先手
意識が表層に浮かび上がって来るのと同時に身体の猛烈な倦怠感を自覚する。全身が鉛のプールに浸かっているかのように身体の至る所が重い。と言うよりは鈍いといった感じだろうか。自分で動かしている筈なのに感覚的には一歩遅れて動いているかのような不可思議な感触。
不快感と言うほどではないが不可解な自らの感覚にリーリエは瞼を持ち上げるのにすら随分な時間を要した。
「おぉ、良かった。目を覚ましたね。大丈夫かい? 私がわかるかな?」
顔をクオ・ヴァディスに覗き込まれている事で自分が寝かされている事に気付く。
最早何度目になるだろうかクオ・ヴァディスの邸宅のベッドに、リーリエは寝かされていた。
最近気を失ってばかりな気がするなぁ、とぼんやり考えて、何故気を失っていたかを思い出す。
「……、あ……?」
どうなってこの状況になっているのか、クオ・ヴァディスに問おうとして全く声が出て来ない事に驚く。
「ああ、無理しちゃ駄目だ。毒を分解する為に6割近い血液を置換精製したからね。キミの身体は今新しい血液にびっくりして免疫不全に近い状態なんだ。無理すると内臓がひっくり返るよ」
何だかよくわからないが大変な事をされたというのは理解出来た。
兎にも角にも毒自体はどうにかなったということらしい。
安堵に全身の緊張が緩む。
毒によって身体の部分からゆっくりと死んでいく恐怖というのは竜の圧倒的な力に相対する恐怖とは違い、死に行く恐怖を自覚する時間がある分タチが悪い。
正直、クオ・ヴァディスが居たとは言え今回は本当にもう駄目かと思っていた。
「セーフリームニルでキミの身体のホメオスタシスを促進して……、まあ元に戻ろうとする機能を活性化してるから少し寝てる間に治るさ」
今、説明を端折ったな。
説明されたところでさっぱりな訳だが、されないならされないで何処となく不安になる。
医者に言葉を濁されたような気分だ。
それは、それとして、だ。
「斥候は、どうなりました……?」
何処の斥候かはわからずとも少なくとも倒した以上情報が伝わる事は防げたはずだ。
3人以上だった場合目も当てられないが、それはもう初手で出遅れた以上祈るより他無い。
「状況は、まあ良くはないね」
クオ・ヴァディスがそう言って右手に持った物を掲げて見せる。
ただでさえ引き気味だった血の気が更に引いた。
クオ・ヴァディスの右手につままれた瓶には薄い青色の羽根を持った蝶のようなものが詰められている。
人工精霊。
昨日の段階から情報は筒抜けであったということだ。
「御丁寧に跡を追えぬよう枝は切られた後でした。自爆の潔さといいなかなかどうしてプロの仕事をしている」
クオ・ヴァディスの背後から神妙な面持ちのトリスタンが顔を覗かせる。
「しかしこの場はリーリエ様のご無事を素直に喜ぶとしましょう。あの局面で速やかに広範囲魔法を撃つ機転、見事で御座いました。おかげで私達も駆け付ける事が出来ましたからな」
実際は賭けでしかなかった。
トリスタンの探知の範囲はわからなかったし、クオ・ヴァディスに至ってはどうも探知が苦手なようだ。
通常、何処に味方が居るともわからない状況で広範囲に影響を及ぼす魔法は愚策中の愚策ではあったのだが、2人の力量を信頼し半ば巻き込むつもりで撃って正解だった。
「もう少し遅かったらと思うと肝が冷えるよ。いっそ全力で逃げてくれていても良かったんだけどね」
「馬鹿な。貴様、リーリエ様の胆力を侮辱するつもりか。彼処で敵を引き止めてくれていたからこそ、こうして敵に情報が知れた事を知る事が出来たのではないか」
「それは結果論だろう。最悪リーリエは殺されていた。まあ探知なんぞ出来ない私がとやかく言えた義理じゃないのはわかっているんだがどうにも、な」
クオ・ヴァディスがまた困ったような、ホッとしたような笑顔で頭を撫でてくる。
「本当、無事で良かった。あまり無茶はしないでくれよ? せっかく出来た友達をこんなことで失いたくない」
申し訳無いような、居た堪れない気持ちに胸が締め付けられる。
祭の夜の段階で訴えてさえいれば状況は違ったかもしれないという後悔が、どうしても拭えなかった。
「何か申し訳ないみたいに思ってそうな顔しているけども無事な事が1番だよ。後は前向きに対策を考えようじゃないか」
「それも、ありますが、もう1つ……」
漸く声帯が言う事を聞き始めた。
これはどうしても言っておかねばならない。
「斥候は、祭の夜から居た可能性があります。遠目だった上に一瞬でしたが、生活魔法式とは明らかに異なる駆動式を見た気がします……。その時伝えておけば……」
「外部の人間が入って来ても違和感が無い絶好のタイミングだったからねぇ。こればかりはしょうがない」
「クオさんの、魔導災害指定を聞かれたかも知れないんですよ⁈」
クオ・ヴァディスと、やや後方で聞いていたトリスタンが表情を曇らせる。
当たり前だ。
人族のコミュニティーに魔導災害指定が紛れ込んでいるというだけの話では最早ない。
ティア・ブルーメと魔導災害指定が繋がってしまっているのだ。
これは国連加入国であるティア・ブルーメの立場を大きく揺るがす可能性がある事態だ。
「リーリエ様の仰りたい事はわかりますが、まだ事態は然程切迫してはおりませんぞ」
「どういう事ですの?」
ニマッと朗らかに笑ってトリスタンが懐から取り出したのは、焼け焦げた魔素式映写機だった。
「リーリエ様の電撃で見事に破壊されていますな。敵方に情報は渡ったかも知れませんが証拠がありません。女王と魔導災害指定が繋がっているなど証拠無しにはゴシップ誌のネタにしても3流でしょう?」
「成る程、今動いてしまうと逆に尻尾を出すことになるということか」
「貴様、何も考えてなかったな?」
頭の上に豆電球が付いたかのようなクオ・ヴァディスの顔を見た途端、力が抜けた。
首の皮一枚繋がった気分というのはこういう事を言うのだろう。
確かに確たる証拠が無ければ大義名分が掲げられない。つまりは敵方が強大なら強大な程動く事が出来ないということだ。
「でも」
しかし、だ。
「もしも、相手が其れ程大きくなくて、例えば私怨に近い感情からこちらの粗を探っていたとしたら、どうでしょう? こちらにはハル様が居ると言う事で相対的に仮想敵を大きくしてしまいがちですが、その前提が間違っているとしたら?」
そもそもハルメニアが標的であったかどうかも定かではないのだ。その大前提を否定すると残る要素が1つあった。
「私は先日のハイエステス支所に疑いを抱いています」
ナッシュ・サンドマンと名乗ったあの騎士。
事の真偽は兎に角として、竜狩りの二つ名を聞いたあの目は尋常な目付きではなかった。
そして、あの目には覚えがあった。
神天を授与して暫く、マスコミに持て囃されていた頃に協会内で良く感じていた粘っこい視線。
その視線の先には大抵あの目があった。
嫉妬。
疑念。
侮蔑。
そういった負の感情が発露したかのようなあの目は疑いを抱く理由としては十分だった。
「あぁ……、あの騎士か。確かにこういう事をしそうな感じではあったけども仮にも魔導協会の代行者だろう? 根拠はあるのかい?」
「同じ代行者としてはあまり言いたくはありませんが1番の根拠は第一印象ですね……。それにタイミングです。他国からの斥候だと仮定した場合、狙いはハル様の筈。だとすればレゾへの斥候はほぼ不可能ですわ」
「そうか、ハルは王都に公務で赴いたんだった。フヴェズルングを追って来るにしても対応が早すぎるか」
「と言うよりフヴェズルングで跳んだ以上足を追えぬ筈だ。私とて、大まかな方角しか探知出来ぬ。其処からは小まめな探知の繰り返しでハル様の魔力波長を探るしか無いからな」
「それにしてはお早い到着だったな……」
王都からレゾまで凡そ3日。早馬で2日半。不眠不休でも1日半は掛かる。ハルメニアを標的としていた場合先ずは王都に向かう筈だ。そこから収穫祭の夜までにレゾへ斥候を送り込むには、最短でハルメニアの行き先を探知し、不眠不休でレゾに向かうか、都合良くレゾ近辺に居る仲間に連絡を取る必要がある。
言い方は悪いかもしれないがレゾを含め近郊に戦術的政治的要所は無く、都合良く敵方の身内が潜伏していた可能性は極めて低い。
消去法で考えてレゾに斥候を派遣出来て、尚且つ派遣する理由が少しでもあるのはナッシュ・サンドマンが所属するハイエステス支所しか心当たりが無かった。
「そう仮定するとあまり芳しくないな。恐らく斥候に踏み切ったのはリーリエの報告書にハルの連名があったからだろう。それでリーリエがいる筈の王都では無く此方に斥候を、しかも威力偵察が可能な人員を送り込むような輩だ。証拠が無いとしても何をしてくるかわからない」
「恐らく王都にも斥候を放っていると思いますわ。ハイエステスはちょうどレゾと王都の中間ですし、人工精霊で相互連絡が取れるなら同時に偵察してしまった方が情報の確度が上がります」
「何やら話が見えませんが魔導協会内部のいざこざに端を発する斥候ということですかな?」
何事か考え込んでいた様子のトリスタンが問いかけてくる。
「その可能性が1番高そうですわ。先日の竜騒動でレゾに派遣されたハイエステス支所の騎士殿に、恐らく良く思われてないようなので……」
「でしたら魔導災害指定と繋がっていると認識されて1番不味いのはリーリエ様ではありませんかな?」
提示された新たな問題に心臓が跳ねる。
事態の把握に必死で完全に自分の事が埒外だった。言われてみれば全くもってその通りだ。
女王と魔導災害指定はネタにもならないが、最年少金星天と魔導災害指定ならばゴシップ誌から女性週刊誌くらいまでは格上げ出来そうなネタだ。
なまじ最年少ということでアレやコレやと下品な話題で衆目に晒されていただけに証拠など無かろうが悪影響は免れまい。
それだけならばまだしも。
「あの騎士の事だ。異端審問くらいやり兼ねないな」
クオ・ヴァディスがちょうど考えていた事を代弁するかのようなタイミングで口を開く。
魔導協会には身内の錆を落とす為の異端審問官の任を負っている者が居る。その任の性質上詳細が明かされる事は無いが、ハイエステス支所には例外があった。
血塗れ聖者、と呼ばれる異端審問官がハイエステス支所には居る。確かに詳細は不明だが、所属を公式に認めている。居る、ということが周知であるというだけで同組織内でそれは立派な抑止力として働くからだという見方もあるが、殆ど恫喝と同義である。
その力を公的に振るえるハイエステス支所が協会代行者と魔導災害指定が繋がっているという情報を得たとなれば、次の行動は1つである。
疑わしきは罰せよ、だ。
「其奴は本当に騎士か? 随分とやり口が陰険ではないか」
「会えば、と言うか一目見ればわかるよトリスタン。アレは、やる」
クオ・ヴァディスの言葉に思わず強く頷く。
「しかし困ったな。あんな物騒な輩を何度も送り込まれたら村に被害が及びかねない」
1番の懸念はそれだ。斥候など知らぬ存ぜぬで通してしまう気になれば、魔導協会という巨大な権能はその力を遺憾無く発揮するだろう。
国軍を凌駕するとも言われる武力を抱えた協会は既に凡ゆる警察機構の上に位置する立ち位置にいる。この姿勢の為、他国から軍事費を低く計上する為の軍事政策と揶揄される程だ。
そんな権能を振るわせる訳にはいかない。
そんな歪な権能などでレゾの、クオ・ヴァディスの安寧を乱す訳にはいかない。
「私が……!」
「えい」
チョップされた。
割と強めに。
「っ⁉︎ ……⁈」
痛みよりも状況に着いて行けず頭を抑えていると、チョップの態勢のままのクオ・ヴァディスが態勢に似つかわしくない真顔で言う。
「キミの事だから自分が直ぐに王都に戻ればレゾへの被害の確率が減るとか思ってたろう。今単独行動なんかしたら次こそ死ぬよ?」
あっさり言われた。
しかし言い返せるだけの材料も、力も無い自分が憎い。
そもそも人と戦う為に魔法を修めた訳では無いのだ。ちょっとした加減を間違えるだけで人を殺してしまいかねない対人戦は最も苦手とする事だ。
「私の見解としましてもリーリエ様の単独行動はお勧めしかねますな。失礼ながらリーリエ様は人族を死に至らしめる事にまだ怯えている様子。対人戦に特化した斥候、暗殺者の類と会敵した場合その怯えが仇になりましょう」
トリスタンにも見透かされていた。
「うん、だからさ、先手を取ろうか」
「?」
「??」
何故か途端に笑顔になったクオ・ヴァディスの真意が見えず、トリスタンまでもが一緒にクオ・ヴァディスの顔を見つめる。
「今からハイエステスに行こう、一緒に」
何故に倒置法なのか。
あまりの突拍子の無さに突っ込みを入れるどころかトリスタンと2人、口をポカンと開けるしか出来無かった。




