男性視点
二話完結。視点が転々。温度差注意。
「あの、すみません」
――雪乃じゃない、女の声。
自分の外見が異性を惹き付けるものだと、この29年の間に重々承知している。遊びと割り切った後腐れない女を、言い方は悪いがとっかえひっかえしてきたのは紛れもない事実だ。女に不自由した事なんてないし、初対面で身体を重ねるなんてザラにあった。そう、こんな風に、声を掛けられてそのままホテルに行ったことだって。
だがそれは、雪乃に出会うまでの話だ。雪乃と出会って、触れて、俺の世界は変わった。怠惰な虚無に充たされていた世界は、一気に色づいた。雪乃が俺の全て。雪乃が俺の唯一。そんな彼女は、今、全力で俺から逃げようとしている。ふざけるな。逃がすものか。やっと見付けた俺の世界。親が勝手に決めた婚約者と渋々会っていた時に偶然鉢合わせるなんて、一体何の悪戯だ。雪乃との事を認めてもらおうと、説得目的で会いに行った俺の事情なんか全く考えもしないんだろう、俺と婚約者を見て、目を見開き唇を噛みしめ、踵を返して走り去った、あの、思い込んだら頑固で一途で愛おしい、最愛は。こんな事で彼女を失うなんて、俺のプライドが許さない。1人で勘違いしてサヨナラなんて、真っ平ゴメンだ。追い掛けて、捕まえて、閉じ込めて、俺がどれ程雪乃を愛しているか、骨の髄まで刻み付けてやる。
「あの、聞いてます?だから、」
――ああ、煩わしい。
昔の俺なら、あっさり誘いにのって、その場限りの付き合いを楽しんだ。だが、今の俺は、雪乃がいればそれでいい。雪乃しか欲しくない。その彼女が、正に今俺の前から消えようとしていると言うのに、この女は、何故俺の邪魔をする?ああ、不愉快だ。心の底から、不愉快だ。
「――黙れ、失せろ」
ピタリと、何事かしきりに話し掛けていた女の声が止む。
そのまま一瞥もくれてやることなく、人混みに紛れて消えそうな、小さな背中を追い掛けた。
***
彼女との出会いは、1年前に遡る。
「初めまして、加賀芳弘と申します」
「三好雪乃です」
常日頃から何かと目を掛けてくれる、敬愛する上司の家に招待され、「うちの娘です」と紹介された時には、似てない親子だなと思いこそすれ、それ以上の感慨が湧く事はなかった。
厳しい顔の上司とは似ても似つかない、将来が楽しみな愛らしい彼女は、地元の公立高校の制服に身を包む、10以上離れた女子高生。特に何か抱けと言う方が無理な話だ。…話、だった。
何が原因だったのかは分からない。気付けば好きになっていた。
あどけない笑顔も、柔かな声音も、彼女を構成する1つ1つの要素を、余す事なく全て。「彼氏が出来たんだ」と、はにかんだ彼女をめちゃくちゃにしたくなった。にきびが目立つ、これと言って特徴のない男とのツーショットを、携帯の待ち受けにしてぼんやり見つめる彼女をぐちゃぐちゃにしたくなった。雪乃は俺のモノだ。俺だけのモノだ。ギラギラした目を隠す事無く曝け出し、下校途中の彼女を攫って自宅に連れ込んで、俺の愛を心身共に刻み付けた。震える彼女へ抱いたのは、歓び。無防備な姿を曝し、涙を浮かべて俺を見る彼女の姿は、きっちり携帯に保存してある。バックアップも完璧だ。引き伸ばした写真を壁に飾れば、翌日再び連れ込んだ雪乃は、呆然と立ち尽くしていた。次いで、「消して」と懇願された。何故そんな勿体ない事をしなければならないのだろう。心底分からなかったので、おそらく写真が気に入らないのだと当たりをつけた。勿論その日は素晴らしい雪乃を撮る事に苦心した。携帯のフォルダは既に容量を越え、壁も一面雪乃で埋まった。まだ学生の雪乃を連日連れ込む事は出来ないが、様々な雪乃が取り囲む自宅は、雪乃本人がいない日でも、俺の心身に安らぎと興奮を与える素晴らしい材料になってくれた。程なくして雪乃は彼氏と別れた。ああ、雪乃。雪乃雪乃雪乃雪乃雪乃。愛しい君が俺から離れる事など、決して出来ない。ご両親も納得済みだ。俺たちを阻む物は何もない。なのに、何故逃げる?嫉妬に駆られる雪乃も可愛いが、俺を前にして逃げを選択するのは頂けない。ほら、雪乃。雪乃が逃げても、俺はどこまでも追い掛ける。怯えたような顔で振り向くな。俺は別れたりなんかしないさ、安心しろ。俺はずっと、雪乃だけのモノだ。だから、雪乃もずっと、俺だけのモノだろ?ああ、雪乃――、
「捕まえた」
さぁ、閉じ込めて、たっぷり愛を注ぎ込んで、深く深く刻み込んでやろう。
なぁ、雪乃。
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「お前それ犯罪。分かってる?分かってるよな?」
「何を言っている。最終的に雪乃が俺を愛せばいい。そうなれば過程なんか気にする価値もないだろう」
「うわ、おま…」
涼しい顔でコーヒーを啜る友人に、掛ける言葉が見付からない。
世間一般で使われる、「可哀想で、」「同情して、」というニュアンスは、欠片も含まないのだが。
心情を一言で表せば、正に「絶句」。二の句が告げないとはこの事だろう。
手当たり次第女を食い物にしていた友人が、一途に1人を追い求めた。しかしその女性は18歳。オイこらアラサー。ロリコンかよ危ねぇよ。前半部分には安堵を、後半部分には微妙な気持ちを抱いていたが、友人の初恋を祝う気持ちが大きかった故に、積極的な応援はしないものの、温かく見守る体勢をとっていた過去の自分。そんな自分を殴りたい。まさか犯罪に走っていたとは全く思いもしなかった。今しがた語られた話は、際限なく引いた上に友人辞めていいレベルだ。いやガチで引いたわ。ねぇよお前。
「昨日籍を入れた」
「そうか…。御愁傷様…」
「馬鹿め。日本語もまともに使えないのか。こんなのが営業のトップとは、うちの会社も先が見えたな」
いや、オレの感想は間違ってないはずだ。少なくともお前の彼女…もとい、奥さんにとっては。
しかしこの犯罪者に正直に告げれば、オレ、ひいてはその“奥さん”にも被害がいきかねない。これでも営業トップ。空気を読むスキルには定評がある出来る男、それがオレ。
友人の隣に腰をおろし、オレの言葉に激しく首を縦に振って同意を示す“奥さん”に、憐れみを抱きつつも、友人の所行を警察に通報しようと思わないのは、奇しくも友人の言う通り、過程はどうあれ今目の前にいる“奥さん”は、それなりに友人を愛していて、合意の上で夫婦になったのだろうと、第三者のオレからでも、見て取れるからだろう。
話を聞く限り、友人は只のヤンデレロリコンストーカー性犯罪者だが、どうやって結婚までこぎつけたのか。奥さんが諦めたかほだされたかの二択だろうとオレは思う。そして間違ってないはずだ。オレが彼女にプロポーズする時は、なし崩しじゃなくて、しっかりお互いの意志を尊重しよう。いやでも彼女可愛いしな。断られたら立ち直れないなオレ。……あ。
「…っと、本題はそれじゃねぇ。ほら、これ」
「おい待て佐川。どうしてお前が俺の携帯を持っている」
「オレの彼女が昨日拾ったんだよ。つーかお前が『黙れ、失せろ』っつった女が俺のカワイー彼女だよ。話聞きながら何度か殴りたくなったからな。つか殴らせろや」
愚痴や悪口を滅多に言わない彼女から、珍しく「有り得ない有り得ない何あいつムカつくぅううう」と電話が掛かってきた時には何事かと思った。その後「雰囲気イケメンじゃなくて本物のイケメンで腰の位置からして日本人離れしててでもなんか慌ててたから眼光鋭くて怖かったけど頑張って勇気出して『落としましたよ』って言ったのにそれをあの男はぁあああ!あんなんより拓くんのが断然格好いい。会いたいよ拓くん今から家行っていい?」って言われたからむしろオレが会いに行って抱き締めたけどね。そこで見た見慣れた携帯にうわぁって思って一発殴るついでに携帯返しにきたんだけど、惚気と言うには流しがたい衝撃事実を耳にするってどうよ。そんな心の準備出来てなかったわ。
とりあえず、ベタベタと自分を触る夫に、顔を顰める奥さんの前途を祈りつつ、「何で殴られなきゃならないんだ」とかほざく友人を、殴り倒そうと思う。
一発で許してやるかボケェ。
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あ、着信。
バイブ音がシャツの布越しに伝わり、普段なら即座に開くのを、しかし悲しいかなこの状況でそれをするのは、なかなか非道な奴に思われるので自重する。最近「ああいう人間にはならないでおこう」としみじみ実感させてくれやがった野郎を知ったからか、最低行為に対する意識は、僕の中で格段に上がったのである。極端に言えば“いい人”になろうと思ったのだ。 ルックスが最高で、ブランド力もあって、僕の両親の言う、所謂“三高男”でも、中身が残念だったら意味がない。“残念な美形”というジャンルが存在する事も知っているが、犯罪者は許容範囲を大きく越えていると断言出来る。そいつが彼女(元)をかっ攫っていったという私怨を除いても、常識的に考えてアレは駄目だ。色々駄目だ。まだ彼女も気付いてなかった時から、薄々アイツへの仄かな想いを読み取る事が出来たから別れたけど、そうじゃなかった迷わず110番すべき通報物件だ。感受性豊かで良かった僕。運が悪かったと諦めて、次の恋に向かって頑張ろう。願わくば、隣の家のお姉さんとその彼氏さんの様な関係を築ける女の子希望。
「――ぅうっ、ひっく、ふぇっ、ひっく」
しまった。思考に没頭し過ぎて、目の前で泣く女性の存在をすっかり忘れていた。
バイト先から帰る途中に見つけた、道端に座り込み泣く女性。泣き声は控えめなのだが、ポーズは見事に男泣きだ。
“いい人”になろうと決意した手前、綺麗に施されていたのだろう化粧がすっかり剥がれ落ちてもワンワン泣くその人を、無視して通り過ぎる事が出来ず、女性の前に屈み込み、声を掛けた。
「僕で良ければ、話聞きますよ」
「っひっく、」
僕へ向けられた顔は、涙を目にいっぱい浮かべていても、元の綺麗さを損なう事はなく、服や近くに転がるバッグから、いいとこのお嬢さんだろうと見当がつき、下手したら面倒に巻き込まれるのは目に見えているにもかかわらず、迷わず声を掛けたのは、僕がたいていの事は難なくこなせるハイスペック体質であるのを自覚しているのと、もう1つ。
なんか彼女が泣いている原因に、あのクソ野郎の影が見えると、豊かな感受性を持つ僕の誇るべき第六感が、ひしひしと告げるからである。