08_緋色の女帝と海への憧憬
父・アステルの跡を継いで立派な医者になることを当面の目標としているジェラールは、日によっては父の診察に同行して実学に励むこともあるが、大半の時間はマレノスタリアの首都であるデルマリスの大学――通称『帝国大学』で講義を受けていることが多かった。それも座学にしろ実学にしろ競技としての武術にしろ、とにかくいちばん前の席で熱心にノートを取ったり教師に質問したりと、まさしく学生の鑑のような学生だった。要するに真面目で熱心で、少々人付き合いが苦手なところを除けば完璧過ぎるほどに完璧な人間なのだ。
――但し、人間というものは誰しも必ず欠点というものがあるわけで。ジェラールの場合は、特にそれが顕著だった。具体的には彼を完璧から遠ざけている唯一の欠点たる人付き合いに対する苦手意識がどうにも滲み出ているが故に、成績優秀かつ品行方正にも関わらず、常にジェラールの周囲に人の姿はなかった。
けれどジェラールもそれを寂しく感じる心は確かにあるものの、それでいいと思っているのだ。正しくは諦めているのだ。何故ならばジェラール・アルスヴィズという男はどんなに頑張ったところで周囲の人々を楽しませたり驚かせたりといった芸当の出来る人間ではないということを、たった20年弱の人生で嫌という程経験してきた彼は、それは自分の役目ではないと悟ってしまったのだ。
ジェラールは思う。自分の役目はただ教室の隅で次の授業の教科書を読み込んだり、はたまた今デルマリスで話題になっている本に目を通したり、もしくは落第寸前なんだと泣きついてきたクラスメイト――最初は友達だったが、あまりにも自分が口下手すぎるが故に気が付けば元友達にまで成り下がっていた――に、ノートを貸してやる程度の、居ても居なくてもたいして変わらない存在なのだと。
無論、このままで良いわけがないと焦る心は、確かにある。けれどそれ以上にそれでもいい、とも思うのだ。何しろ人間、変わるということは非常に難しい。特に20年近くこの性格で生きてきてしまった以上、今更変わりたいと願ったところで変わらない、否、変われないと、ジェラールはある種年不相応の悟りを開いてすらいた。それに、かつて手っ取り早く変わるために選んだ手段――貴族の子女が市政に、この国を背負っていく覚悟――所謂ノブレス・オブリージュを示すために参加する魔物の討伐で、何度思い出しても思わず死んでしまった方がましだったかもしれないなと苦笑しては落ち込んでしまうくらいに役に立たなかった我が身を振り返れば、自ずと答え――自分はこのまま、ひっそりと生きていくのがいい。否、そうするに他ならないという当然の回帰が決まって出てくるのだ。
――故に、ジェラールは今日も教室の隅で本を読む。但し今日読んでいる本は医学書でもなければ次の授業の教科書や最近の世界情勢を纏めた情報書でもなく、今のところ何故か唯一交友関係が続いている不思議な『友達』関する本――世界各地に伝わる人魚についての伝承やその生態、過去に人間が犯した罪などが記された――だった。
というのも、ジェラールはトルテに人魚という生き物の生活様式や価値観、社会の仕組みなどを尋ねる前に、まずは自分から御伽噺のような美しく脚色された人魚ではなく、現実としてそこに存在する人魚について学ぼうと決めたからだった。それはジェラールなりのトルテへの敬意と親愛だった。というのも、ジェラールは自分のことをたいして面白い話が出来るわけでもなければ気遣いが出来るわけでもない、社会に雁字搦めにされたこの上なくつまらない男だと思っている。一方でトルテは思うがままに大海原を泳いでは何処までも行くことの出来る、何者にも縛られない、まさしく自由な存在だと思っているのだ。つまりは、自分と彼女は対等に見せかけて対等ではない――無論自分の方が下だと思っているのだ。故に下の者として出来ること、即ち彼女の種族である人魚という存在について学び、理解を深め、敬うことこそが、その『つまらない男』に出来る、彼女への精一杯の感謝の気持ちだと信じてやまないのだ。
だからこそジェラールは授業の合間と合間、熱心に教室の隅で人魚について書かれた本を何冊も読み漁る。授業の合間の休み時間のみならず昼までも決まって人のいない中庭の端、どうしても庭師の手入れが後手に回る場所故にいつも草が生い茂ってはそれを食料にしよつと虫が集まる木陰のベンチ――女子生徒のみならず男子生徒までもが避けるそこで、アルスヴィズ家の料理人が作ってくれたシンプルなサンドウィッチを片手に人魚についての知識を含める。
そんな折、ジェラールが成人男性にしては量の少ないランチバッグに詰められたサンドウィッチを、半分ほど口にし終えたところだった。不意にやや背丈を伸ばしている草が揺れ、人の形の影が伸びる。ジェラールはまた教師の誰かが「お昼くらい食堂で皆と食べたらどうだ」と小言を言いに来たのかとげんなりすると、さっさと右から左へ受け流して終わらせてしまおうと顔を上げる。けれど予想に反してそこに居たのは教師ではなく、昔馴染みかつ元友達である、月光のような美しい銀の長髪を風に靡かせながら此方を見下ろす良家の子女――フレオニール・フレスベルグだった。
彼女はジェラールを時に氷の女王だとか緋色の女帝だとかと陰で揶揄されているだけある、その鋭い古代紫色の瞳で見下ろすとフンと鼻を鳴らす。それから相変わらず少食というかがっついていないというか、とにかく成人男性の食す量とは思えない容量のランチバッグと、肉すら入っていない野菜と果物中心の、まるで美容を気にしている文官や神官の娘が口にするような食事に眉を顰める。次いで緋色の女帝の2つ名の由来たる、その鮮烈な赤のマントを靡かせると至極冷たい声でジェラールに話し掛けた。
「次の魔物の討伐の話なのだけれど、勿論ジェラール公は欠席で構いませんね?」
「………………うん。そうして貰えると助かるな。」
「では、後ほど使いの者を通して支援金の要請書類を渡しますので。後はいつものように頼みます。」
「――分かったよ。ありがとう、フレオニール公。」
ジェラールは自分とはまた違った意味で浮いている彼女――戦場で無念の死を遂げた兄の名を継ぎ自ら男装に身を包み、女としての自身を律するほどに自他共に厳しいフレオニール・フレスベルグという女性が、わざわざ昼の食事の時間を割いてまで話しかけて来た理由と、案の定不参加だという事実に表情を曇らせる様に曖昧に笑ってから礼を述べる。それから両親を通じて彼女がフレオニールと名乗る前――まだただの少女だった頃のフレア・フレスベルグをふと思い出しては、幼馴染であるにも関わらず皆に一目置かれる彼女と自分、一体何がそこまで違うんだろうと苦笑した。ついでにそのままの思考で、昔……本当のフレオニールが亡くなる前はもっと表情豊かで何処にでも居る女の子だったのになと、つい昔を懐かしんでは遠い目をした。
――本当に、彼女と自分と。貴族社会における地位はそこまで変わらないはずなのに、一体どこでこんなにも差が出来てしまったのだろう。ジェラールは開いたままの本のページをゆっくりと撫でつつ久しぶりの他人、それも幼馴染で淡い初恋の相手でもあったフレオニールに「せっかくなら、隣、どう?」と勇気を出して問い掛けてみる。が、フレオニールはそれをフンと鼻で笑って一蹴した後に、風に靡くその長い銀の髪を軽く整えながら「結構。」と必要最低限の言葉で拒絶した。それから相変わらず本ばかり読んでいるジェラールを冷たく見下ろした後、ぽつりと呟いた。
「――――別に、貴方のためじゃないわ。」
「…………え……?」
「全ては帝国と皇帝陛下、そして国民の安全と安寧と更なる明るい未来ため。
……貴方だから声を掛けたわけじゃない。貴方だからこう告げたわけじゃない。精々自惚れないことね。」
不意に吐かれた冷たいどころか、感覚さえもなくなるほどに絶対零度の温度を放つ言葉に、ジェラールは流石に言葉を失う。それから顔を俯かせると、開いたままのページの上に置いていた手のひらをぐっと握り締めては拳を作った。が、ほんの数秒でそれを解くと、ゆっくりと顔を上げる。それからやはり、へらりと曖昧な笑みを浮かべては傷付いた心を誤魔化すかのように口を開く。
「……そ、っか。………そうだよね、……ごめん…。」
「分かっているなら結構よ。」
――それは、酷く緩慢な動作だった。どうであれ終わった初恋とはいえ、腐れ縁の幼馴染とはいえ、今も強く優雅で気高い彼女に憧れている身としては、いっそ意気地無しと口汚く感情のままに罵られた方が余程楽だったなと思わず自嘲する程度には、ショックだった。とはいえここであからさまに感情を顔になど出そうものなら、フレオニールから貴族に相応しい立ち振る舞いではないと更に呆れられると共に厳しい言葉と視線を向けられるのとは火を見るよりも明らかだったから、ジェラールは精一杯の笑顔で胸にずしりとのしかかる悲しみを上書きする。やっとの思いで、自分を誤魔化す。すると僅かに瞳に落胆なのか悲哀なのか失望なのかはさておき、やや寂しげな色こそ宿っているものの貴族としては及第点なジェラールの表情と態度にフレオニールはもう一度フンと鼻を鳴らすと踵を返した。
ヒールの音さえも響かない、あまり手入れのされていない芝生の上で彼女はジェラールに背を向ける。黒と赤のマントを翻して、話は終わったとばかりに無言で1歩進む。けれどその最中、不意に彼女はその肩越しにジェラールを見遣るとやはり極寒の地のような、到底人間では冷たいと知覚出来ないほどの温度を放つ言葉を幼馴染の彼に向けて放った。
「――――貴方はそうやって、本でも読んでいればいいのよ。」
「…………………………そうだね。戦場に立つのは君とオライオンに任せることにするよ。」
ジェラールは肩越しに放たれた言葉に対して、咄嗟に何も言えなかった。それどころかただ淡々と突きつけられた事実にグリグリと傷を抉られた上に、丁寧に塩を塗り込むような嫌味に思わず再び俯くと唇を噛んだ。けれどそれは時間にしてほんの一瞬のことで、すぐに顔を上げると先程までと同じ曖昧な笑みを貼り付ける。そうやって貴族としての『ジェラール・アルスヴィズ』の仮面を被ると、子供の頃からの付き合いのもうひとりの幼馴染――どうにも血の気が多くて堪らない、軍人上がりの貴族である彼の名前を引き合いに出しては精一杯に強がった。
フレオニールはそんなジェラールの言葉に振り返ることなく、荒れ放題の中庭の端からきちんと整備された石畳の道――陽の当たる、まさしく華やかで優雅で一寸の隙もない、彼女という作品を飾るに相応しい場所に出るとコツコツとブーツの音を響かせながら遠ざかっていく。ジェラールはその音を聞きながら改めて突きつけられた自身の不甲斐なさに思わず痛みを忘れるほどに再度唇を噛み締めた。そして昨日会ったばかりにも関わらず何故だか漠然かつ無性にトルテに会いたくなると、どうしようもない自分の弱さに嫌味なほど晴れている空を仰いだ。




