吸血鬼と不真面目な緋血
ふぁと欠伸を零して、キルルクは本のページを捲った。
肘掛のついたふかふかの椅子に浅く座り、足は前に置かれた丸テーブルに組んだままのせている。
そのせいで肩を背凭れに預ける形になって大変お行儀が宜しくない。
けれど本来ならそれを咎めるであろう相手が今は不在にしているため、キルルクは悠々と好きな格好で本が読める。
其処は屋敷というよりは城に近い大きな建築物で、部屋の数は両手でも足りないくらいだ。
全体的に薄暗いので良く解らないが、目を凝らせば階段の手摺に至る細部まで、意匠を凝らしたデザインであることが解る。
尤も主がそれを人に見せようという気がないのだから持ち腐れには違いないのだが。
キルルクのいる部屋は、窓と扉を除く壁の棚にみっしりと本が並び、入らないものが床にまで積まれているような有様だ。
希少本も娯楽本も一緒くたに無造作に陳列されている様は、コレクターから見れば憤慨ものかもしれない。
薄暗く室温の低いこの部屋は、偶然にも本の保管に適しているが、これは主が意図したわけではない。
ただ主である彼が、日光や高温を好まない本の保管と同じ性質の持ち主だったというだけである。
ふぁと先ほどより大きな欠伸を零して、キルルクはページを捲る。
「暇そうだな、キルルク」
「忙しいですよ」
こんっと扉を叩いて注意を促した男に、キルルクは本から視線を外さないまま面倒くさそうにひらひらと手を振る。
「今、人魚姫の命運やいかに、ってところなんです」
「そういうのを暇というんだ」
取り上げられた本に、キルルクは漸く顔を上げて男を見た。
「邪魔しないでくださいよ、ヤズグ」
「邪魔じゃない。こんな処で油を売っている暇があったら、さっさと人間界に行ってこい」
ヤズグが呆れたようにそう言って、読みかけの本をキルルクの手の届かない床の上に積み重なった本の上に乗せる。
「行かなくても良いと思うんですけどね」
「良いわけあるか。さっさと行け」
「王様になりたいなんて、思ってないんですけど」
「お前がなりたかろうとなりたくなかろうとそんなことは一切関係ない」
素っ気ないヤズグの言葉に、キルルクは小さくため息を零した。
キルルクもヤズグも吸血鬼だ。
吸血鬼の暮らす国は、狼の国と悪魔の国と隣接している。
各国には王様がいて、人間界を軸に対等の力を持っていた。
けれど先日吸血鬼の国の王が倒れた。
早急に跡継ぎを立てなければ、場合によっては他国に攻め込まれることにもなる。
そうなれば、人間界への干渉も制限され、吸血鬼は存亡の危機を迎えるわけだ。
ただ、新しい王を立てるのも簡単ではない。
人間界に出向き、最も優秀な血液を手に入れたもの。
それが次の王の資格を持つのである。
その血液の提出期限が、あと3晩に迫っていた。
「下手な奴が王になってみろ。面倒この上ない。お前が取り敢えず王になって、王子が適齢期を迎えるまで何とかしろ」
「吸血鬼使いが荒いですよ、ヤズグ」
現在の王の側近であるヤズグには、王になる権利はない。
彼は厳正なる審判者側だ。
王の息子である王子は、まだ一度も人間界に降りたこともなければ、人間から血を吸った経験もない。
とても、王になれるような存在ではなかった。
本に伸ばした手を叩き落とされたキルルクは、哀しげにため息を零す。
「適材適所、というものがあると思うんですけどね」
「そっくり返してやる。現王の弟であるお前に拒否権はないと思え」
「王様なんかより、本を読んでる方が何倍も良いんですけどね」
「だから、王子が適齢期を迎えたら即刻罷免してやる。その後はいくらでも本でも読んでろ。解ったら、さっさと行って来い」
「本当に、面倒この上ないですね」
のろのろと立ち上がったキルルクは、凝り固まった身体を解す様に腕を伸ばした。
「仕方ありません。行きましょうか」
「さっさと行け」
「あぁ、そういえば」
部屋を出ようとしたキルルクが思い出したように、ヤズグを振り返る。
「今の人間界の季節は、なんでしょう?」
「秋だ」
「そうですか。紅葉が覆い隠してくれる、良い季節ですね」
くすりと笑ったキルルクの長い銀の髪が、薄暗い中でやけにはっきりと風に揺れて廊下に消えた。
尻切レ蜻蛉