青空硝子。
きらきらと切なく。
揺れる青色。
硝子玉の中。
弾ける泡と消えてく思い出。
巡る日常と最後の季節。
帰る君におわかれが言えない。
きらきら光る硝子玉に、するりと青い花の色が吸い込まれた。
海の色に染まった硝子玉を橘が太陽に翳す。それは光を透かして、橘の頬へ涙のように青く影を落とした。
「いつ見ても綺麗。やっぱり魔法みたい」
「進化しすぎた科学は魔法になんら遜色がない、ってやつだな? ……これで27個目だ」
掌の上で色を閉じ込めた硝子玉を転がして、橘がそう笑う。
夏風がさわりと頬を撫でた。
未来から来たんだ。
橘は私だけにそう打ち明けた。
そうなの。
私はそれだけの言葉を返した。
踊り場でへたり込んだままそう返した。
本当なら階段から転がり落ちて血まみれで転がっているはずの正しい未来をまるで馬鹿にしたみたいに橘はふわりとそこに浮いていた。
橘は夏休み前に転入してきた季節外れすぎる転校生だった。
関わるつもりなんてなかったのに、私が描きかけで放置していた絵が攫われた。
絵を奪われて、階段まで追いかけて、踊り場で口論になった。
そうして無理矢理に絵を奪い返せば、バランスを崩した橘がぐらりと後ろに傾いて。
無意識に伸ばした手が空を切った瞬間に、私は叫んだ。
さあっと血の気が引く音、ぶわりと鳥肌がたつ感覚。
「あ、」
けれど、張り詰めた糸は間の抜けた橘の声と共に切れた。
腰が抜けて、そのままへたり込む。
私の目に映るのは、重力に逆らって浮かぶ橘の姿。
一瞬で頭の中に展開された悲劇とはまったく違う景色にもう思考は放棄された。
呆然と見つめる私に橘はえーと、と困ったようにぎこちなく笑った。
「俺、未来から来たんだ」
「瑠衣」
こちらに放られた缶ジュースをキャッチする。
流れ作業でプルタブに指をかけようもして、顔を顰める。
「炭酸じゃないよね、これ」
「……確か」
頼りない返答にため息を零して、出来るだけ遠い位置でプルタブを開ける。
案の定、溢れ出る泡。
むっと橘を睨めば、悪い悪いと顔の前で手を合わせた。
橘はこの時代に塗料を集めに来たらしい。
文明の利器だとか宣った硝子玉の中に色を集めている。
だから、私は夏の綺麗だも思うものを橘に教えた。
突き抜ける空色、生き生きとした草木とその朝露、夏に咲く花の鮮やかさ。
橘はそれらの色を硝子玉に閉じ込めた。
ひとつふたつと硝子玉は増えていく。
いつの間にか私と橘は下の名前でお互いを呼び合っていた。
いろんなものを珍しがる橘と一緒にいると、不思議と時間は速く流れた。
気付けば一緒にいて、でもそんな日々も今日でおしまいだ。
「夏休み終わちゃった。…もう一ヶ月経ったんだね」
半分の量になってしまった炭酸水をこくり、と嚥下する。
ここ、旧校舎の屋上は鍵が壊れている。
私だけの秘密の場所だったけれど、なんだか独り占めするのももったいなくて橘に教えた。
橘が寝っ転がっていた身体を足を動かした反動で起こす。
「あぁ、もう満足だ」
炭酸の泡が喉の奥で弾ける。
蝉時雨が降る。
日差しと合わさって煩いくらいに夏を主張してくる。
橘は今日、未来に帰る。
私は炭酸水の残りを一気の飲み干して口を開く。
「クラスにさ、」
「うん?」
「みっちゃん、いるでしょ」
一瞬、きょとんとした橘がけらけらと笑い出す。
色素の薄い茶髪が明るく揺れる。
「あぁ、三つ編み眼鏡の体育会系ね」
「そう」
口の中の甘さはどこかべたつく。
セーラー服に意味もなく目を落とした。
「ここにくる前に会ったの。午後から始業式だけど、私たちみたいに午前に来てたみたいで」
からん、と傍らにおいてあった缶が風に倒されて転がっていく。
横を向けば、橘と目が合う。
たぶん見つめ返す瞳はもう私の次の言葉を知っている。
「橘のこと、覚えてなかったよ」
沈黙が落ちて、私は空を見上げる。
どこまでも青くて遠い空を見ていたら、いつの間にか言葉が口から滑り出していた。
「私の記憶も消すんだよね」
言葉にしてから、自分でも驚いた。
でも不思議と納得もしていた。
隣を見れば橘は少しも驚いていなくて、ただまっすぐと前だけ見ていた。
今までのすべてを懐かしむように橘の目が柔らかにその色を変える。
だから、私も穏やかになれた。
わざとらしく眉を寄せてみせる。
「私、ちゃんとわかってたんだよ?」
「瑠依なら怒ると思ってた」
「あぁ……なんだ。そっか。怒ればよかったのかぁ、私」
なんだが笑えてしまった。
怒るなんて選択肢がまず存在していなかった。
考えすらしなかった。
今日が最後だから、今日で消えてしまうから、だからこそ笑おうと思っていた。
だって、この夏をつまらない感情ひとつで壊したくなんてなかったから。
「橘はさ、もし記憶を消さないつもりなら私とこの夏を過ごさなかったよね。私の記憶を消すから、私にいろんなこと話してくれたんでしょ?」
尋ねる私と黙る橘に蝉時雨が降り注ぐ。
橘は優しいから決して頷かない。
「ちゃんとわかってる。でも、それでもよかったんだよ。忘れても、楽しかったから」
「そっか」
橘が静かに立ち上がる。
見上げれば、その横顔は微かに歪んだ。
つむられた瞼がまるで祈りのようでもあり懺悔にも似ていた。
橘は深く息を吸ってから、もう一度言った。
「そっか」
「そうだよ」
繰り返す橘に私は微笑む。
「魔法使いみたいには格好よく帰れないからさ。どうせなら目をつぶってて」
「どんな恥じらいよ」
笑いながらそれでも目を閉じた。
暗闇の広がる瞼の裏に思い出が流れて出していく。
それだけで今まで押し込めていた気持ちが揺れて、緩んだ。
泡が弾けるように、感情が押し寄せて無意識に息を止める。
本当は。
私の本心は、橘とまだ一緒にいたい。
本当はものわかりなんてよくないのは自分が一番よくわかっていた。
瞼の裏の闇は、たちまち私を不安の波に引きずり込む。
私が黙って橘も黙るから、闇ばかりが膨らんでいく。
もう橘はいないんじゃないかって。
今、私は独りで目をつぶっているんじゃないかって。
搾り出した声は頼りないほどに震えた。
「橘、まだいる……?」
「いるよ」
その返事に安堵して、けれどまた闇に捕われる。
橘はもう帰るのに、帰ってしまうのに。
いったい何に安心するの。
熱いものが喉までせりあがって、私は固く目をつぶる。
「早く行きなよ。いつまで目、つぶらせとくつもり?」
精一杯に軽口をたたく。
溢れそうな涙も、叫びたくなる衝動も、必死で押し込めた。
ふいに噛み締めた唇に何かが触れた。
世界が途端に音をなくして、鮮やかな夏の気配が遠くなる。
「自意識過剰の自負はないんだけどな」
何が、と問うことも出来ないまま、触れているのは橘の親指だと緩慢にそれだけ理解した。
心が他人事のように遠くて。
そんな私の様子に橘の声がすぐ近くで笑った。
頬に柔らかく触れた何か。
離れていく気配と落とされた小さな囁き。
そして風が吹いて、私は目を開けた。
視界を満たすのは眩しい日差しと、目が痛くなるほどの青。
君の、いない夏。
「ばか」
そう口にすれば涙が零れた。
ばか、ともう一度呟く。
「私は忘れちゃうんだから、どうせなら潔く奪ってきなさいよ」
たまらずに上向く。
青い空が綺麗で、夏がどこまでも煌めくから、こんなにも苦しくなるんだ。
シュレディンガーの羊