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押し殺した昨日

 伸明が、四人に渦巻く謎だったずっと昔の過去を明かしている間、その場にいた蓮や春香は静かに口を閉ざして聞いていた。そんな中紗希は、それまで閉ざしていた口をゆっくりと開けた。


「本当は……本当はね」


 寂しそうに、それでも笑みを浮かべながら話し始めた紗希に、蓮と春香は視線を向けた。


「交通事故で死んだのは、私じゃなくて、私のお父さんなの」


 そう言葉を放った紗希の口調はやはり辛そうで、でも表情は一つも曇らせなかった。そんな紗希の姿が蓮には、辛かった過去でも頑張って伝えなきゃという彼女らしい意地を見せているように思えた。


「本当に大好きだったお父さんが死んじゃったのはやっぱり辛くて、葬式が終わっても、ずっと一人で抱え込んでた。卒園式にも行けなくて、みんなに心配かけちゃったよね。ごめん……。


 私が幼稚園の時好きだった、よく使ってた『いちばん』って言葉、それはお父さんが私を可愛がってくれる時によく使ってた言葉だったんだ。でも、お父さんがいなくなってからは、その言葉に敏感に反応しちゃうようになって、嫌悪感すら抱くようになってしまった。だから伸明が卒園式の日に来てくれたあの時、私は泣いて逃げ出しちゃった。


 ……それと、今、私がカメラを好きなのも、お父さんが……私の成長記録のために、いつもカメラを持ってたから、その形見として私がカメラを持つようになったんだ」


 蓮は、この前あった高校の校外学習の時の、いろんな景色にカメラを向ける紗希の姿を思い出した。興奮したようにはしゃいでいで、そしてその表情はとても輝いていた。ずっと、父の形見のように持ったカメラを離さず。

 そんなに暗い顔をしないでというように、紗希は俯いた三人の顔をそっと覗き込む。その紗希にはもう無理をしたような含み笑いも、寂寥を映した瞳もなく、あるのは蓮の夢にもみた、あの自然な笑い顔があった。



 紗希と目が合い、少しだけ顔を緩ませた伸明は、また、蓮と春香の知らない過去を話し出した。


「紗希が死んだと思い込んだ俺は、その自分の恐ろしい認識から逃れるように耳を塞いだ。入学式の日、学校に蓮と春香の顔しか見えなかった……そのことを目の当たりにして、紗希はもういないという現実に直面し、息が苦しくて、俺は泣いた……」



 伸明の口から紗希のことが聞かれたのはそれまでだった。その後の伸明は、小さいながらに『紗希のいない』現実を目の当たりにした恐怖と萎縮で、その幼い胸に塞ぎ込んでいった。


 そして、三人の小学校が始まって少し経った六月のある日、伸明が学校から帰ってポストの中を見ると、一通の便箋が入っていた。差出人も書かれておらず、また切手もなかった。しかし、唯一書かれていた宛名の幼い字に、胸の内からの戦慄きをそそのかされた。不安とも恐怖ともつかぬような気持ち悪い思いを抱えながらそれを自分の部屋まで持っていき、おそるおそるその中の手紙を開いた。

 ……そこに書いてあったのは、まぎれもなく紗希が書いた字であった。伸明の深い思い込みは目の前の一通の手紙によって大きく覆されたのだ。段々と伸明は、手の中の手紙が掲げた一つの現実を飲み込んだ。紗希は本当は死んでなどいなかったのだ。

 その事実を知って伸明は、紗希の家に電話をしようと条件反射のように電話を取りに行った。電話番号が書いてある手紙を片手に、子機のボタンを押そうと小さい手の親指を伸ばした。――しかしその時、伸明は最後に会った時の紗希の姿を思い出して躊躇った。


 あの時紗希は自分のことを、確かに拒絶した……。


 紗希にはじかれた手と、電話をしようと子機を持つ手が重なって、とたんに伸明は、自分がしようとしていることに怯えて手に力が入らなくなった。電話機を落としそうになる伸明は、慌てて元の場所にそれを置いた。

 伸明はそのまま数分間、置かれた電話機をじっと見つめていた。これを手に取って電話番号を押して耳に当てれば、伸明たちの前からいなくなった紗希とまた会えるのだ。そんなことが、ちょっと前まで歓喜に満ち溢れるように感じていたのに、今ではどうだろう、伸明を包み込もうとする計り知れない恐怖のように感じているのだ。あれほど紗希のことを伸明は好きで、それも最近、自分の想いをやっと自覚できたのに……いや。紗希のことが誰よりも好き『だからこそ』伸明は電話機に再び手を伸ばせなかったのだ。自分のことを拒絶した紗希と再会すること、そんな彼女に好意を抱いている自分を自覚しながら、彼女とずっと一緒にいることを想像すると、伸明は果てしない恐怖の悪夢に襲われた。あんなに募った彼女への恋心は、拒絶されることによって反動のように彼女を遠ざけようとする感情に変わったのだ。



「そうして俺は、その自分勝手な感情で……紗希の手紙に、答えなかった」


 蓮は紗希の顔をちらと見た。紗希の表情は伸明の語る過去を否定せず、認めるように――あるいは懐かしむようにも見えた。彼女も、自分たちと同じように小学生、中学生の月日を生きて、大人になっていることを蓮は改めて感じた。

 紗希が伸明に手紙を出した時期は、八巻が言っていた紗希が小学校でいじめを受け始めた時期とちょうど重なっていた。父が亡くなった悲しみをきちんと自分の中で整えて、それから元気に、違う小学校になってしまった三人と一緒に遊ぼうと決めていたであろう紗希は、突然自分のいる小学校に居場所がなくなって、伸明の家のポストに自分の心の依頼を入れたのだ。

 成長した紗希の顔は、蓮が感じていたよりもずっと大人びて見える。


「蓮や春香にも、誰にも紗希のことは伝えないで……俺は、自分の胸の中で紗希を押し殺してしまった」



 紗希は死んでしまったのだ。手紙は奇妙ないたずらだ。


 そう自分に言い聞かせるように伸明は紗希のことを抑え込み、一通の手紙の現実性を否定した。

 そして伸明は、また誰かを好きになって、付き合いたいと思うようになっても――その意思が交わって、その人と付き合うことになっても、ふとしたきっかけで嫌いになって、それまでの好意が仇となってその人への拒否感を覚えるようになってしまうと感じ始め、やがて異性を好きになることを拒むようになった。



「でも、当然、自分自身を究極に騙せはしない。この世のどこかに紗希がいることを、後になって認めざるを得なかったんだ」



 中学生になった伸明には、もう子供騙しは通用しなかった。紗希は死んでなんかいないという認識が心のどこかで広がり始めた。小さい頃に感じていた、彼女を『遠ざけたい』感情も、それに対する罪悪感もいつの間にか消え去っていた。しかし今の伸明には、別の罪悪を感じるようになっていた。それは、自分が今の今まで紗希からの手紙を無視したことに関する悔悟だった。

 それから、自分が異性への恋愛感情に対して過剰に拒否感を抱いていたことにも気づいていた。

 中学校も卒業に近づく頃、その悔悟と自覚が自身の中で伝播し、自分を想ってくれる春香のことを、少しずつ意識し始めた。伸明は、その悔悟の気持ちを埋めるために、その罪悪を償うために、春香の想いに応える気持ちを整え始めた。

 しかし、その時だった。蓮の口から紗希のことを聞いた伸明は、その時初めて、自分がしようとしていることの卑劣さに気付いたのだ。蓮や春香に、紗希はいないと騙しておきながら、自分だけ春香と両想いになろうとしていることに。


 蓮や春香を騙し、そして紗希のことを無視し続ける……そんな自分の劣悪な行いを自覚した伸明は、自分が今高校生であることも極めて大きく影響し、伸明が持った『思春期の闇』に陥ってしまう。



 そして、蓮と傘を持ち対峙したあの嵐の夜に、伸明は紗希に電話をかける。



 その次の日、伸明は駅の改札口で彼女を待っていた。その日は快晴で、五月の中旬だというのに夏が来たように暑かった。

 伸明を見た瞬間、子どものように紗希は改札を抜けて駆けてきた。


「顔のどうしたの」

 線路沿いの道を歩いているとき、伸明が言った。

「青くないよ」

「綺麗でしょ」

「……うん」

 太陽が遠く二人の頭の上で照り輝いていた。

「なんだか喉渇いちゃった」

 紗希は近くの自販機に駆け寄っていった。

「……ごめん、紗希」

「え? 何か言った?」

「……いや、なんでもない」


 後ろ向きなことは絶対言うなと、昨日の電話で伸明は紗希から念を押されていた。それでも、後できちんと謝るつもりだった。


 振り返った紗希は、昔、彼女のおままごとの飲み物によく出てきた『メローイエロー』の缶を、冷たそうに頬に当てていた。

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