められるのは、絶縁に関係なく、高速移動する対象を捕捉し、尚且つ対象を殺してしまう事のない、そんな手段だ。
ビルスキルニル。駄目だ、威力が無さ過ぎて絶縁補助式で簡単に無効化されてしまう。
ミョルニル。これも駄目だ。確かに絶縁補助式の突破は容易だろうがこちらは威力があり過ぎてほぼ確実にアンナを殺してしまう。
エペタム。上手く足を狙えれば殺さずに動きを止められるかもしれないが、そもそも弾道が直線的過ぎて当てられる気がしない。
ならば、どうする。
「やはり、脆いな、魔法使い」
背後から掛かった声に慌てて振り返ると、そこには鮮血の滴る短刀を携えたまま腰に手を当てるアンナが居た。
「どうにかする違ったか? どうにかしてみろよ、糞貴族」
笑みと共に再びアンナの姿が視界から掻き消える。
なんと言う速力だ。残像どころか初期動作すらも捉えられない。
だが。
無事な右手で右後方に振ったゼフィランサスに衝撃と共に金属音が響く。同時に伝わる驚愕の気配。
「見えている、だと?」
「動きは全く見えませんわ。でも、貴女の駆動式を追う事は私にも出来ますのよ」
魔眼で視えている像を知覚しているのは、どうやら脳の視覚野ではない。文献が存在しなかったので、じゃあどこでどのような処理が行われているのかはわからないが違うということは経験上。はっきりとわかる。
何故ならば、魔眼の像は全く残像を写さないからだ。
人の目の時間分解能は50msから100ms程度であり、この処理速度を超えるものをはっきりと認識することは難しいとされる。アンナがまるで消えたように見えたのはその所為だ。
しかし、魔眼が写している魔素に象られた像は大きく右回りに自分の背後をとろうと動く縮地の駆動式を捉え続けていた。
仕組みはさっぱりだが今、この場に於いてこれ程頼りになるものは無い。
「『ミストルティン』!」
距離を取る為に数を絞ったミストルティンを発動。回避のためにアンナが芸術的なバク宙で後方へ飛ぶ。
「小賢しい!」
バク宙の最中、身体を伸ばす事で回転の方向を変え、空中からこちらに投げナイフを放ってくる。
先の戦闘と同じ轍を踏まぬよう右側方に大きく転がる事によりこれを回避。絶望的なまでのアンナとの体術の差に最早笑いすら浮かんでくる。帰ったらちゃんと実技訓練を受けようそうしよう。
「『ミストルティン』!」
バク宙の着地点を狙い再びミストルティンを発射。
アンナは着地の姿勢に拘泥せず勢いそのまま後方に転がる事で光弾を回避する。
見惚れるような体術だ。
やはり点を狙う攻撃系の魔法では捉え切れる気がしない。
あまり得意な方ではないのだが、空間を対象にした現象魔法に巻き込むしか手段が無さそうだ。性質上、演算時の負荷と魔力消費が莫大な為またクオ・ヴァディスに迷惑を掛けてしまいそうで使いたくない手段なのだが、この際うだうだ言っている場合ではない。
大見栄を切った以上、それに足る仕事はせねばなるまい。
クオ・ヴァディスに『またか』と言われそうだなと思うと、何だか笑えてきた。
「契機—エンゲージ—」
ゼフィランサスの補助式を全開放。次いで魔導回路を臨界点ギリギリで起動する。オーバークロック状態の演算負荷に脳神経が耐えられず悍ましい程の耳鳴りと頭痛が押し寄せる。使おうとしている駆動式はそのままだと効果範囲が悲しくなるほど狭く、今回の様なケースでは全く役に立たない。かと言ってクオ・ヴァディスのように構成式を書き換えて範囲を拡大することも出来ないならば、暴走するギリギリまで出力を上げてやるしか無い。
据えた駆動式が想定の数倍の過負荷によって大気に物理干渉を始め、ギュラギュラという錆びた歯車のような音を立て周囲の魔素の振動率を天井知らずに上げて行く。
重い。
空間に影響を及ぼす系統の魔法を使うことはあまりないのだが、ここまで制御が難しいとは。
考えてみるまでもなく当たり前の話なのだ。
今から使う魔法は元来理化学試験などに使われるもので、どう転んでも戦闘に用いられるような魔法ではない。そのため制御系における効率や消費と供給のバランスは度外視して構成されており、そもそも戦闘を想定して調整されているゼフィランサスのような装具の補助式では相性が悪いのだ。
ガラスの小瓶1つ程の効果範囲を無理矢理10m四方に押し広げる。この座標軸の処理だけで脳神経が焼き付きそうだ。
結界を作る要領で座標指定を完了。こちらを値踏みするように睨みつけているアンナを中心に不可視の陣が形成される。もう少しだけ、そのまま警戒していて欲しい。発動さえしてしまえば、1呼吸の間に決着する。
ふと、頬の辺りを熱い液体が流れる。
ゼフィランサスを持ったまま手の甲で拭ってみると、赤い。
脳圧に耐え切れず眼球の毛細血管が破裂しているらしい。それに呼応するように鼻からも、熱。
「なんだ、自滅でもするのか?」
嘲るような笑みと共にアンナがこちらに歩み寄って来る。
駄目だ。もう少しだけ、発動に時間が掛かる。
間に合わない。
その刹那、頭上から金属音が響きグレイプニルの鎖がアンナを牽制し元いた位置まで後退させた。
確認するまでも無い。クオ・ヴァディスがこちらの様子を伺っていて自分の目的を察して手を貸してくれたのだ。
全く、うちの師匠様は面倒見がいい。
臨界に達した駆動式を全力解放。
いつものように魔法を叫ぼうにも舌が回らない。紅く染まる視界の中、遠ざかる意識を必死で捕まえて効果を制御する。
「……なんだ?」
発動した魔法に警戒するアンナが訝しむ声を漏らす。
見た目には何も起こらぬその状況に困惑しているのだろうがもう、遅い。
困惑の表情に突如として驚愕の色が浮かぶ。喘ぐように口を開き、一呼吸。しまった、と言う顔をして口を塞ぎその場から離れようとするが既に痙攣を始めた足は役目を果たさず、膝から地に落ちた。
「ガス……だと⁈ ……そんな……感知出来ないはずが……⁉︎」
近代魔法戦闘において、毒性ガス対策は基本中の基本だ。それなりの装具であれば各種毒性ガス感知の為の補助式が備え付けられている。怠ればガスだけで1個小隊が全滅の憂き目にあう可能性もゼロではないからだ。
それ故に、そこに付け入る隙があった。
アトゥム系統化学系現象魔法『ケベンセヌフ』。
効果範囲内の気体や液体を電気分解する、ただそれだけの魔法だ。通常は理化学系や工業系などの専門職に用いられる。例えば実験に極めて純粋な水素を使いたい時。例えば酸化を防ぐ為の梱包に窒素を充填したい時。言ってしまえばこの駆動式を持っている代行者など自分だけであろう。
先のヘイムダルの要領で座標を指定し、その内部の大気を電気分解。大まかに酸素、窒素、アルゴンに分解した大気の酸素だけを選択して結界から排出したのだ。
これにより結界内の酸素濃度は急激に低下する。
詰まる所、今アンナを襲っている症状は急激な酸素欠乏症、窒息だ。
「うぅっ……」
支えきれなくなったケベンセヌフが瓦解。緩やかに酸素濃度は回復していくが、喘ぐアンナの呼吸はそう簡単に元には戻らない。
通常21%である大気の酸素濃度に対してケベンセヌフで作り出した結界内の酸素濃度は凡そ6%。この大気状態で呼吸してしまったアンナは酸素の濃度勾配によって肺胞毛細血管の酸素を引っ張り出されてしまっているのだ。
「ち……ぐ、しょ……ぅ」
口の端から泡を吹き、アンナの目が虚ろになっていく。これ以上は危険だ。
「クオさ……」
声を掛けようとした瞬間、天井から再びグレイプニルの鎖が飛来。アンナを絡め取りジャッカルの他の仲間と同じように天井の繭の中に飲み込んで行った。
「心配しなくて良いよ。取り急ぎ酸素を吸わせて強制的に肺胞のガス交換をさせている。結構エグいことするね、キミは」
そう言うクオ・ヴァディスの横顔は何故か嬉しそうだ。
一先ず、張った見栄の分は働けたと思ったら矢先、膝から力が抜ける。
「おっと」
地面との接吻を遮ってくれたのはいつの間にか決着を付けていたらしいダブラスだった。
「ありがとう、ございます」
「良いって事よって、ぅお⁈ 血だるまじゃねぇか⁈ 旦那、旦那ーっ!」
「えぇい煩いな。こっち片付けたらすぐ行くから止血だけしてあげてくれ」
クオ・ヴァディスの言葉に、対峙していたザラの眉間の皺が深さを増す。
「片付けられるつもりか?」
「無論さ。キミとの戦闘も楽しそうだけれども、私には今、もっと楽しい事が出来てしまった。教え子が成長して行く様っていうのはこんなにも楽しいんだな」
言ってこちらを振り向いたクオ・ヴァディスの表情は、見た事のない、慈愛に満ちた優しいものだった。
「帰ったらもっとちゃんと教えてあげないとね。少し、待っててくれ」
まるでザラとハインツの事など眼中に無いと言わんばかりの物言いに激昂したハインツが長槍を構え、突撃する。
こちらを振り向いたままのクオ・ヴァディスの側頭部を狙い、回転を付けられた三叉の長槍が突き出されるがクオ・ヴァディスはそれを一瞥もくれずに右腕を振って打ち払った。
容易く砕け散る右腕を見て突きを放ったハインツのみならず、ザラまでもが驚愕に目を見開く。
「なんだい、今話をしているんだから邪魔しないでくれないかな」
痛みを感じているのかいないのか、ハインツの方に向き直った顔にはそれでも笑顔。
即座に再生を開始した右腕を凝視してしまっていたハインツのガラ空きの腹に、たっぷり体重の乗ったクオ・ヴァディスの横蹴りが突き刺さった。
「げっ⁈」
内臓の空気が絞り出されたかのような音を喉からはいて、ハインツがくの字に吹き飛ぶ。
吹き飛んだ先を確認する事もなく、クオ・ヴァディスは再生している右腕をプラプラと振りながらザラに向かってゆっくりと歩いていく。
竜に向かって、ジェドに向かって歩いていった時のような傲岸不遜な超越者の歩みで。
「じゃあ、私達も始めようか」
信じられない程の体格差にも関わらず、クオ・ヴァディスの背中はザラよりもはるかに大きく見えた。




