海軍と海賊③―白い煙が別つもの―
雪が降っている。
どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
睡魔というものは、平和な家の暖炉の前にも、寒々しい牢獄の中にも同様に訪れるもののようだ。
ぼんやりと銀鼠の空を眺めていると、不意に金属の擦れる音がした。
視線を落とせば、調度上がってきた昇降機の扉が開く。
「囮、ご苦労なことだな」
隊服にきらりと光る少尉の階級を示すバッジに一瞥をくれて眉を顰める。
初めて顔を合わせた時から、この男は好きになれなかった。
組んで仕事をすることも何度かあったが、結局その印象は悪くなるばかりで、今に至る。
「囮? よく云う。一緒に始末したいって顔に書いてあるよ」
ザクリードマン。
海軍少尉の肩書を被って情け容赦ない正義を振り抜く。
彼に言わせれば、海賊は全て悪で、海軍は全て正義だそうだ。
にっと引き攣ったように笑って、ザクリードマンは引き抜いた剣を、格子の間から眼前に突き付けた。
「その通りだ。今も、お前を切り刻みたくて手が震える。だが、アリスト・ロウを切り刻めると思えば、三日くらいは待ってやるさ」
「くると思ってるなんて、案外低脳だね。待ちぼうけを食って精々地団駄踏むと良…っ」
殺気もなく無造作に突き出された刃が右肩を抉る。
引き抜かれると同時にぱたぱたと溢れた鮮血が積もりはじめた雪を染めた。
「良く廻る口だ。殺されないと思ってるのか? アリスト・ロウが来ようが来まいが、お前の命は精々あと三日だ」
本当に嫌になる。
この男よりも、彼の方が良いと思うなんて、馬鹿げたことだと解っているのに。
『海軍』でなければ駄目だと、あれだけ意地を張ったくせに、その海軍を自分で否定するなんて、本当に。
それほど弱気になっていることに気付いて笑ってしまった。
でもどうせなら、もう一仕事熟したい。
それが、セブクアに対して、唯一できる誠意だ。
セブクアの目指す海軍に、どうしてもこの男を残したくはないから。
だから、奥歯を噛み締めて痛みを堪え、挑発するように低く笑う。
「今更だね。だったらさっさと息の根を止めたら良いじゃない。囮がいないとアリスト・ロウには勝てないなんて、海軍少尉が情けな…っ!」
右足を貫いた痛みに、思わず声にならない悲鳴をあげた。
雪を溶かした血が、鼻につく臭いを漂わせる。
「無駄な足掻きだ。そんな安い挑発に乗ると思うか? 死に急ぐ相手に、上から目を付けられてまで今殺す価値はない」
ザクリードマンは刃の血を無造作に払ってそう冷ややかに吐き捨てた。
口を開けば叫んでしまいそうで、反論できずに奥歯を噛みしめる。
全く、自分の身体なのにままならない、と冷めた頭の端で微かにそう思った。
「ん?」
何に気付いたのか、男は不意に格子の横を抜けて絶壁の方へ向かう。
ざくざくと雪の上を進む足音を耳に入れながら、けれど視線も動かせずに片目を眇めた。
血が止まらない。
冷気が傷にしみて、気を抜くと本当に叫んでしまいそうだ。
勢いを増した雪が後から後から傷口に触れて赤く染まっていた。
キンッ
「!?」
本当に唐突に響いた刃の搗ち合う独特な音に、はっとして痛む身体を無理矢理持ち上げる。
「なんで」
行き当たりの崖で、何処から現れたのか雪煙の中、ザクリードマンと刃を交えていたのは、あの男だった。
「もう良いだろ」
耳元に落ちた言葉に顔をあげると、目に入ったのは苦虫を噛み潰したような男の顔。
両手の鎖は解き放たれ、いつの間にか崖の傍で男の腕の中にいた。
傷は痛いし、硝煙や砂埃で喉はがらがらだったけれど、男の血濡れた手が触れた背中だけは暖かい。
「君、馬鹿なんじゃないの?」
「馬鹿はお前だ。いい加減、俺を選べ」
ちらちらと降る雪が視界を遮った。
頬や額や傷口にあたってはあっと云う間に溶けて消えて、あの日の記憶を呼び覚ます。
硝煙の香り。
迫りくる業火。
生きることを否定された叫び声。
奪われた未来。
そして、なにもかもを覆い尽くそうとする雪。
いくつもの夢を語る命が、あの日消えた。
助けてと手を伸ばす先を知らないままに。
「海軍だとか、海賊だとか、そんなものどうでもいい。手を伸ばされなくても、手をのばすことはできる。何処にいても、お前はお前だ」
「そんなの」
「云ったはずだ。邪魔はさせない。お前が笑える場所は、此処じゃない」
「なに、云ってるの」
「お前の意思は尊重するつもりだったが、これ以上、お前にこんな馬鹿なことさせるつもりはねぇよ」
不意に頭の後ろに回った男の手が、思い切り頭を男の肩に押し付ける。
「っなに」
すぐそばで、男の右手が柄を握り直すのが解った。
流れてきた気配に気付いて身じろぐと、男が腕に力を込める。
「返してはやらねぇぞ。先に手放したのはお前達だ」
見なくても解る。
男の前に立つのはセブクアだ。
足手まといを抱えて闘えるほど、海軍がやわな組織ではないことくらい、男は充分承知しているだろう。
それなのに、男は腕の力を弱めはしなかった。
「ちょ、離し」
「嫌だね」
「足手まといなことくらい、」
「いや。牽制にもなるさ。そうだろ。セブクア大佐?」
「あぁ、そうだ」
「セブ、クア?」
「彼女は、今の海軍には釣り合わない。いつか彼女に見合うくらいになったら、また取り返しに行くさ」
酷く晴れやかに笑って、セブクアが何かを放った。
手を伸ばそうとして、代わりに男が危なげなくキャッチして渡してくれる。
「ルイガドル、生きろ。生きてさえいれば、君も世界を変えられる。君は君のやり方で、僕は僕のやり方で、子ども達が笑って夢を叶えられる世界を目指そう」
最高礼をしたセブクアに声をかける前に、ひと際激しく雪煙が舞って、男が高く口笛を吹いた。
「わっ」
唐突に崖を蹴った男と一緒に重力に従うと、響いた羽音が高く舞う。
柔らかい羽毛に、気付けば大鳥が翼をはためかせた。
大砲の音が聞こえたが、雪煙の中のせいかひとつも当たることはない。
風の声が囁くように広がって、それから何も聞こえなくなった。
『理不尽な暴力に、嘆かなくて良い世界を』
海軍の入隊式で、支給されたバッジを胸に、誰もが真っすぐに自分の正義を語った。
けれど、階級が上がって、新しいバッジを得る度に、同期の多くが古びたバッジと共にあの頃の気持ちを失い、捨ててしまう中で、セブクアだけは初めて貰ったあのバッジをずっとにぎりしめていたのを知っている。
遠ざかる海軍本部を振り返らずに、握ったままだった掌をそっと開く。
手の中で、古ぼけて薄汚れたバッジがきらりと光った。
あき




