海軍と海賊①―青い海が別つもの―
目が醒めたら、見慣れない天井が目に入って、ぼんやりとした思考に入ってきたライトに、漸く陸に降りたことを思い出した。
するとこの天井は、長い間帰ることのなかった家の天井ということになる。
よく見ればライトには見覚えがあった。
つい数時間前までは海の上にいて、波に揺られていたことまで記憶のネジを巻き戻して起き上がると、鋭い痛みに、手を離したネジがゆっくりと回りだす。
休暇を貰って船を降りて、普段は寄り付かないこの片田舎にある家に帰ってこようとしていたのだ。
ただ、どう考えても帰り着いた記憶はない。
律儀なほど丁寧に手当された身体中の怪我に、一人の厄介な人間が思い当たって、反射的に眉を顰めた。
遡った記憶に彼の気配はなかったが、他に該当しそうな人間もいない。
コンッ
思考を遮るように響いたノックの音に視線を向けると、当然のように立っていた男は片手にのせていた盆を目線の位置までさげてみせた。
「飯食うか?」
「やっぱり、君か。どうしているの?」
「それなら、俺の方が聞きたいね」
なんだ、その傷は。不機嫌そうな様子を隠すことなくそういって、男はどこから出したのか、空いた手で一巻きの包帯を放り投げる。
「見ろ。半分以上減っちまった。しかも二巻きめだ」
「常備してるの?」
「医者に向ける言葉じゃねぇな。当たり前だろう」
がりがりと髪をかいて、男はずかずかと部屋に入ってくるとベッド脇の机に盆を載せた。
「調子は?」
「特別これといって悪くないけど」
「いっとくが、お前用に常人の数倍に見積もっても一週間は安静だからな」
「そうなの?」
腕をあげようとして僅かに顔を蹙めると、途端に不機嫌そうな眼差しが向けられる。
「安静だ」
「安静にしてるじゃない」
「どこがだ。今にも素振りでも始めそうな面しやがって」
「それはまぁ、何処まで動けるか確かめないとだし」
「馬鹿野郎。安静を辞書で引け」
「いつもより静かにしてることでしょ? してるじゃない」
「いつもよりじゃねぇ。身体を動かさないで、静かにしてるってのを、安静っていうんだ」
「あのねぇ、一週間も寝てたら、鈍っちゃうんだけど」
眉を顰めると、途端に眉間を弾かれた。
「少しは鈍れ」
「鈍ったら困るじゃない。ますます怪我しちゃうよ」
あっけらかんといえば、男は酷く嫌そうに目を細めて、スプーンを掴もうとした所を寸でで掠め取られる。
「ちょっと」
「動かすな、といっただろうが」
「食べられないじゃない」
「ほらよ」
スプーンですくって目の前に差し出した男に、思わず肩を竦めてしまう。
「あのねぇ」
「怪我人は怪我人らしく、医者の指示に従え」
「毒でも入ってたら、洒落にならないけどね」
そんなことするはずもないと解っているので、冗談半分にそういって口に入れると、男の手が固まった。
「お前、」
「君も食べたら良いのに。スプーンくらい自分で使えるったら。珍しくこの家に誰かがいるんだから、折角なら一緒に食べない?」
がりがりと髪をかいて、不機嫌に立ち上がった男は一旦部屋を出て、すぐに皿を持って戻って来る。
その間にスプーンを拾いあげて、もう一掬い口に入れた。
卵ベースの雑炊は柔らかな野菜が沢山入っていて大変に美味しい。
料理の腕については、脱帽せざるを得ないと食べる度に思う。
「本当、普通の料理人になれば良かったのに」
「俺が医者なのが不満か?」
「別に普通の医者なら不満じゃないよ」
普通の。と敢えて強調すると、僅かに男が眉を顰めた。
「それについては俺が物申したいところだ」
「なあに?」
「早く辞めろ」
何を、といわれなくても、解りきったことだ。
「あのねぇ」
「辞めて、うちにこい」
「それ以上いうと叩き出すからね」
にこりと笑うと、男は盛大に舌打ちを零してスプーンに手を付ける。
端からみたら、これだけ異様な組み合わせはない。
今、この空間が治外法権でなくてなんだというのだろう。
こちらの仲間が見ても、男の仲間がみても、即座に眉を顰めて武力を振り上げるに違いない。
なにせ男は、船乗りの間で、キングオブパイレーツ候補といわれる高額の賞金首。
相対するこちらは、大佐の称号を持つ海軍の一員。
海で出会えば、当たり前に敵対する間柄だ。
「君はいつもタイミングが悪いよねぇ」
ご馳走様、と手を合わせてため息をつけば、男は最後の一口を掬い上げる。
体調が万全なら互角をとれても、今この状態では追いつめられない。
それが解るくらいには、人を見てきて場数を踏んだ。
大佐の称号を伊達で背負っている訳ではない。
「良い、といえ。でなきゃお前はその辺りで転がったままで、今以上の休息が必要だぞ」
素っ気ない物言いに僅かに眉を顰める。
「何処で拾ってくれたの?」
「海岸との調度中間点。カケスの森の岩戸のそばだ」
地形を思い浮かべて、ため息をつく。
船を降りて暫くは、なんとなく記憶があるような気がする。
無意識状態のまま随分歩いたようだ。
それならせめて、此処まで這ってくれば良かったのに、と記憶のない自分を呪ってみても仕方ない。
「それで、何か用だったの?」
男が此処を訪れることは多くない。
休暇中でない限り、訪れることのないこの島での邂逅について、治外法権の勝手な取り決めは、ある意味こちらからの言い分であって、男の方には特段異論がないらしいので、そのままになっているようなものだ。
らしい、と云うのは、男がことあるごとに海軍を辞めて自分の率いる海賊船に乗れと口説くからである。
こちらと敵対する気は毛頭ないようで、特に怪我をしていると不機嫌になるばかりか本当に熱心に手当までしてくれる。
「ノーズベルオレンジ」
「君、律儀だよねぇ」
男の口から出たのは、北海の島の名産である果物。
或る時口を滑らせて柑橘系が好きだといったら、珍しいものを見つける度に、此処に持ってきては置いて行くようになった。
「一緒に来い。そうすればいくらでも珍しいものが喰えるさ」
「だから、行かないってば」
結局そちらに流れる話に、ため息をついて男を睨む。
「何度いわれても、」
「お前に海軍は似合わない」
「似合わないって、あのねぇ」
「俺の船なら、お前をそんな風に闘わせない」
刃を突き付けるように紡がれた言葉は、部屋の中によく響いた。
「こんな無茶苦茶な怪我、させないね」
男の手から離れたスプーンが、からんと音を立てて皿を滑る。
傷を見られた以上、怪我の具合からどう闘ったのかも全て解っているのだろう。
それだけの場数を、この男は踏んでいる。
高い賞金も、伊達ではないのだ。
「下手を踏んだのは自分のせいだよ」
「いや、違うね。お前だけじゃなく、俺でもやれない。海軍って組織は腐りかかってるからな」
多分、男の言葉は間違っていない。
否定するだけの材料もない。
地位、出世、金。
そんなものに目のくらんだ上官がいるのも事実だ。
『正義』なんてものは人の数だけ存在して、『絶対正義』なんてものは、きっとどこにもないのだ。
けれど。
「いくら君の方が近くても、駄目なんだよ」
「なに?」
男が強賊のように、略奪や虐殺を行わないことを知っている。
無造作に人を傷つけないことを知っている。
地位や身分で相手を判断しないことを知っている。
困っている相手を見れば、何だかんだ手を貸してしまうお人よしであることを知っている。
それでも。
自分の考える正しいと思う道が、いくら男のものに近くても、『海賊』では駄目なのだ。
「君を知ってるから、助けて。と手を伸ばせば、助けてくれることは知ってるよ。でもね、誰かが。子どもたちが。困った時に、助けてほしい時に手を伸ばすのは、どうしたって『海賊』じゃない。『海軍』なんだよ」
だから。此処じゃないと駄目なんだ。穏やかに告げた言葉に、男は反論するように口を開きかけて、結局何もいわずに立ち上がる。
「ごちそうさま。美味しかった」
「云っとくが、”理解”はしたが、”納得”したわけじゃないからな」
空になった皿を掴んで、男はそういって部屋を出て行った。
あき