苦悩
慶長十二年 閏四月十日 駿河国
護衛達を国許に帰した秀康は、借り受けた屋敷の居室で苦悩していた。
自分が家中に迎えた家臣達はみな期待した通り有能であり、主君である秀康を心から信じ、自分を支えて忠義を尽くしてくれた。
だが、秀康は家臣達の多くを欺き独断で事を進めて駿府まで来た。
全てを話した上で行動を起こすべきでは無かったかとも考えたが出来なかった。
毒殺の一件を知れば家臣が暴発する可能性があり、それを抑える時間が自分には残されていないことが分かっているからである。
また、自分の行動を家臣達に話せば、自分に毒を盛った家中いるであろう父の息のかかった者に動きを知られてしまう。奇襲のような形で駿府に赴く以外に、誰にも目的を知られることなく行動する方法がなかった。
家臣達は自分を信じて、忠義を尽くしてくれた。
だが、主君たる自分はその家臣を欺いた。最後に家臣の忠義を無碍にした。
本多冨正、吉田好寛、関根織部、吉田重氏の誰にも自分の目的を知らせていない。
彼らは主君の命に従い、ある者は行動を起こし、ある者は指示を受けて準備を進めている。全てを知るのは秀康のみである。
秀康は家臣達を信じ、家臣もまた主君を信じていた。秀康の家中は君臣の結束が固いがそれは秀康が家臣達に恩威をもって接し、家臣達もまた秀康が家臣達を大切にしていると思ったからである。
自分を信用せず、挙句の果てには邪魔なものを放り捨てるように毒による暗殺という手段をとった父に報いるために行動をおこしたが、自分も父と同様に家臣を信用できず全てを己の胸に秘めて行動した。
その行動は家臣達を欺いたことになる。その思いが秀康を苦しめ、苛んでいる。
(父上は儂を信用せず、毒殺する事で目ざわりな儂を葬り去り豊臣家を滅ぼすつもりであろう。儂だけではない。加藤殿や福島殿ら豊家恩顧の大名達にも父上の手が伸びているやもしれん。儂はその父に報いる為に駿府へ来た。だがそのために儂は家臣を欺いた。目的を達するために家臣達の忠義を利用した。儂は家臣の事を心の底から信じられなかった。父と同じではないのか)
秀康は一人苦悩している時、秀康の耳に本多冨正の声が聞こえた。
『遅くなり申し訳御座りませぬ』
呼びつけた本多冨正が声をかけてきた事で秀康は思案する事を止めた。
『気にするな。入るがよい』
秀康は冨正に駿府城に登城した時の事を尋ねた。
家康がどのように考えているかを知る為である。
そして、秀康から発せられた質問に対して冨正は淡々と返答した。
『冨正、お主から書状を受け取ったのは誰だ』
『本多正純殿に御座ります』
『書状を正純が受け取った後はどうした』
『大御所様から遠路大義であったと某に伝えよと申されたことを正純殿から伺った後、休息するように進められました』
『父上にお会いしたか』
『大御所様にはお目通りしておりませぬ。書状を託した後、四半刻ほど休息しておりましたが、お声がかからなかったので、城から下がりました』
秀康は自分が考えた通り、家康が書状の内容に隠された意図があると判断し、毒殺の件を隠すために一人で判断しようとしており、冨正を呼ばなかったと理解した。
『冨正、儂は明日父上にお会いする。お主も伴をせよ』
冨正は秀康の言葉を想定していたのか、何も言わず返答した。
『承知致しました』
冨正が退室した後、秀康は明日の父との対面について考えていた。
(登城して父上に会うのを許されるのは儂だけであろうな。冨正はいや儂以外の者は同席を許されまい。毒殺の件を気取られた事を確認しようとするのは間違いないであろう。儂と父上との勝負になる……)