居城
慶長十二年閏四月一日 越前国
越前国主である結城秀康は重い病に倒れ床に伏していた。
不寝番の小姓達が室外で厳重に警備している部屋の中で布団に横たわり、瞼を閉じて死を覚悟した秀康は静かに己の生涯を振り返っていた。
(儂は今年中に死ぬかもしれん……。このまま何も出来ずに死ぬか。無念な事よ。徳川家を守る為に自害した、いや父上に殺された兄上も儂と同じ様に口にはしなかったが無念を抱いて冥府に旅立ったのかもしれん)
秀康の兄であり徳川家の嫡男であった信康は、実父である徳川家康の命により二十歳の若さで自害し、この世を去った。
織田家・徳川家と敵対している武田家に内通して謀反を企てた事で信康の妻である徳姫の実父織田信長から信康の処断を命じられ、やむをえなく自害させたという話が世間に伝えられている。
しかし、秀康自身は兄が自害した理由が武田家への内通や謀反では無いと思っている。
岡崎城主の兄に従っていた家臣達と、浜松城主である父家康の家臣達の争いが余りに大きくなり過ぎて収拾出来ない状況になる恐れがあった為、家康が同盟相手の織田家の存在を利用し、織田家には逆らえないという名目によって家臣を納得させて兄を自害に追い込み、完全に家中を掌握したというのが真相ではないかと考えている。
血の繋がった兄であり、父に疎まれ不遇の生活を送っていた秀康に優しく接してくれた唯一の肉親である信康を秀康は忘れた事はなかった。
容貌が醜悪な魚に似ているという理由で於義伊と名付けられ、三歳になるまで一度も父に対面出来ない異母弟を不憫に思い、父の不興を買う事も辞さずに自分の為に動いてくれた兄が敵に内通して謀反を企てたとはどうしても思えなかった。
(亡き兄上だけは儂にとって心から信じる事の出来た家族だった。父上から疎まれ一度も対面出来ずにいた儂を不憫に思い、父上に会わせてくれた。儂のような厄介者にすら優しく接した兄上が、弱体化していた武田に内通し、徳川家をそして自分に従う多くの家臣達を裏切るなどあり得ん。あの件は父上が家中を纏める為に織田殿の名前と武威を利用して兄上を自害に追い込んだのが真実なのであろう)
兄が自害した事件のことを突然考えたのが不思議に思ったが、よくよく考えていると信康と同様に自分も死に追いやられつつある。
(健康が徐々に悪化し病気で死んだと思わせる為、日々の食事に毒を盛られたか……。毒見役が病んだとの話を聞いていない以上、毒見役を味方に引き込む事ができる地位にある家中の者が、毒を盛りながら状況を見守っておるな。だが、詮索する時間も意味もない。ここまで病んだ以上、儂は最早助からん)
医師の治療による回復が見込めない状態になってから毒殺されようとしている事に気がついたが、何故自分を暗殺する必要があるのか秀康には全く理解出来なった。
父家康から弟秀忠への将軍職の継承も無事終わり、家康の補佐を受けながら秀忠は二代将軍として職務に励んでいる。
徳川家に特別大きな問題は発生していない。秀康の結城家も幕府から特別な扱いを受けているが、実弟が将軍職を継承したのが理由だと考えている。
唯一の問題といえば摂津の豊臣家であるが、往年の勢威は見る影も無い状態になっており最早大した脅威ではないと思っていた。
だが、それは「結城秀康」という特別な存在を秀康自身が理解していない考えだった。
結城秀康という人物は徳川家にとっても、豊臣家にとっても無視出来ない力を有している人物である。越前六十万石という徳川一門で最大の領地を持ち、関が原で家が滅亡した者や旧北条家の優秀な人材も家中に多い。更に徳川家と豊臣家、両家の継承権を有している事が秀康を特殊な存在にさせている。
亡き豊臣秀吉の養子であり、豊臣家当主の豊臣秀頼の義兄に当たる人物でありながら現天下人である徳川家康の次男。将軍職を継承した弟秀忠はおろか父の家康すら一定の敬意を払わねばならない秀康の存在は徳川家の不安定要因だった。
秀康自身は天下人への野心は持っておらず、義弟の豊臣秀頼を懐柔し徳川家に従属させる事で徳川家による支配を安定させ、戦国時代が完全に終わればよいと考えていた。
それが自分にできる徳川家への奉公であり、弟秀忠の娘でもある千姫を救う方法であると考え、ゆっくりとではあるが徳川、豊臣両家に影響力を持つ自身が間に入る事で問題は解決出来ると思っていた。
だが、毒を盛られた事実はその認識が甘かった事を秀康に痛感させた。
(毒を盛った者は儂が豊臣家に味方する可能性があると思った者か。もし秀頼殿が頑なに徳川の天下を認めないのであれば、大坂を攻め落とし豊臣家を滅亡させねば徳川の手で安定した天下が揺らぎかねん。そして、儂が大坂攻めに反対すると厄介な事になると思ったのか)
豊臣秀吉の死後、石田三成を加藤清正を含む七名の武将が襲撃しようとしたが徳川家康が抑えた。そして、秀康は完全に武装した兵を率いて石田三成を護り三成の所領まで送ったことがあるが、それは父家康のから命令だった。
また、将軍職を三男の秀忠が継ぐ事が決まった際には父である家康へのせめてもの嫌味として、大坂を攻める者がいれば自分は兵を率いて大坂に入城すると周囲に語った事がある。
勿論、本心から語ったわけではない。父への嫌味であり、冗談を言ったとしか思っていない。父である家康も秀康が本心で言っているのではないと考えると思っている。
常識的に考えれば本拠の越前を空にして大坂に行くなど不可能である。戦国時代を生き抜いた者ならば領土の防衛を放棄にして戦争など不可能である事など誰も理解している。
(儂は秀頼殿の為に死ぬつもりは無い。太閤殿下から受けた恩は返した。殿下が身罷られた直後に起きた治部殿の襲撃事件、儂は治部殿を肥後殿達から守り佐和山まで護送した。それに冗談ではあるが、大坂攻めには反対だと一度だけ口にした。その時点で恩は全て返したのだ。だがそれを理解していない者が儂を狙ったか……。いや、全て理解した上で儂を狙ったと考えるべきか)
将軍の実兄である秀康を狙う以上、失敗すれば改易どころではなく一族が連座して切腹、あるいは処刑され族滅する危険性が高い。そう考えると余程の事がない限りは暗殺を試みる事は出来ないが、実際に毒を盛られて死に追いやられている。
そう思うと暗殺を仕掛けたのは秀康に対抗出来る実力と地位を持つ者が疑われる。
(秀忠ではあるまい。儂を暗殺しようとする理由が無いし、江戸城で何度も会ったが特におかしな素振りは無かった。他人を欺き通す芝居は出来ぬ真面目な奴だ。もし秀忠が命じたならば儂が秀忠と会った際に異変に気付いたはずだし、儂が謀反でもせぬ限り将軍といえども迂闊な真似は出来ぬ。そうなると秀忠と同等の力を持つ者……秀忠以外の弟が動いた可能性も否定できぬがいずれも幼い。傳役や付家老が独断で動く事は主君を巻き込む恐れがある以上考えられん。ならば暗殺を仕掛けたのはやはり父上しか考えられん。徳川一門で儂だけは信用出来ぬということか……)
秀康の健康が悪化し始めたのは家康から秀忠に征夷大将軍の地位が継承された頃だった。
遅行性の毒によって徐々に体が衰弱し、今では手の施しようがない状態になっている事が医術に詳しくない自分にすら理解できている。
つまり、秀康は家康から秀忠へ将軍職を引き渡し、徳川家の安泰を保つのに邪魔な存在と思われている事になる。
(儂は亡き兄上と同様に徳川家の安泰を脅かすと父上に思われたか。徳川家を守る為に儂は邪魔な存在なのか。儂は徳川家を守る為に木偶としての生涯を送った。武将として満足できる武功を立てる事も出来ず、父と太閤の指示で幾度も養子に出された。無用な波風を起こさぬ為に将軍職の地位すらも諦めた。その褒美が実父に毒殺される無様な最期を迎える事か)
秀康は自力では起き上がれない程に衰弱している全身に急速に「力」が漲ってゆく錯覚を覚えた。
触れられず、見えず、香りもしないものだが、秀康は自分の体を満たした「力」を理解した。
全てを失った者が唯一手に入れる事ができるもの。
失ったものが大切であるほど強さを増すもの。
「憎悪」
人が持つ感情で最も強く精神を支配するものである。
秀康は自身の精神が憎悪に染められてゆくのを強く感じながら自身の生涯の事を考えていた。
(儂の努力が足りなかったから死に際になって人生に満足おらぬのかもしれぬ。努力が不足していたことは否定せぬ。だが、父上は幼い儂を蔑ろにし、家族として優しく接してくれた兄上を奪い、人質として太閤に差し出した事で武将としての満足出来る活躍の機会すらも奪った。その上、儂に徳川家の為に犠牲になれというのか……。もし父上がそう思っているならば儂の手で父を討ち、冥府の兄上の元に送ってからでなければ徳川家の為に死ぬなど納得出来ぬわ)
自力では起き上がれないほど衰弱した体を憎悪が満たしてゆくが、微かに残っている理性が全身に満ちた憎悪を鎮めようと働きだし、かろうじて落ち着きを取り戻した。
憎悪によって開いた瞼を閉じて眠気に身をまかせようとした時、秀康は目を見開いた。
『どうするのだ』
室外は不寝番の小姓が厳重に警戒しており、寝ている自分以外は誰も部屋に居ないことが分かっているのに自分の耳元から小さい声が聞こえたからだ。
忍びかと思い、首と目を動かして天井や周囲を見たが部屋には誰もおらず、特に不審な気配も感じない。
気のせいだと思い、再び瞼を閉じようとした時に耳元からはっきりと声が聞こえた。
『それが出来るならどうする?』
『お主にその覚悟があるのか?』
『無様な最期を遂げてでも家康に復讐したいか?』
『お主に全てを失う覚悟があるならば、力を貸してもよい』