触れない孤独
少しずつ傾き始めた陽が紗希の右瞼を照らしていた。昔あったあざは跡形もなく消え、また、その時の彼女の存在もそれと同じように、蓮の中では消えようとしていた。
鎌倉の遠足は、鎌倉駅前での解散という先生の言葉によってお開きとなった。行きは高校からバスで来たのに、帰りは現地解散で各自電車に乗って帰れというのはまったく変な話だ。結局蓮たちは、電車の乗る方向に分かれたクラスメイト全員でぞろぞろと帰るような形になった。といっても、蓮を含めほぼすべての人が、同じ方向に帰るのだが。
班行動がまだぼんやり続いていて、蓮と隆の紗希がいる班には、紗希が八巻を連れてきた。隆はその瞬間すぐに紗希から八巻を奪い去り話し込み始めた。なんて行動力の高い……というか、ゲスの極み。それでもそんな隆からの会話にも表情一つ変えず大人な対応をする八巻。さすが学級委員だ。しかし隆が乗り換えで蓮たちの電車から降りていった時、八巻は思わず、
「高橋君、よくあんなぐいぐい来る人と一緒についていられるね……少し感心したわ」
と苦笑いをこぼした。
やがて、蓮にとってなじみのある風景、街並みが見えてきた。紗希も、ずっと昔に住んでいたこの景色。
「……懐かしい、な」
紗希は走る電車の窓の外を遠く眺めながら、ぽつりとつぶやいた。いつもの強引な言葉ではなく、自然と口から出たように。そして八巻もまた紗希と同じ方向に目を向けながら、紗希に寄り添った。
蓮はこの後、伸明と春香は元気かだとか、今度また四人で会いたいなどという問いかけがきたらどうしようと必死に考えていた。11年前、紗希が突然いなくなった後、小学校入学式での伸明の嘘。そして、伸明の前で再び紗希という名前を出した時の反応から、伸明が何らかの「蓮の知らない過去」を握っていることは明白だった。伸明の口からそのことを聞き出せたなら、蓮はすぐにでも紗希と二人を再会させたかった。しかし、伸明は今になって春香への想いを受け止めようと一歩を踏み出そうとしている。それはかつて蓮が望んでいたことで、今までに何度も伸明に、春香の想いに応えるよう仕向けてきた。だが一方で蓮は、自身の中で肥大化していく春香への想いを押さえつけることができなくなり、高校生になった春香の変化も相まってついに伸明を出し抜こうとしてしまう自分に気づいたのだ。気づいた心の中で蓮は伸明の存在に怯え、会いたくないと感じてしまうくらいひるんでいる。そんな蓮の背徳感が枷となって、紗希には「二人は元気でやっている。僕ら三人は今も仲良しだ」という、ある種の虚構でさえも伝えることができないでいた。
しかし、紗希は遠く揺れる景色を見つめるだけで、それから何も言わなかった。
「……じゃあ、また明日」
「うん、お疲れ」
蓮はこの駅で電車を降りた。背に感じる紗希の視線が、重く感じられた。
次の日、学校に来てみるとずっと隆が昨日の遠足について語ってくれた。それも、本編である鎌倉探検の時の話じゃなく、帰りの電車の中での話だけを熱く。
「結局のところ、俺が委員長に声をかけたのは、お前と瀬川を結びつけるためでもあったわけよ。感謝してくれるよな?」
「はい?」
よくそんな言葉が口から出るものだ。つい先ほどまで、おっぱいを間近で見ながら会話できた喜びを語っていたくせに。
「まあよかろう。オレ、高橋隆は十分おっぱいソムリエと呼べる存在であることを証明できた――」
「高橋君」
蓮と隆が一斉に振り向くと、そこには渦中の人、八巻千春が立っていた。
「ちょっと来てくれるかな」
「ハイハイハイ! 今すぐオーケーです!」
そう叫んで立ち上がる隆を、八巻は片手で制し、
「高橋蓮君に用事があるの」
と告げた。