瀬川紗希
六時間目、世界史の授業が終わり、蓮の胸の中では少しおびえたような心持ちが徐々に肥大していた。終礼のホームルームは淡々と進み、担任の先生は思い出したように付け加える。
「今日はいよいよ部活の初ミーティングがあるよな。今から各自それぞれの部活の活動場所へ行くこと。ミーティングの場所に変更がある部は――」
教室中の生徒たちは、同じ部活に入部する者同士話し始めたり、約束を交わしたりでざわつき始めている。そんな中蓮はじっと黙ったまま、瀬川の背中を見つめていた。
「……よし、以上。八巻、号令」
「起立、礼」
「さようなら」
広がる声が一瞬だけまとまった教室に、再びそれぞれの話し声が戻った時、蓮は意を決したように鞄を背負った。
瀬川に声をかけようと一歩を踏み出した矢先、瀬川は八巻に向かって駆け出した。
「あ……」
まるで泳ぐ方向を見失った魚のように間抜けに立ちすくんだ蓮は、頭に描いていた計画をすぐに破棄して次の一歩をどの方向に踏み出そうかと必死に考え出した。
そうだよ……何も同じ部活だからって一緒に行くことはないんだ。一度も話したことないんだし……。
自分の逃げ腰な考えにどこか呆れながら、蓮はバランスの欠いた方向転換をして教室を出た。
高校に入学してから今までに起こったこと……瀬川が夢に出てきたり、部活が偶然一緒になったりしたことが、蓮に瀬川のことを過剰に意識させるようになっていた。今回はそれが間違いなく裏目に出た。こんな様子ではこれからの部活動が思いやられると、蓮は肩を落としながら歩いていた。
蓮が廊下を歩く後ろから、何か駆けてくる足音が聞こえた。
「高橋君!」
振り返ると、そこにはなんと蓮を追いかけてきたらしい、瀬川がいた。
「あっ、せ、瀬川さん?」
つっかえながらも反応する蓮の横に瀬川は並んだ。
「同じ写真部だよね。一緒に部室まで行こう?」
「う、うん……」
突然やってきた瀬川に驚きと戸惑いを隠せなかった蓮だが、とりあえずこれで結果オーライになったかと、そう思い込むようにした。
蓮はあくまで素っ気ない感じを出しながら部室までを歩いていた。しかし、高校の廊下を女子と並んで二人で歩くこの状況を妙に意識してしまう。この感覚は中学の頃とは少しばかり違った。
「……なんか、高橋君って呼ぶの、変だよね」
「えっ」
唐突に口を開いたのは瀬川だった。蓮にはその言葉の意味がわからず瀬川のほうを向いた。ミディアムの髪が歩くたびに揺れている。
「でも、本当に久しぶりだからさ。なんか緊張しちゃって」
蓮はますます困惑した。いったい、何を言っているのだ。
「……あれ、もしかして忘れてる?」
「何を」
ついに立ち止まった蓮に取り残されるようにして瀬川は前に出て、そして振り返った。右目を指差し、
「顔、綺麗になったでしょ」
そう言った瀬川の顔に、二つの笑顔が重なった。
あの夢に出てきた彼女の不思議な笑顔と、
そして10年以上前に見たあの屈託のない笑顔が。
「もしかして……さ、紗希……?」
「やっと気付いたのー?」
蓮は驚き、それから声が出なくなっていた。そんなはずない。紗希は確か、死んだはずじゃ……。
「児之原紗希、改めまして、瀬川紗希です!」
男勝りな風にキメた表情にキリッと上がった眉毛は、昔蓮たちを引っ張っていた紗希そのものだった。
「本当に、紗希なのか……?」
「なあに、そこまで信じられないの? じゃあ話すよ、年長になって外でかけっこで遊んでたら蓮がおもらししてたことあったよね……」
「ああっ、ごめんごめん、信じるから」
「もう、やっとだよ」
ほっとしたような顔をして瀬川はまた歩き出した。蓮は少し遅れるようにして後ろをついていった。
「こんなところで会えるなんて思ってもみなかったよ」
それはこっちのセリフだ……と言おうとして蓮は踏みとどまった。
蓮は小学校に入学してから今の今まで、紗希はもう死んでいるものと思っていた。しかし現に紗希は目の前に生きている。幼稚園の頃一緒だった自分たち四人の間に、何か思い違いで生じた壁ができているのかもしれないと蓮は感じ始めていた。
なぜ伸明はあの時、「紗希は死んだ」と僕らに伝えたのか。
伸明は嘘をついているのか。何のために。
考えても、今の蓮には答えは出なかった。
瀬川とはその後も、写真部のミーティングの後も話が続いた。瀬川の一方的な話や問いかけで。彼女も電車通学で同じ方向の電車に乗り、蓮のいつも降りる駅の一つ前で降りて行った。しかし、瀬川が電車を降りる寸前まで続いた長い会話の中で、伸明と春香に関する言葉はひとつも口に出さなかった。