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トリコロール  作者: そらみみ
【あか】
10/20

緋色憐華。

吸血憐華。




どろどろと醜く。

隠された赤色。

華の糧。

解ける包帯と曝け出された心。

過ぎた日常と最後の言葉。

最後の君にこの呪いを。



地方に住む叔父から長期の海外旅行で家を空けると連絡があったのは、夏休みのことだった。

叔父は大学も実家通いの僕に、大学の夏休みは9月いっぱいまでなのだからちょうどいいだろうと、一度は一人暮らしでも経験しろと家の鍵を預けた。

そうひて、ボストンバッグ一つで辿り着いた叔父の家の隣には大きなお屋敷があった。



「そういえば、秋陽さんの叔父さまはいつ帰ってくるんですか?」

壁面が本棚と、その本棚に入り切らずに積み上げられた本で少ししか見えない部屋に、黒いセーラー服が揺れる。

本棚から新しい本を取り出して、彼女は思い出したように僕にそう尋ねた。

僕は読んでいた本から目を上げると、カレンダーを見て日付を確認する。

「あと確か明日明後日くらいかな」

「確かって不明瞭なお応えですね。会って一ヶ月しか経っていないのにそんなに雑な対応されると傷つきます」

むくれてみせる彼女にごめんね、とさらりと謝れば、彼女はより一層むくれた。



彼女の名前は璃雨。一ヶ月前に家の前で貧血を拗らせ倒れていたのを見つけて、適切な対応が分からずとりあえず休ませるために家に連れて帰った。

目覚めた彼女の警戒心で、自分が対応を間違ったのは気づいた。けれど、理由や状況、他にどうしていいかわからなかったと説明すれば納得してくれた。

話を聞けば、彼女は隣のお屋敷の一人娘だったらしい。知っていたなら、自宅に運んだのに、と肩を落とせば彼女はくすくすと笑った。

明日お礼に伺いますと、頭を下げた彼女は言葉通りに次の日現れて、それ以来高校の終わった夕方になるとこの家に入り浸っている。



夕日が次第に部屋を染め上げていく。

「本当に毎日飽きもせずによく来るね」

「だって、この家の本、私が以前から読みたかった本ばかりなんです。秋陽さんはあまり読書しないみたいですし、それだと本が不憫です」

「随分と手厳しいね」

お手上げだ、と手を上げて見せれば彼女は楽しそうに嬉しそうにくすくすと笑った。

肩を揺らすたびに、ちらちらと長い黒髪から覗く首元は白磁のように白い。

黒を基調としたセーラー服と黒いタイツで覆われた脚に、胸元の赤いリボンだけがよく生えて、それがより少し覗く彼女の肌の白さを際立たせていた。

少女と女性の間を漂う美貌と白磁を思わせる肌。その肌の下を赤い血が流れているのかと一度は疑いさえした。初めて出会った時、彼女は深窓の令嬢と紹介されれば信じてしまいそうなほど危うげに綺麗だった。

「話してみたら精神年齢は幼かったな」

ぽつりとそう無意識に零す。彼女はきょとんと僕を見て首を傾げた。

横髪を耳にかける仕草で、袖口から白い包帯が垣間見えた。



夕日がまた傾いて、積み重ねられた本が影を落とす。

ふいに彼女がぱたりと本を閉じた。目を向ければ彼女は僕を見ていた。

「私、秋陽さんが好きです」

まっすぐと告げられたその言葉に、僕は少しだけ驚いたふりをして笑う。

「いきなりどうしたの?」

「叔父さんが帰ってくれば家に帰るんですよね。それなら、今日が最後の機会ですから」

彼女は膝をついたままで僕に近づくと、僕の頬に手を添えた。

「好きです、秋陽さん」

僕は彼女の手首を優しく掴んで笑ってみせた。

「僕も好きだよ」

彼女の袖口のボタンを掴んだ手で外す。

そして、そのまま、その下の包帯を解いた。

彼女はふっとその瞬間に無表情になった。



「……秋陽さんは初めから何も言いませんでしたね」

初めて会った時のような深窓の令嬢でもなく、くすくすと笑う、見た目に反して幼くいたずらな面でもない、どこか退廃的に笑う彼女を目の当たりにしても僕は驚かなかった。

寡黙さも無邪気さも彼女らしさだけれど、それでもどこか上澄みのような気がしていた。だからだろうか、この彼女を見た時そうか、と思った。

「それって優しさじゃないんですよ。憐みです」

微笑んで、そう憐れなものを慈しむように微笑んで彼女は僕を突き放した。

結び目を解いた腕の包帯がまるで彼女の裏側を曝け出すようにしゅるしゅると解けていく。

「理由を聞かなかった理由、もうわかってるんです」

口元は笑みを浮かべているのに、その瞳は深海のような孤独を湛えている。

「みんなこの包帯を見ると嫌だなって顔して避けます。それか可哀相だなって目をします。私、その目の方が嫌いでした。私の痛みも理由も知らないのに、この包帯だけ見て私を決めつける。あぁそういうことをするぐらい辛いことがあったのねって可哀相にって。弱い心も理解できるふりをするの。そして私に関わろうとする、わたしなら救えるって思いあがって。どうしたの、何が辛いのって私に聞くんです」

解けた包帯が床に音もなく落ちる。セーラー服の開いた袖口から露わになった手首はより一層白く見えた。

「見えますか、秋陽さん」

「……見えるよ」

真っ白な手首には傷ひとつなかった。

でも、僕が何かを言う前に彼女はセーラー服の袖口を上へとずらした。

そうして白が広がって――――彼女は、僕を見て力なく笑った。

「……私、死にたくなんてないですよ」

「璃雨」

思わず名前を呼んだ。呼んだところでなにも変わりはしないのに。

「秋陽さんはずるい、」

ずるいです、と彼女は繰り返す。ゆらゆらと瞳の中で光が揺れる。

「秋陽さんは卑怯です……それが憐れみでも、」

優しくしないで、彼女は静かに呟く。その響きは透明でその分とても遠い。まるで他人事のような温度で空気に溶けていく。

彼女は静かに僕に乞うた。

「話を、話を聞いてくれますか。忘れてしまっていい、ただの戯言を」



秋陽さんは貴族が昔、華族と呼ばれていたことをご存知ですか。

華族と呼ばれていたことには一般には知られていない理由があるんです。

今も残る旧家の一族は多くが【華】を持っています。普通の花ではありません。便宜上、華と呼ばれているだけです。

その華を守ることが家を守ることに繋がり、その華を咲かせ続けることが家を繁栄させると言われてきました。

事実、華を枯らせた一族は衰退の後、没落していきました。

華は家ごとに違い、違う糧を必要とします。その糧を捧げ続けなければ、華は枯れ家はその地位を守れません。

ある家は黄金を、ある家は生き物の眼球を、またある家は宝玉を華に捧げ続けてきました。

そうやって旧家は、私たちは、家を守ってきました。


彼女はそこまで話すと、僕を見た。凪いだ瞳が僕を捉える。

「もう秋陽さんならわかりましたか? 私の家が華に捧げるのは血です」

「じゃあ、これは」

掴んだ彼女の腕に走る無数の傷跡。

「この役目は母から娘へと継がれます。男は外を女は内を守る、それが我が家のしきたりです」

「璃雨」

「私、自傷してるわけじゃないんです。家を守ってるんです。だから、可哀相って違うんです。そういうのじゃないんです」

冷たい声音のまま彼女は早口になる。

「秋陽さんは私を疎ましいとも可哀相とも思ってませんでした。何も聞かずに避けもせず私をそばに置いてくれた。そんな人は初めてで、だから近づいたんです。でも、近づかなければよかった。そうしたら気づかなかったのに」

彼女は掴む力を弱めた僕の手から、するり傷だらけの腕を逃がした。

夜を思わせる瞳が揺れないまま僕を見つめる。

「あなたは優しい。私はそう錯覚していました。でも、違うんです。出会った時、あなたは私のことなんかどうでもよかったんです。今は変わったけれど、でもそれは恋じゃなかった。ただの、ただの憐れみです」

言葉を挟めなかったのではなく、挟まなかった。

ここで僕はやっと自分がここに逃げてきたことを思い出していた。

小さい頃から親に医者になれと言われてきた。だから、医大へ行った。いい成績を取った。教授に論文を褒められた。同級生から羨望と嫉妬の眼差しを向けられた。大したことないよと笑った。家に帰れば、たかが二流医大だろうと鼻で笑われた。大学で毒のように流れ込もうとする冷たい皮肉も無邪気な賛美にも、そんなことないよと笑った。家に帰れば、一流医大に受からなかったお前は所詮負け組だ調子にのるなと嘲笑された。笑って、笑われて、褒められて、貶されて、それでも笑って、笑われて、謙遜して、貶められて、そのうち何に笑えばいいのかもよくわからなくなって。

そして、あの日、コンクリートの上で死んでいる烏をみたとき、僕の中で何かが完全に色をなくした。足を止めた僕を、迷惑そうに避けて行く人達が何人も通り過ぎていった。

それは喜劇の一幕のように滑稽だった。烏の屍など誰も見向きはしない。立ち止まった僕だけがまるで異端のようで、だから僕は怖くなって逃げ出した。叔父の話はまさに渡りに船だった。そうして、僕は逃げた先で死の匂いをさせる少女に出会った。

彼女の夜の瞳に僕は何を見たんだ。何を、見ようとしたんだ。

「僕は思ったんだ。僕もあの烏のように無様に憐れに死んでいくのかって。コンクリートの上に打ち捨てられ、誰にも足を止められることもなく、こんな風に生きて死ぬのかって。でも、君は」

「そうです。みんなそうです」

彼女は僕の言葉を遮って笑った。

晴れやかに笑って僕に呪いを残した。

「そうやって、みんな憐れに生きて死ぬんです」




旅行から帰って来た叔父に鍵を返し、僕は大学に戻った。

あいもかわらず、僕は笑っている。

大学では皮肉と羨望を、家では嘲笑を受けながら笑っている。

「秋陽くん! また論文褒められたんだって? すごいねー」

「ありがとう。宮下さんの論文も素敵だったよ」

当たり障りのない言葉を選んで笑う。

そうやってしか生きられないのだ。それならそれでいい。

ひとつだけ忘れなければいい。

『そうやって、みんな憐れに生きて死ぬんです』

彼女はあの時そう笑ってから、でも泣きそうにこうも言った。

『でも、私たちは可哀想なんかじゃない。あなたは私に恋しなかったけれど憐れみしか持たなかったけれど、それでも私は**を知れましたから』

もう、きっと二度と彼女には会わない。そして、会えない。

けれど彼女の存在は僕の血肉の中、確かに華を咲かせ続ける。




シュレディンガーの羊

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