06_砂浜と春の嵐(1)
結局母・ルビーに散々揶揄われた後に、帰宅した父・アステルにも揶揄われた――というよりかは「……ほぉ…。」と感心したような、はたまた隅に置けないなと言いたげな、それでいて流石は私の息子だと言いたげなひとことに、ジェラールはいっそうのことルビーのように思い切り反応してくれた方が救われたなとガックリと肩を落とした。それから尚もニヤニヤとしているルビーに腹を括ると、覚悟を決めてペンダントを着けっぱなしにすることを選んだ。何よりもジェラール自体、漸く出来た幾らかは心を許せる存在から貰ったプレゼントに、心踊っていた。それもどうであれ可愛らしい女の子――種族は少し違うけれど、自分と似通ったところのある――から貰ったという付加価値に、大いに浮かれていた。そうして浮かれた気持ちのまま、まさしく言葉通りこの一週間寝食を共にすると同時にお返しの品を買いにも出掛けたのだから、自分でも相当だなと苦笑してしまった。
そうやってお返しの品――悩みに悩んだ末、どうしても決めきれずに結局はふたつ選んでしまった――を手に、ジェラールはいつもの海岸線へ向かう。ジェラールはひとつの品に対してお返しがふたつもあったら彼女はビックリしてしまうだろうか、と考えながらデルマリス港と、出港と受け入れの準備に忙しない船乗りたちを尻目に脇道へ逸れる。そうしてマレノスタリアの中心街、デルマリスの街に住まう人々さえもあまり訪れない、ふたりだけの秘密の場所へとすっかり慣れた様子で足を運んだ。
「こんにちは。トルテ、居るかい?」
「――――ええ、ええ!こんにちは、ジェラール!!」
「うん、こんにちは。……ごめん、待った?」
「いいえ、ついさっき来たばかりよ。大丈夫、謝らないで?」
北風が強く吹き付けるためにいつもゴミが流れ着いている此処は、真夏でもひんやりとしているがために地元民は言わずもがな海水浴の客さえも全く寄り付かない、まさしく逢瀬のためにあるような場所だった。色に例えるならば、このマレノスタリアの海よろしく何処か濁った冷たい色をしていた。けれどそんな世界の端っこの更に端、ついうっかり海神リヴァイアサンが居眠りしながら泳いで激突して大きく海岸の形が変わっても誰も気が付かないような、そんな寂れた場所でも彼女の名前を呼べば、それだけで常夏の海の真ん中で遊泳しているかのような熱がぽうっと灯るのを、ジェラールは既に知っていた。故になんの躊躇もなく、迷いない真っ直ぐな声でいつもの待ち合わせ場所の大岩の陰あたりに向けて声を発すれば、陽の光も当たらない暗色の岩場からひょこりと。常夏の楽園の海の色をしたトルテが顔を覗かせた。そして嬉しそうに此方へ向けて近寄ってくるものだから、ジェラールは世界の隅を照らす炎が自分の胸にも灯ったのを感じた。
とはいえ此方へ泳いでくるトルテに対して、ジェラールは少しだけ眉を顰める。というのも医者の卵としてリスク管理についても学んでいる彼は、何事も慣れた頃がいちばん危ないと知っているからだった。特に滅多に人が寄り付かないとはいえ、この海岸線においてはいつもの大岩の陰――具体的には大岩とテトラポットの陰だが――以上に、死角らしい死角の場所はない。けれどそれを声に出したところで聞くようなタイプの子じゃないしなあ…とジェラールは苦笑する。それから悩みに悩んだお返しの品が早速役立ちそうなことにほんの少しだけ胸を踊らせる。が、当初よりも随分大胆に尾びれを外気に晒すトルテに、流石にこれは看破出来ないなと肩を竦めると苦言を呈した。
「……信用してくれるのは嬉しいけどさ。誰に見られてるか分からないよ?少し不用心だ。」
「大丈夫よ。もうずうっとこの海岸に遊びに来ているけれど、わたしを見つけたのはあなたが初めて!」
「それは海の中か、精々いつもの大岩の陰に居たから……だろう?砂浜でこんなに大胆に尾びれを出していたら、瞬きしている間に捕まる。もっと警戒心を――。」
「もう、ママや叔母さんみたいな小言は言わないで?」
ジェラールはここまで仲良くなった相手が万が一、その警戒心の緩みから人間に捕まるようなことがあればおそらく彼女は心に深い傷を負うだろうし、自分だって悔やんでも悔やみきれないだろうなと考えたが故にトルテに注意をする。それは親切心であると同時に、どうしてかは分からないものの彼女を失うことを誰よりも何よりもジェラール自身が酷く恐れている証左でもあった。が、それを言われた本人は既に身内に同じようなことを言われているらしく、ジェラールの言葉に耳を貸すどころかその両手で耳を覆うとわざとらしく「あ〜、あ〜、聞こえない〜!!」と騒ぎ立てるものだから、彼は心底呆れてしまった。と共に、この上なくトルテらしい振る舞いに安心している自分に気がつくと、心の中で(僕は馬鹿か。)と毒づく。それから呆れからくる苦笑を隠すことなく吐露すると、右手に下げている紙袋の中からまずはひとつめのお返しを取り出すと、トルテの前に突き出した。
「?なあに、これ。どうしたの?」
「ペンダントのお返し。――落し物じゃないけど、受けとってくれる?」
トルテは尚も先週の出来事を掘り返してくるジェラールに、再び「もう!」と拗ねたような声を上げる。けれどその声とは反対に顔には満面の笑みを貼り付けると、自身が彼に渡したプレゼントのそれはそれは酷いラッピングとは比べ物にならないくらいに美しい包装――大きな紙製の箱と、それをシワひとつないままに包み込んでいる完璧な包装紙、それと中心で十字を描くように結ばれた光沢のあるリボン――に、思わず礼を述べるのも忘れて半ば夢心地のままに受け取った。次いで人生の中で最も豪華だと決めつけても全くおかしくない、そのラッピングを緊張から震える手でぎこちなく解いていった。
まずは真っ赤なリボンをしゅるりと解いては砂浜に落とす。続けてただの包装紙にしておくには勿体ないほどに上等な紙で出来ているそれにシワをつけないように、同時に破ってしまわないように、おそるおそる丁寧に外していく。最後にこれまた上質な紙で作られている紙の箱の蓋をそうっと取り払うと、トルテの眼前には彼女が上半身に身につけている赤いビキニとお揃いの色をした、シンプルなブランケットが入っていた。それもただのブランケットではなく、自身の名前が端に刺繍されていることに気がつくと、トルテは今までの緩慢且つ丁寧な動作とは反対に、勢いよくブランケットを掴むとその場で広げる。そして手のひらに吸い付くような手触りと、常に海水に濡れている人魚の自分が触れても少しも濡れない素材――おそらくはかなり高級な糸や布が使われているのだろう――に、目を輝かせた。
「ジェラール、これ……。」
「――ほら。こうやって下半身に被せれば、パッと見人魚には見えないかなあって。」
ジェラールはキラキラと輝くトルテの瞳を、やっぱりまだ直視は出来ない。けれどこの贈り物の意味を汲み取って欲しい一心でなんとか逃げ出そうとする弱気な心をぐっと堪えると、その目を見つめる代わりにブランケットを掴んで離さない小さな手に触れた。そして誘導するような形で、あくまでも彼女自身の手でその真っ赤なブランケットを砂浜の上に無造作に投げ出している尾びれの上に被せてやると、自分の本当に彼女の身を案じている、心配で心配で堪らないと考えているこの気持ちの一欠片でも伝わればいいけれど、と眉を下げた。
そんな不安そうなジェラールとは反対に、トルテは自身の下半身をすっぽりと覆い尽くすブランケットに暫し言葉を失う。どうにも慣れない下半身に触れている布の感覚と、言葉だけじゃないジェラールの誠実さ――どうしてこんなにも自分に自信がないのかと逆に疑問に思うくらいに誰よりも人の気持ちに敏感な彼の育ちの良さだとか、環境ももちろんだが、おそらくは生まれ持っての善性だとかに、どうしようもなく心が揺さぶられるのを感じると思わず口元を歪めた。そして頭の中と胸の奥に芽生えた彼への深い感謝といっそう信頼する気持ち、それから叔母の言う『良い人間』と友達になれたことへの歓喜に任せて、眼前のジェラールに抱き着く。下半身は尾びれ故に陸では融通が効かないことは承知の上で、トルテは上半身のみにはなるものの力いっぱいに彼に抱き着くと身体を寄せる。そして惜しむことなく賛美の言葉を口にすると、興奮のままに頬を赤らめながら至近でジェラールを見つめる。
「――――ありがとう!あなたって本当にほんっとうに、いい人なのね!もう大好き!!」
「……そ、そう……かな…?――そんなことないと思うけど…。」
「わたしにとっては凄くいい人よ!よく叔母さんが話してくれる、叔母さんのことを助けてくれた人間の女の子と同じくらいにいい人だと思うわ!!」
「そ、そっか。なら良かった…のかな?」
「そうよ、良かったのよ!――ほら、前にわたしに言ってくれたでしょう?自分を許して、認めてあげて?」
ジェラールは生まれて初めて両親以外の他人に抱き締められているという緊張と恥ずかしさとにドクドクと脈打っては五月蝿い心臓と、そんなことを知る由もなくただただ素直にその胸の内の喜びをぶつけてくるトルテに、頼むから勘弁してくれと頭の中で必死に呼び掛ける。けれど同時にいざ離れられたら寂しいかもしれないとも感じると、思わず否定の言葉と共に首を横に振った。僕は何を考えているんだと、ほんの少しの軽蔑に眉を顰めた。だというのに既に覚えてすら居ない、以前に自分が彼女に告げたという言葉がその何倍にもなって情熱的な抱擁と共に返ってくると、込み上げてくる自己肯定感にどうしようもなく頬が緩むのを感じた。
というのも、トルテが伝えてくれた言葉は、感情は、普段街で遊び相手をしてやっている市井の子供たちが伝えてくれる感謝や親しみの言葉とはまた違うものだった。具体的には彼女が与えてくれた言葉は、感情は、自己肯定感は、普段の『自分』を全く知らない、外の世界に居る誰かからの純然たる賛美故に、酷く甘美かつ中毒性のある言葉として彼の胸の奥に深く根付いたのだ。――要するに、ジェラールにとっては貴族としての自分でもなければ優秀な両親の草葉の陰に隠れている自分でもない、本当の意味での『ただの自分』を褒め称え、認め、好いてくれている、ただひとつの真実に思えたのだ。それゆえ、そのひとことは彼がどうしようもないほどにトルテに夢中になるのには、充分すぎるくらいの理由だった。
「……だ、駄目だってば。そんな直ぐに大好きとか、いい人とか……。僕が本当に悪い人だったら君、どうするんだよ…。」
「大丈夫よ。そうやって吃りながら口答えするのが何よりの証拠!……でしょ?」
「…………はぁ……。」
ジェラールは全く響いていない様子のトルテに呆れた声を漏らす。それから確かに彼女の言うことも何よりだなと考えを改めた後に、全く離れる様子のない肩をそうっと押しながら「……あの。そろそろ離れて欲しいんですけど…。」とおそるおそる口にした。トルテは人魚間におけるコミュニケーションのひとつをやんわりと拒絶されると、これが文化の違いかと首を傾げる。それからジェラールしか人間を知らないが故に、それが標準だと思い込むとくすくすと笑いながら身体を離すと悪戯っ子のような笑みと共にウインクをひとつ。次いで詰めればもうひとりくらいは入れそうなほどに大きなブランケットの裾を持ち上げると、今度は無邪気な子供のような笑顔で告げた。
「ほら、どうせなら一緒に入りましょ?わたしはともかく、あなたはまだ寒いでしょう?また風邪でも引いたら大変だわ。」
「――――――――――。」
ジェラールは暫し逡巡した後、トルテの隣に座る。そうしてピタリと肩と肩とが触れ合うくらいの距離で、大人ふたりが入るには少々小さいブランケットをふたりで分け合う。ジェラールはまだもうひとつ渡したいものがあるのに、これじゃあ心臓が持たないなと苦笑しながらも春とは思えないほどに冷たい北からの風に、すっかり冷えた両手をブランケットの中に入れると鼻を啜る。本命はトルテの尾びれを隠すためにプレゼントしたブランケットなだけに、彼女よりも高身長なジェラールは甘足先が波打ち際のさざ波に濡れることを甘んじて受け入れることにした。が、これじゃあ温まっているのかいないのかよく分からないなと苦笑する彼の首元では、春の柔らかな光を反射したスタールビーのペンダントトップがキラリと輝きつつ、不意に訪れた穏やかながらも激しい春の嵐に吹かれていた。




