くろいけもの
むかしむかし、あるたいりくでまっくろなケモノがうまれました。
ケモノはとてもとてもつよく、とてもとてもたくさんの人が死にました。
むらがもえて、まちがこおって、おしろがくずれてもケモノはあばれるのをやめませんでした。
ケモノはいいます。
カエセ、カエセ。
そういってケモノはあばれつづけます。
まっくろなケモノはだいちがじぶんとおなじまっくろになるまであばれるとうみにさっていきました。
まっくろなケモノはいまもまだどこかでいっています。
カエセ、カエセ。
「あのお話で言われている、ある大陸というのがアシャンテ大陸。ミグ海洋を挟んでエルヴァ大陸の西に位置した、今は海の底に眠る大陸よ」
黒い獣の御伽噺は、悪戯をした子供を諌める為に親が話す極めてポピュラーな寝物語だ。子供がした悪戯に合わせてカエセという台詞の部分をアレンジして、ちゃんとしていないと黒い獣が来るぞと子供を怖がらせる類のよくある御伽噺である。
それが実際に起こった事柄であり、尚且つその当事者は目の前に座って自分にパイを綺麗に切り分けてくれている牧師もどきだと言う。
俄かに、いや全くもって信じ難い話だが話をしているのは人類の頂点ハルメニア・ニル・オーギュストその人である。
そもそもここへ来て、嘘もへったくれも無い。
この2人ならやりそうではあるが。
「リリたん今ちょっと失礼な事考えてたでしょ?」
エスパーか⁉︎
「本当に全部顔に出るねぇ。可愛い可愛い」
ハルメニアが満面の笑みで頭を撫で回す。
注意しているつもりではあるのだが、やはりどうしても内面が顔に滲み出てしまうようだ。恐らく今自分の顔は緩々に弛みきっている事だろう。どうも最近頭を撫でられてばかりのような気がする。考えてみれば圧倒的に歳下なのだから仕方がないのかもしれないが。
およそ100倍の年の差だ。通常で60年。魔法的な補助をもってしても200年程度しか生きられないただの人であるリーリエに、それだけの永きを生きている者の胸中などわかりはしない。
「クーたんもリリたんのこういうとこが気に入ったんでしょ?」
「そうだね。永く生きてるけどこういう子はあまり居なかったなぁ。それに成り行きとはいえ、私の戦闘を見て怖がりも利用しようともしなかった子は間違い無く貴重だよ」
「いえ、利用は……しようとしているかもしれません。クオさんの魔導回路を知る事によって自らの力にしたいと思っているのは確かですから……」
それを聞いた2人は何故かキョトンとしている。
まるで何を言っているのか判らないと言ったように。
「それは例えば本を読んで勉強するのと同じ事じゃないか。と言うか私が前提を間違えたね。そもそもキミは回路の構造式が視えるんだから他の凡百とは違うのは当たり前か」
「酷い時なんか国軍に囲まれて脅されたりしてたよね?」
「どっ⁈ どうなさいましたのそれは⁈」
「や……、言いたくないなぁ……」
「クーたんにもトンがってた頃があったんだよねー」
「トンがる……」
「ほら、脱線しちゃってしょうがないからもう質問形式にしよう。リーリエは何が聞きたい?」
よっぽど言いたくないのだろう、クオ・ヴァディスが半ば強引に話を本線に軌道修正する。
聞きたい事。ならば、やはり。
「甲角族絶滅の経緯をお聞きしても構いませんか? 先程ハルメニア様が仰っていた人の罪、角狩り、何となく察しはつくのですが……」
「多分お察しの通りだと思うよ。私達の角を狙った人族によって狩り尽くされたのさ」
「角を……」
つい目線がクオ・ヴァディスの額の辺りに吸い寄せられてしまう。
「甲角族の角はそれそのものが無条件に魔力そのものを増幅する性質があるからね。当時まだ魔法が体系化されていなかった頃の魔法使いからしたら喉から手が出るほど欲しかったんだろうさ」
ハルメニア式魔導回路によって地位が向上する以前の魔法使いの扱いは、それは酷いものだったという。
魔素を励起して物質置換する技術はあったものの演算処理を全て独力で行わなければならなかった為、当時の魔法は極めて単純な現象系魔法、詰まるところ『火が生まれる』『爆発が起こる』程度のものでしかなかった。複雑な現象を顕現するには処理能力が足らず、規模を拡大しようとすれば魔力が足らず。魔導回路も駆動式も無い頃の魔法はとてもではないが実用的なものではなかったのだ。それ故魔法使いは頭の固いだけの役立たずと揶揄され、職に溢れ、金策に窮し、研究を続ける事すらままならなかったという。
そんなところに、何の演算も無しに魔力を数百倍も増幅してくれる道具があるとしたら、どう思うか。
そんなもの欲しいに決まっている。
「しかし元々少数民族だったから数が無くて市場で価格が高騰してね。買いたい魔法使いと売りたいその他で需要と供給が成り立ってしまったんだ。結果はこの通り、ってね」
吐き気がする。
自らの欲に溺れて種族を絶やしてしまった過去の過ちにも、その過ちが自分と同じく道を極めんとする魔法使いが発端であるという事実にも、だ。
努力の成果が遅々として上がらない焦燥はリーリエにも痛い程よくわかる。それを打破するものがあると知り、手を出さずにはいられなかったのも人として理解は出来る。
しかしリーリエの倫理観において、他者を犠牲にしてまで極める道など無価値以外の何物でもなかった。
助く為の道、救う為の魔法なのだ。
「その日街に出ていた私が村に戻ると辺り一面火の海だった。真っ赤な空の下で同胞の死体が蹂躙される光景に私の理性は耐えられなかった。タガの外れた私の魔力は肉体を変質させ、私を黒い獣に変えた。獣になった私の頭には同胞の角を取り返すこと、それしか無かった。アシャンテを根刮ぎ焼き払い、どうにか782人中686人分の角を取り返した私はその角を自らに取り込んだ。それにより無尽蔵に膨れ上がった魔力によって僅かに残っていた感情すら掻き消え、私は只々破壊を撒き散らすだけの魔導災害と化していた」
言葉も無いとはこの事だ。
ある日自分以外の全ての人が死んでいたら、自分は耐えられるだろうか?死を選ばないでいられるだろうか?
「海を渡りエルヴァに向かった私をハルメニアが正気に返してくれてね。私のたっての頼みでカル・カサスに幽閉して貰ったんだ」
カル・カサス。
エルヴァ大陸のほぼ中心、エドラド大森林の中に存在する大監獄だ。
脱獄不可能と言われる堅牢な石造の建築もさる事ながら、最たる特徴はカル・カサスを中心とした魔素の枯渇である。
未だ原因は不明であるがこの地帯は周囲と比べて極端に魔素密度が低いのである。極々僅かしか存在しない魔素ではそもそも魔法の使用すらままならず、如何な魔法使いであろうと無力化を免れない魔法使い専用の監獄なのだ。
「取り込む魔素が少ないおかげでどうにか小康状態を保ちながら500年、私は私の中の力の制御に尽力した。そうして出来上がったのがキミも見た魔導回路の原型だよ。あれは元々は魔法を使う為のものと言うよりは私の魔力を効率的に循環させる為の拡張回路みたいなものなんだ。カル・カサスを出てからも見付けた角を取り込んでは改良しての繰り返しですっかり原型は無いがね。あと残り50人分の角を回収し取り込むことが今の私の目的であり、生き甲斐だね」
人たる自分の時間では及びもつかないような永い時を、そうやって生きてきたと言うのか。
ただ1人、種族を背負い、それでも同胞を滅ぼした人族と共存しながら。
「どうして……」
「ん?」
「どうして人に、人族に復讐しようとは思わないんですの? 私が言える事ではありませんが、今のクオさんを見ているとむしろ人族に優しいと思います。今回のように身を挺して竜を倒す通りなど無いのではありませんか?」
同胞を滅ぼした種族を守るなど理解出来ない。
滅ぼすまでいかなくとも例え見知った顔を殺されでもしただけでもリーリエの観点からすれば手放しで守るのは難しい。
その罪が種族全体のものではないとわかってはいても、だ。
「最初は、カル・カサスに入って暫くは人族が憎くてしょうがなかったよ。同じように人族も根絶やしにしてやろうって考えた事も1度や2度じゃ無い。でもそこはハルのお陰かな。私が獄中に居る間にもハルは私に代わって各地に散らばった角を回収してくれてね。何度も何度も、自分がした訳でも無い事を謝りながらさ。ある日、馬鹿みたいに怪我をして血みどろになりながら角を持って来たハルを見て思ったんだ。月並みだけど罪を憎んで人を憎まずってね」
言って朗らかに、本当に朗らかにクオ・ヴァディスは笑う。
「それにさ」
2人を交互に見やり、少しだけ照れくさそうに頬を掻く。
「やっぱり1人は寂しいよ」
瞬間、ドパッと音がしそうな勢いでハルメニアの涙腺が決壊した。
予想だにしていなかったのだろうクオ・ヴァディスの肩がビクッと痙攣する。
「ゔぅぅぅぅぅぅぅぅっ」
威厳もへったくれも無く全身に力を込め、口の端を振るわせながら嗚咽を堪えるハルメニアはまるで幼児のようだ。ギュッと引き絞られた眉は何かを悔しがるように吊りあがり、次の瞬間には涙の勢いに負け力無く下がる。
「あたしがっ、あたし角を全部見付けるって言ったのに、ま、まだ集められてないからいつまで経ってもあなたが自由になれない!」
血を吐くような叫びだった。
「あとたった50人分だけだよ。ハルは女王様なんだし残りはゆっくり私が……」
「あたしはっ!」
立ち上がったハルメニアの勢いに負けて椅子が倒れる。
テーブルに置かれた手は血の気が引くほど握り締められており、微かに震えていた。その手から力が抜けて行き、ゆっくりと開かれる。
「あたしは、クーたんに自由に生きて欲しい。それにもっと頼って欲しい。あたしが女王になってからクーたんはちっともあたしを頼ってくれなくなった」
「いや……一庶民としては一国の女王様に個人的な頼み事をするのは敷居が高いと言うか恐れ多いと言うか」
「じゃあ女王辞める!」
ブフォッ、とクオ・ヴァディスとリーリエが吹き出したのは全くの同時だった。
「えっ、どっ? なっ⁈」
クオ・ヴァディスの狼狽っぷりと言ったらもう目も当てられないほどだった。先も見せた聞かん坊の顔になっているハルメニアをどう扱って良いかわからず、椅子から立ち上がっては座ってみたり挙動不振が極まっていた。
「女王だから頼み事も出来ないし連絡も出来ないって言うなら女王辞める!」
「ちょっと待っ……⁈」
「これに関しては一方的にクオさんが悪いと思います」
「キミまで何言い出すんだ⁈」
本質的な意味で同じ者が居ない孤独。
その孤独を抱えて永劫とも言える時を生きる苦痛。
わかった、理解出来るとは言えない。たかが18年しか生きていない自分には言える筈もない。
しかし種族の為に永きを生きるクオ・ヴァディスも、そのクオ・ヴァディスの為に今の地位を捨てるとまで言えるハルメニアも、どこまでも人間であるとリーリエはどこか安心していた。
人生における時間の概念が全く違う事に、やはりどこかで違う存在だという隔たりのようなものがあったのだ。
それでも話を聞いていて、2人を見ていて、本質は自分と変わらない人間であると思えてリーリエは嬉しかったのだ。
「あとやっぱりクオさんは唐変木だと思います」
「身の上話をしていた相手に何故私は貶されているんだろうか……」
「わかる⁈ こいつ昔っからこんななのよ! どれだけあたしがヤキモキしたかわかってくれる⁈」
「わかりますわ! ちょっとぶん殴ってやりたくなったりしますもの!」
「女の子のそういう結束感って昔から変わらないよね……」
完全にアウェイと化した場にクオ・ヴァディスが観念したように溜息を吐く。
「取り敢えず涙を拭いて落ち着こうよ。こんな場面誰かに見られたらそれこそ大問題に……」
言いながら首を巡らせたクオ・ヴァディスの視線がリーリエの左後方辺りに差し掛かった瞬間表情が凍り付く。
意気投合していた2人が何事かと視線を追うと教会の建物の陰、教会正面から庭に回るルートの角のところで「あ」の口のまま立ち尽くすアレッサと目が合った。




