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帰路にて

リーリエの回想です。

彼女の正義の味方という信念を掘り下げています。


 ハイエステス支所からの使者が去って数刻。急ぎ報告書を提出する必要が出たリーリエは取り急ぎ身支度を整え、馬車によって帰路に着いていた。


 あと1日程滞在してクオ・ヴァディスの話を聞きたかったが、あれだけ大見得を切らされてしまっては大義名分の無い滞在はこれ以上出来なかったのだ。

 一先ず再開の約束は取付けたので、事後調査なり何なり理由をこじつけて再来訪しなくてはならない。


 しかしこうなると彼我の距離が恨めしくなって来る。


 リーリエが住む王都からレゾ迄馬車で3日。早馬でも2日は掛かってしまう。滞在期間を含めるとするとどうやっても1週間以上出張することになってしまい本業が疎かになってしまいかねない。幸い王都の協会には高位の代行者が複数名所属している為有事の際の心配は無いのだが、自分の求道心の為に仕事をさぼっているようでリーリエとしては許容し難いものがあった。


 それに、結局今回の件で何も出来ていない自分がこの挙句好き放題する事が、リーリエには出来なかった。


 力の無さを呪ったのは初めてではない。それこそ初の実戦から暫くは後悔と反省の連続だった。自らも傷付き、自らの所為で誰かが傷付き、その度に無力さを呪い強く力を欲した。


「……ふぅ」


 馬車の中で膝を抱え、溜息を吐く。


 王都エレンディアを中心に大陸を縦横に分断する主街道は石畳で舗装されており、おかげで馬車の揺れは抑えられ長旅の負担を著しく軽減している。


「あの頃はこんなに寛いでいられませんでしたものね……」


 街道が舗装されたのはつい最近の事だ。

 大気中の魔素を燃料として発光する街灯が一定間隔で敷かれ、昼夜問わず交通の要所となった主街道も僅か1年前までは土が踏み固められ、道としての体裁が辛うじて整っているだけの酷い状態だったのだ。

 舗装工事は極力獣や魔物の類の住処になり得る森を避けて行われていたが、それでも森の住民の怒りを買い襲撃は後を絶たず、工事は遅々として進まなかった。それ故工事は護衛として複数名の協会代行者を帯同して行われており、新人のリーリエもこの護衛に参加していたのだった。


 忘れもしない代行者になって最初の仕事であり、そしてリーリエが力を求める切っ掛けになった仕事だ。


 あの頃とはすっかり様変わりした街道を馬車の窓から眺めながら、リーリエは思いを馳せる。









「悪霊や死霊の類……ですか?」


 リーリエは依頼書に目を通そうと書類に目を落とし、早々に諦める。馬車の車輪が路面の凹凸を拾いとてもではないが文字が読める状態ではないからだ。


「そうだ。街道の敷設工事のルート上にどうやら古戦場があったようでな。生者の匂いにつられて魂喰い―ソウルイーター―共が湧いているらしい」


 リーリエの声に応えたのは向かいの席に腰掛けた壮年の男性だった。

 短く刈り揃えられた黒髪に強い意思を体現したかのような黒瞳の三白眼。180センチメートル程の体躯は隙なく鍛えられており金縁の黒いハーフプレートメイルに包まれている。その巨大さ故仕方無く馬車の荷台に括り付けられている大剣を使う剣闘士、そしてリーリエが所属する班の班長であるガーヴ・ザナドリフだ。


挿絵(By みてみん)


「結構数が居るらしくての。俺と班長は魔法使えんで数で攻められるとジリ貧やから期待の天才新人たるリーリエちゃんに御同行願った訳なんよ」


 ガーヴの隣に座っている青年が笑いながら言う。

 人懐っこそうな笑顔の青年の頬にセドナの象徴たる外皮が見える。甘い顔に似合わぬ2メートルを超える巨体はガーヴと同じく金縁の黒い鎧、こちらはフルプレートメイルに包まれている。ガーヴの大剣と同じく荷台に括り付けられている巨大なタワーシールドと槍を用いて鉄壁の防御と一撃必殺を信条とする盾闘士、名をエルバク・ドートリーという。


挿絵(By みてみん)


「天才だなんて……」

「謙遜しなくてええよ。17歳で神天授与、能天使―エクスシア―まで飛び級しての協会入りやもの。あの冥王天、夜叉王輝夜を抑えて史上最年少記録やよ? しかも美少女ってのが憎い!」


 エルバクは、ガッと音がしそうな勢いで拳を握り中空を見つめる。どうもガッツポーズのようだ。


「お前がそんなだからいつまで経っても俺の班は3人目が決まらないんだぞ。男は嫌だ、年寄りは嫌だと我儘を言いやがって」

「だって魔法使いって陰気臭い年寄りが多いんやもの。リーリエちゃん、良かったら正式にガーヴ班に来てくれてもえぇんよ⁉︎」

「あ、えっと、考えさせていただきますわ」


 あまりの剣幕にリーリエは苦笑いを浮かべる。


 しかしこのざっくばらんとした態度は貴族生まれリーリエには新鮮であり、心地のいいものだった。


 幼少より貴族令嬢としての英才教育を施され、話す相手と言えば両親か習い事の講師。若しくはマクマハウゼン侯爵家に媚び諂う他の貴族の者たちだけだった。リーリエという1個人ではなくマクマハウゼン侯爵家令嬢という肩書で見ている者たちの粘つくような態度は幼いリーリエの精神を酷く磨耗させた。


 魔法学校に入ってもそれは変わらなかったが実力が物を言う代行者の世界で、リーリエを取り巻く価値観は一変した。


 世界は感情に満ちていた。


 表立って感情をぶつけられる事の乏しかったリーリエには罵詈雑言のような負の感情すら新鮮な感動だったのだ。当然傷付きこそすれ、人間的な営みと思えば籠の鳥だった頃とは比べ物にならない程充実した毎日だった。

 それにこの2人のように表裏無く好意を持って接してくれる者も少なからず居る。

 リーリエは世界と繋がれたような気になってむず痒いような恥ずかしいような嬉しいような、何とも言えぬ感覚に満たされる。


 思わず頬が緩んでいた。


「班長! これなのよ! 血生臭い戦場に一輪の花! 男はこれだけで戦えるってもんでしょ⁈」


 身を乗り出して力説するエルバクの動きに呼応して馬車が揺れる。


「わかった、わかったから座れ。お前が動くと馬車が壊れそうだ。まあこんなんだが宜しく頼む。リーリエと呼んで構わないかな?」

「はい、宜しくお願いしますわガーヴ班長。エルバクさんも宜しくお願いしますね」


 名前を呼ばれただけでまるで天にも昇るような顔をするエルバクに気圧されつつも、戦場に向かっている筈の馬車の中は不思議と楽しかった。









「ぬぅああああぁっ!」


 煌々たる満月の光に照らされた草原にガーヴの裂帛の気合いが響く。続いてぼんやりとした緑色の光を纏い浮遊する髑髏が大剣によって両断され、ガラスが割れるような音と共に魔素に還って行く。


 刻限は真夜中。ガーヴ達が古戦場跡に着いたのが夕刻。予定より遅れてしまった為大急ぎで野営地を用意していたところを、間に合わず魂喰いに奇襲を受けてしまったのだ。


 魂喰いは個体としては大した脅威では無いが古戦場跡のような、過去大勢の人が死んだ場所等では1度に大量に発生して同時に襲ってくる。動きが特別早いわけでは無いが魔素に近いその身体は純粋な物理現象を透過してしまう為、礼装や魔法でなければ攻撃も防御も儘ならない厄介な相手だ。


「リーリエは範囲魔法で討ち漏らしを掃討! エルバクはリーリエを護れ! 此奴等魔力波長に釣られてリーリエを標的にしているぞ!」


 大声で指示しながら新たにもう1体の魂喰いを斬り伏せる。もう随分な数の魂喰いを斬っている筈だが、髑髏は地面から後を絶たず湧き出てむしろ数を増やしているようにすら見える。


「了ー解! うちの天使ちゃんをむざむざ喰わせてなんかやらないっての!」


 エルバクは正面から迫る1体を槍の一突きで魔素に還し、左手側から殺到する3体を常識外れの膂力で振り回した盾で同時に叩き潰す。


 礼装に身を包んでいるのを加味してもガーヴ班は手練であった。


「初の実戦がこれって天使ちゃんは運が無いなぁ。怖いかい?」


 後から後から迫り来る魂喰いを盾で弾き飛ばしながらエルバクが背中で問いかけてくる。

 最初こそ足が震えていたリーリエだったが、先輩2人の猛攻に感化されすっかり腹は決まっている。実戦の、死が直ぐ側にある覚悟は協会にスカウトされた時からしていた筈だ。


 リーリエは大きく1つ深呼吸して、叫んだ。


「詠唱に入ります! 巻き込まれぬよう発動と同時に私の後方に下がって下さい!」

「「了解!」」


 2人の声が聞こえると同時に魔導回路を展開。意識を右手のマーヴィン・ウェスト工房製魔杖『マークスマンⅥ』に集中する。駆動式が接続されリーリエの内在魔力が魔杖の補助式によって増幅される。緑色の燐光を放つ精霊が魔杖の先端に殺到、魔素の励起が始まった。


 魔素によって強制的に作られた電位差が空気の絶縁の限界値を突破、放出された電子が辺りの気体原子と衝突し陽イオンを発生させる。陽イオンは更に新たな電子を発生させ駆動式前方に大規模な電子雪崩を起こしていた。


 リーリエは魔杖を眼前に突き出し魔法を起動。気配を察したエルバクが全力で後方へ飛び退る。


「『ビルスキルニル』!」


 雷鳴と共に発生した幾条もの雷は完全に制御され次々に魂喰い達を貫いて行く。その間にも駆動式に組み込まれた式が負電荷を蓄積。地面の正の電荷が静電誘導によって誘起され新たな放電が巻き起こる。1秒にも満たない時間だけ発生した雷の嵐は全ての魂喰いを貫き魔素へと還元していた。


 青い雪のように月下を舞い散る粒子を見て、リーリエが息を吐く。と同時に後方から歓声が上がった。


「す……すっげぇ! 中位の年寄りだってこんな鮮やかに行かないぞ⁈」

「魔法使いがどうのと言うより、これはリーリエの技量の成せる技か。神天の称号は伊達じゃないな」


 浴びせられる賞賛に背中の辺りがむず痒くなるのを感じる。


 エルバクは運が無いと言ったがその実、1対多数の戦闘は雷の系統を修めるリーリエの得意分野である。

 雷の物理系現象魔法はその性質上効果点を収束する事が困難である。強力な雷撃は空気の絶縁値を容易く突破してしまうからなのだが、リーリエの演算能力は電磁界を制御することにより四方に分散する筈の大電圧や側雷にすらも指向性を持たせることを可能とした。これにより被対象が複数である程リーリエは1度の魔法で多大な効果を得ることが出来るのだ。


 逆を言えば、多対1の戦闘はある程度巻き添えを避けられないという意味でもあるが。


「今回は私向けの状況だったというだけですわ。それに、お二方が居なければ詠唱すらままなりませんでしたから」

「それにしたって大したものだよ。雷の魔法を使うと聞いていたからアフロヘアーにされることも覚悟していたんだがね」


 言ってガーヴは笑う。


「た、確かに副次的な被害は雷の系統を使う魔法使いの課題だと思いますが実際にはアフロになんかなりませんからね!」


 的外れな返答にガーヴと、挙句にはエルバクまでもが声を上げて笑い始めた。大真面目に答えたつもりのリーリエには笑われている意味がまるでわからない。


「て、天使ちゃん、まさかやらかした事あるん?」


 エルバクに至っては最早涙目だ。


「練習中に……先生に……少し……」


 とどめになった。


 大きな身体を折り曲げて笑うエルバクは既に声も出ていない。後ろを向いて必死で笑いを堪えているのであろうガーヴはブルブルと肩を震わせていた。


「……」


 釈然としない。


 困惑より腹立たしさが勝ってきたところで、漸く笑いの収束したガーヴが声を掛けてきた。涙目で、だが。


「冗談はさて置き良くやってくれた。……それでこれは提案なんだが俺からも正式にうちの班にリーリエを勧誘したいんだがどうだろう?」


 そう言って笑う歴戦の戦士の顔には僅かな含みも無かった。裏表無い自分への評価にリーリエの胸が喜びと満足感に満たされる。

 この班なら上手くやって行ける。そう確信し、是非にと返答しようと顔を上げたところで、ガーヴの背後に立つ歪な巨体と目が合った。


 20代程であろう人族の女性の顔は、巨体の胸元辺りに逆さまに張り付いていた。


「班……!」


 声を上げると同時、衝撃音と共にガーヴが真横に吹き飛んだ。


 ここへ来て漸く異常に気付いたエルバクが神速の踏み込みで巨体とリーリエの間に割り込む。

 再度の衝撃音はエルバクの盾が巨大な拳を受け止めた音だった。


「ぐ……なんやこいつは⁈ 音も気配もまるで無かった!」


 奥歯を噛み締めるエルバクには毛ほどの余裕も無い。それだけ受け止めている拳の膂力は常軌を逸しているという事だ。


 リーリエは拳の持ち主を見上げる。

 それは見た事も無い不可思議な存在だった。表現するならば子供が粘土を捏ねて作った人型とでも言えば良いのか。4メートル程の、のっぺりのした灰色の体躯は乾いた土のようであり硬いのか柔らかいのかも見てとることが出来ない。なまじ人型の体裁を有している為見る者の精神を削る不快感を伴うそいつに頭は無く、代わりに胸元に張り付いているそこだけまともな女の顔が尚のことそいつの異常さを際立たせていた。


 「あ……あ……」


 言い様の無い恐怖にリーリエが後ずさる。

 迎撃しなければならないと頭では理解している筈なのに身体が言う事を聞かない。恐怖に囚われた思考は上滑りし、リーリエは後退するという最も根本的な退避行動しか出来ずにいた。


 その状態を横目で確認したエルバクは受け止めていた拳を回転しながらいなし、後方へ全力疾走。走るのに邪魔な盾と槍を放り投げ空いた手にリーリエを後ろ向きに抱き抱え更に加速する。


「エルバクさ……! まだ……、班長がっ!」

「喋るな舌噛むぞ! ここは一旦引くしか……」


 エルバクの言葉が終わるかというところでリーリエの目が巨体の顔を映した。

 逆さまの顔は整った唇を、白い頬の肉迄を裂きながら大きく開いていた。

 リーリエが急速な魔素の収束を魔眼で確認した刹那。


 咆哮。


 巨大な空洞を風が抜けていくような重低音が草原に響く。同時に巨体を中心に発生した力場がリーリエ達に到達、竜巻に飲み込まれたかのような衝撃と共にリーリエは地面に投げ出された。


「う……」


 苦痛に呻き、起き上がろうと左手を付いたところでその手が生温かい水に触れる。

 反射的に手を引っ込めて顔を其方に巡らせると赤黒い塊と、そこから広がる水溜りが見て取れる。


 塊は背中が爆発したかの様に中身を晒すエルバクであり、水溜りはそこから溢れた血液だった。


 つい先程迄笑い合っていた人物のあまりの惨状にリーリエの精神と肉体が硬直する。呼吸すら忘れていたその間に、惨状を生んだ巨体はリーリエの背後に迫っていた。


 巨体が満月を背負い、リーリエに影を落とす。


 虚ろな目で振り返ると其処には口が耳迄避けた逆さまの女の顔があり、あろう事かそいつはゲラゲラと嗤っていた。


 息が掛かる程の距離で声無く嗤う女の口に再び魔素が収束する。思考の停止したリーリエはその光景をぼんやり見ていたが次の瞬間、金属質の音と共に女の顔から幅広の刃が生えた。


「なにしてる! 逃げろ‼︎」


 刃の持ち主は全身を血に染めたガーヴだった。


「班長!」


 リーリエが正気に返るのと同時に背中から大剣に刺し貫かれた巨体が上体を跳ね上げる。


「う、おおぉぉああああっ‼︎」


 鮮血を迸らせながらもガーヴは突き立った大剣の柄を肩に背負い、そこを支点に全力で柄を下方に引き絞る。豪腕より生まれた力は梃子の原理で女の顔を縦に裂き、そのまま巨体の頂点迄を斬り上げた。


 腹に響く振動と共に巨体が草原に倒れ伏す。

 断面からは血液も臓腑も溢れる事は無く、ただ泥の断層を晒すだけだった。


「班長! ご無事で!」

「リーリエ……、エルバクは、間に合わなかったか……すまない、俺の油断が……」


 言い切る事が出来ず、ガーヴは口から血を吐き、前のめりに倒れる。吐血は内臓の損傷によるどす黒い色を示し、右脇腹からは折れた肋骨が突き出ている。素人目にも生きているのが不思議なくらいの重傷だった。


「ああぁ、班長、そんな……!」


 地に伏した巨体を避け、駆け寄ったリーリエの目に涙が浮かぶ。


「いいかリーリエ、よく……聞くんだ。急いで5キロ手前の詰所まで引き返し、残っている筈の工事の者達と一緒に王都に戻るんだ……」

「では班長も一緒に!」


 リーリエの声を遮り、ガーヴは絶叫する。


「今直ぐに、1人でだ! 奴を斬った時手応えが無かった! 奴はまだ……!」


 風切り音と共にリーリエの背後から伸びた巨大な拳が、まだ言葉を紡いでいたガーヴの頭を叩き潰した。四肢が絶命の痙攣を示し、やがて止まる。


 リーリエが振り返ると灰色の巨体は両断された上体を再生しながらそこに屹立していた。


 相次ぐ仲間の死と、自らに迫る死の圧倒的な存在感にリーリエの思考は千々に乱れる。


 覚悟は、した筈だった。


 しかし現実の死はかくも残酷に、呆気無くそんな覚悟など乗り越えてくる。

わかっていなかったのだ、結局。

 

 死を。

 終わるという事を。


 訪れる不可避の絶望を前にしてもリーリエには何処か現実感の無い、他人事のように感じられた。


 振り上げられる拳を眺めながら、リーリエは諦観と共に目を閉じた。これで2人と一緒のところに行けると思えば不思議と恐怖は無かった。


 しかし、終わりは何時まで経っても訪れなかった。

 もしかしたら気付かない内に終わっているのだろうかと疑問に思い始めたリーリエの瞼に満月のものではない強い光が射し込む。

 ゆっくりと目を開くと、今にも振り下ろされんとする拳とリーリエの間に緑色の輝きを放つ巨大な猛禽が存在していた。


 1つ1つの羽根がエメラルドで出来た両の翼を拡げた翼長は5メートルを超えるであろうその威容は、リーリエが幼い頃1度だけ見た姿だった。


 翠嶺王イルガー。

 人嫌いのイルガーと呼ばれ、此方側には滅多に現界する事のない天空の王が其処に居た。


 これは夢だろうかと、リーリエは魔眼でその姿を見やる。

 物質化寸前まで励起した魔素で構成された生ける構築式たるその姿は、幼かった頃の記憶と完全に合致した。


 イルガーはリーリエに背を向けたまま翼の所々から伸びた式を拳を振り上げた姿勢のまま微動だにしない巨体に絡み付けている。式を魔眼で追うと、巨体の身体を動かしている電気信号を選択的に阻害し動きを封じているのが見て取れる。

 巨体が忌々しげに身動ぎするのに構わず、イルガーは背後のリーリエに向き直った。


 猛禽の鋭い眼光が抜け殻のようだったリーリエを刺す。


「貴様、諦めおったな? 我が眷属たる分際で何たる恥知らずか」


 旋風のような鋭さの女性の声が脳の奥に直接響く。それがイルガーの声だと思い出すのに、リーリエは若干の時間を要した。


「あの時、貴様は私に何と言った? 正義を成すと、そう言ったのではなかったか?」


 正義。


「そう……、私は正義の味方に……」


 未だ恐慌状態のリーリエはうわ言のようにつぶやく。


「貴様の正義の為に人が死んだぞ?」


 イルガーの言葉がリーリエを貫く。

 エルバクはリーリエを逃がそうとして死んだ。ガーヴは窮地にあったリーリエを助ける為瀕死の身体に鞭打ち、そして死んだ。


「貴様の正義とはその程度か? その程度の正義の為にその2人は死んだのか?」


 否。そんな事があってはならない。自らの願望の為に人が死ぬなど。


「どれだけ貴様が望もうとも、貴様如きの矮小な腕は命を取り零す。しかし貴様は言ったな。全ての善を助け、全ての悪を討つと」


 それが思い上がりなのはわかっている。幼い頃の無垢な正義感は分別のつく今では狂気の沙汰だということも。

 全ての善。全ての悪。

 一体誰がそれを判断すると言うのか。


「貴様は私に言ったな」


 そんな事が出来るのは……。


「神になると」


 神様だけだ。


 イルガーの言葉でリーリエの瞳が光を取り戻すと同時に巨体の咆哮が耳を劈く。急激に取り戻される現実感に、リーリエは頭を振って平静を保つ。


「神様になるなんて、大それた事はもう願っていません。でも私は、私の手が届く全てを助けたい」


 今はまだ矮小な腕なら大きくすれば良いのだ。何処までも届くように。自分が正しいと思った事を正しく為せるよう、大きく。


「私が正義を成す為に! 私の正義が他の『正義』と戦う為に! 力を貸しなさい、イルガー‼︎」


 それがリーリエが辿り着いた正義だった。

 イルガーの嘴の端が僅かに吊り上がる。


「貴様のそれは狂気だ。そのエゴは貴様を孤独にし、多くの死を見る事になる」


 そんな事はわかっている。しかし何もしなくても人は死ぬのだ。

 飢餓で。

 疫病で。

 戦争で。


 それならば少しでも死ななくても良かった人が死なぬように、


「私が、他の誰かの『正義』の『悪』になる」


 それを聞いたイルガーは我慢出来ないと言わんばかりに笑う。笑い声に呼応するようにリーリエの魔眼が緑色の燐光を帯びていく。


「神になると言った時も大概だったが、貴様は相変わらず狂っているな! 悪を自覚し、正義を自負するか! よかろう、見届けてやる!」


 魔眼から流れ込んでくる魔力波長に身を任せ、リーリエは魔導回路を展開する。

 魔杖を巨体に向け、持てる中で最大の威力を持つ魔法を放つべく駆動式を接続する。


「ガーヴさん、エルバクさん……」


 迸る雷光の中でリーリエが呟く。


「私が本当の『悪』にならないよう、見ていて下さいましね」


 リーリエの目から涙が零れると同時に臨界に達した魔法が発動。

 雲ひとつ無い夜空を斬り裂く一条の雷光が巨体を消し炭に変えるのに、瞬き程の時間も掛からなかった。









「お客さん、お客さん」


 呼び掛けに意識が覚醒していく。

 どうやらうたた寝をしていたようで既に馬車の窓から覗く空は夜に差し掛かっていた。


「お客さん、今日はもう暗くなっちまう。馬に餌もやりてえし、この先の街で一泊しましょうや」

「そうね。出来れば個室に鍵の付いた宿に着けて下さいましね」


 了解とばかりに手を上げて、手綱を握る老夫は馬車の速度を上げた。整備されたとは言え、夜は未だ安全とは言い切れないのだ。


 馬車の窓に肘を掛け、リーリエはぼんやりと街灯の灯りを目で追う。


「お二方へのご恩は一生掛けてお返し致しますわ」


 更けていく夜に、リーリエが独り言ちる。

 密やかに、心は決まっていた。

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