蠢動
視線の会合はほんの一瞬だった筈だ。
ハルメニアの名を呼びながら踏み込んで来た老紳士がクオ・ヴァディスを認識した刹那、腰の剣を抜剣。クオ・ヴァディスの喉元に突き付けていた。
全くもって目で追う事は出来ず、瞬きの瞬間には既にその体勢だった訳だが。
「やあトリスタン。会うのは500年前のヴィレカダゥ以来かな? 久しぶりだと言うのに随分とご挨拶じゃないか」
「やあクオ・ヴァディス。ハル様を追って来た筈なのに何故貴様が居るのか知らんが相変わらずスカした面だな、反吐が出る」
老紳士、トリスタンが構える刃渡90cm程の細身の直刀に冗談の気配は微塵も感じない。微動だにしない切っ先が突如として閃き、クオ・ヴァディスの首を狙ったとしても何ら不思議ではあるまい。
後ろに結った白髪の乱れを開いた手で撫で付け、手入れの行き届いた執事が着るような服の埃を払う所作は貴族のように気品溢れるものだが、放つ殺気は只事ではない。
良く整った口髭を純白の手袋の指で撫でながら金の双眸がクオ・ヴァディスを睨めつける。
「答えよクオ・ヴァディス。ハル様はどうした?」
「一足違いだったね。キミが入って来る数秒前にフヴェズルングで跳んだよ。行き先は聞いてないがティア・ブルーメに帰ったんじゃないか?」
剣が見えていないかのような緊張感の無いクオ・ヴァディスの返答にトリスタンの鋭い目が更に細まる。
「おいたわしやハル様。未だこのような下郎に縛られているとは……。今此処で斬り捨ててしまおうか」
「あ、あのっ!」
膨れ上がった殺気に耐えられず思わず声が出た。
双方の視線がこちらに集中するが、別に何か言おうとした訳ではない。ただ、今にもクオ・ヴァディスの首が飛びそうでいても立ってもいられなくなっただけだ。
「此度ハルメニア様にお世話になりました、エレンディア魔導協会座天使―オファニム―、リーリエ・フォン・マクマハウゼンと申します! 突然の事でご迷惑をおかけしてしまった事を改めてお詫び申し上げます!」
何でもいい、喋らなければならない、そんな気がする。
「お話は伺っておりますリーリエ様。私、ティア・ブルーメ金狼騎士団長、及びハルメニア・ニル・オーギュスト直属近衛師団長トリスタン・エインズワースと申します。そちらの協会では智天使―ケルビム―の位置付けになりますな。此度はお目通り叶い恐縮に御座います」
聞いているこちらが恐縮してしまいそうなほど丁寧な対応とは裏腹に、クオ・ヴァディスに向けられた殺気は微塵も揺らぎはしない。
自分に向いている訳では無いのに脂汗が止まらないと言うのに、矢面に立っている当人は何故か涼し気な顔のままだ。
「聞いているなら話が早い。私ではどうにもならなくてね、すまないとは思ったんだがハルに頼ってしまった」
「貴様の事は聞いていない。聞いていたらハル様自ら御足労願う事など私が許さなかった」
突き付けられていた切っ先が最初と同様の唐突さで納刀される。
「キミにも面倒を掛けさせてしまったみたいですまなかった。詫びと言っては何だが昨日の残りのアプタルパイがあるんだが道中の共にどうかな?」
「……いただこう」
途端に場の空気が軟化する。
最早物理的な圧力と化していた殺気が嘘のように霧散し、リーリエは漸く息を吐いた。
「貴様は相変わらずだな。100年単位で音信不通になったかと思えば途端にこれだ。ハル様もハル様だがもっと頻繁に連絡を寄越してやってくれ。その方が結果的に私の心労も減る」
言ってトリスタンが居間の椅子に腰掛ける。
この手慣れた感じはどうも先程までの一連の流れが2人の間でのお決まりのパターンである事を伺わせる。
「キミも相変わらず気苦労が絶えないようだね。っと、紅茶でもどうかな?」
「ティア・ブルーメ産の茶葉ならばいただこう」
「パイも量があるんだ、少し消費して行ってくれ」
台所に向かうクオ・ヴァディスにトリスタンはニヤッと笑って応える。見かけによらず甘いものは嫌いではないようだ。
「先に腰掛けてしまって申し訳ありませんな。長旅はなかなか腰にきましてね。これだから歳はとりたくない」
緊張抜け切らず棒立ちでいたリーリエにトリスタンが声を掛ける。
あの抜剣を見せられた後だと言葉に説得力がまるで無い。
「リーリエ様もどうぞ此方に。せっかくですからティータイムと参りましょう。あまり言いたくありませんが彼奴の淹れた紅茶は美味い」
「どちらも賛同致しますわ。悔しいですがここでのティータイムは貴族の庭でも滅多にお目にかかれない代物ですもの」
「あまり言いたくないとか悔しいとかじゃなくてもう少し前向きな言葉で評価して貰えないものだろうか……」
リーリエが腰掛けるのと同時に台所からティーセットを持ったクオ・ヴァディスが出て来る。
蒸らし中のティーポットからはフルーツにも似た爽やかな香りが溢れてきて鼻腔を擽って行く。
「これはティア・ブルーメのセオドア茶葉だな。成る程、アプタルパイにセオドアのストレートとは流石にわかっている」
「セオドア⁉︎ 何処で手に入れましたの⁉︎」
セオドアとはティア・ブルーメのセオドアで作られた茶葉であり、女帝と評される最高級茶葉である。
まるで血の様な紅い色を示す茶は絶妙な渋味と苦味、そしてキレのある後味であり強い甘味の菓子と抜群の相性を誇る。
収穫出来る期間が短く、且つ産地が限られる為市場に殆ど出回らず希少価値が高い。基本的に限られた者しか味わう事が出来ない大変貴重な茶葉である。
「セオドアの茶葉農家に知り合いが居てね、こういう紅茶に煩い客人が来た時のために毎年直接卸して貰っているんだ」
クオ・ヴァディスの皮肉にトリスタンが鼻で笑う。
リーリエに至っては触れてはいけない物を見るかのような目でティーポットに釘付けである。正真正銘の貴族であるリーリエにしてみてもセオドア茶葉はそれ程貴重なものなのだ。
「いただくのは初めてですわ……。王都では殆ど出回りませんから」
「近年では仲買が売値を釣り上げる為に出荷調整しておりますので余計に希少化していますな。我が方でも悪質な仲買の検挙に励んではおるのですが如何ともし難い部分も御座いまして……」
「何とも許せませんわ! 検挙の際にはご連絡下さいまし! 是非ともお手伝いさせていただきます!」
「キミ達いつの間にそんなに仲良くなったんだい」
息巻くリーリエを尻目にティーポットから紅茶が注がれる。
神代の血と評される紅の液体がカップに注がれる様はまるで神々の血液がポットを通して人の世に顕現したかのような神々しい光景だ。紅茶通の間ではこの香気が人の世に流れ出る事を惜しむ女神の血涙とも言われている。あまりに叙情的な表現ではあるが、立ち込める尋常ではない香りにリーリエは有無を言わせぬ説得力を感じていた。
「こ……れは、只事ではありませんね」
「ブレンドではない単一の茶葉で此れ程の香気を醸し出すのはセオドアだけでしょうな。それに加えてセオドア茶葉は製造直後から式を組まれた完全真空状態の梱包で出荷されます故、品質が損なわれる事はありません」
まるで専門家の如きトリスタンの解説にクオ・ヴァディスが舌を巻く。
「紅茶党なのは知っていたが恐れ入ったな」
「私の生家はセオドアでな。この香りの中に生まれ、この香りと共に育ったのだ。詳しくもなろう」
言ってカップを傾けるトリスタンは実に満足げである。リーリエもそれにならってカップに口をつけるが、その瞬間鼻腔に抜ける香りと口腔内に溢れる絶妙なバランスの渋味と苦み、そして微かな甘味はリーリエの紅茶という概念そのものを揺るがす程だった。
「私、どちらかと言うと甘いミルクティーが好きだったのですが、今日から改めますわ」
これが紅茶で、紅茶とはこれだと、リーリエは誇張無しにそう思った。
「キミは竜と戦っている時より美味いものに出会った時の方が真剣な顔になるね……。それにしてもお茶を出しといてなんだがトリスタンはゆっくりしていても大丈夫なのかい? キミはハルを追って来たんじゃなかったか?」
「フヴェズルングで跳ばれたとあってはここで急いだところでさしたる意味も無かろう。この挙句寄り道する程あの方も無責任ではないしな」
ため息混じりにそう言うトリスタンを見るに、どうもこういった事態は初めてではないようだった。
「魔力波長を探るに近辺に残滓は無し、真っ直ぐティア・ブルーメに帰っていて貰えると助か……」
何かに気付いたようにトリスタンが突然立ち上がり、左手側の窓、その向こうの林を睨み付ける。
「ど、どうしました⁉︎」
「『シャックス』だ! 聞かれているぞ!」
トリスタンが叫ぶと同時に颶風を巻いて外に飛び出す。
『シャックス』。
ハルメニア式魔導回路に対抗して作られたとされるロメロ式魔導回路にのみ対応するゴエティア系統の駆動式である。
シャックスは肉体に直接作用する特殊な魔法であり、効果は視覚や聴覚などの五感の拡大である。ハルメニア式と比べ回路自体が小さく目立ちにくい事から斥候に好んで使用されるものだ。
つまりは……。
「斥候か?不味いな」
トリスタンを追ってクオ・ヴァディスも飛び出して行く。
自体を飲み込んだリーリエも外へ駆け出すがその心中は先ん出た2人よりも穏やかではなかった。
祭の最中に視た駆動式の光。
気の所為だと思っていたあれはシャックスの駆動式では無かっただろうか。
だとすれば斥候に情報を蓄える時間をたっぷりと与えてしまったのは自分の責任だ。どこの、何の為の斥候だかは不明だが此方にはハルメニアが居た。
ならば根拠には充分だとリーリエは考える。
それに、だ。
クオ・ヴァディスの事を、魔導災害指定の事を話してしまっている。
斥候の目的が何なのかわからないがこの情報だけは掛け値無しに不味い。
人界に仇為す存在たる魔導災害。
その指定を受けている者が人族に紛れ生活していると市政に知れたらどうなるかは火を見るよりも明らかである。
こんな事でクオ・ヴァディスの、レゾの安寧を乱してはならない。
使命感にも似た思いに駆られリーリエは2人の後を追った。




