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04_清廉のぺトリコール


 時が経つのは早いもので、トルテの思わぬ行動によりジェラールが海に落ちてから1週間が経った。その間、春先の冷たい海に背中から落ちていったジェラールはものの見事に風邪を引いて寝込んだし、そんな息子を看病する母・ルビーは一体何をどうしたら海に落ちるんだと苦笑した。けれどルビーは敢えてジェラールが海に落ちるまでの経緯を聞きはしなかった。

 というのも、基本的にルビーはジェラールのことを信用している。何よりも誠実で穏やかで物静かな息子は、若干気弱で臆病なところに目を瞑ればまさしく若い時の夫・アステルに瓜二つなのだ。つまりは、心の底から胸を張って善人だと世界に主張出来る人物なのだ。故にルビーはそんな息子のことだから、大方海に落ちていたゴミでも取ろうと腕を伸ばしてバランスを崩したのだろうと自己完結すると敢えて仔細を聞こうとはしなかった。代わりにアステルが調合した薬草がたっぷり入ったスープと水とを用意して、寝込んでいる息子の枕元に置いておいた。それから数時間置きにそっとジェラールの部屋に入ってはスープや水を飲んだ確認しつつ、身体の奥から込み上げてくる熱を逃がそうと自然と乱れた掛け布団を直してやる。

 ――そうやってとっくに成人した息子を過干渉にならない程度に看病してくれたおかげか。はたまた父親が調合してくれた薬草のおかげだろうか。それとも、実に数年ぶりに思い切り熱を出した成果なのだろうか。ともかくジェラールは3日も経たずに熱を下げた後、念の為にと大学を休んで大人しく部屋に篭もることで風邪を完治させると、次の月曜日の正午にはもうすっかり健康体になっていた。もとい、月曜に間に合うように調整した。


「――――良かった。来てくれたのね……!」

「どうして?約束したじゃないか。」


 故にジェラールは、海岸に足を運んだ。そして約束の場所――あの大岩の陰を覗き込んだ。するとそこには既にトルテが待っていて、ジェラールの顔を見るなり嬉しさと申し訳なさとが同居しているような顔をしながら寄ってきた。ジェラールはそんなトルテに目をぱちぱちと瞬かせた後に、さも当然のように告げた。

 その言葉を聞いたトルテはバツの悪そうな、居心地の悪そうな顔と共に視線を横へ逸らす。そして打ち寄せては引いていく波をその身体で受けながら、わざとではないといえジェラールを酷い目に遭わせてしまった罪悪感を誤魔化すように、指先で長い髪の先を摘んではくるくると小さく円を描くように動かした。そうして言葉にならない声を漏らしつつ唸りながら2度、3度と毛先を弄んだ後に、トルテは心底気まずそうにちらりとジェラールへ視線を向ける。ライムグリーンの瞳が、ジェラールを見上げた。


「でもわたし、わざとじゃないとはいえあなたに酷いことをしてしまったし…。怒ってもう来てくれないかと思ったのよ。」


 ジェラールは自身を見上げる黄緑色の瞳と罪の告解にも似たその言葉に、目を丸くする。それからトパーズのような鮮明な黄色が強い黄緑色の瞳を思わず見つめ返すと、普段の彼が抱えている気恥しさや照れくささなどという感情も忘れてまじまじとトルテの表情を見遣った。そうやって初めて真正面から見遣ったトルテは本当に後悔している顔――まるで母親や教師にガツンと怒られた子供のような――をしていたものだから、ジェラールは暫し言葉を失った。

 それからジェラールの気持ちを想像しては不安に押し潰されそうになっているトルテに、この一週間彼女がどんな気持ちだったのかを咄嗟に想像してしまうとほのかに胸を痛めた。ジェラールは反射的に胸のあたりを右手でギュッと押さえると、思考と感情を落ち着かせようと何度かゆっくりと深呼吸をしてから今度は滑り落ちないようにと気をつけながら岩場の上で前かがみになる。次いでやっぱり怒っているんじゃないかだとか、あるいは早々に嫌われてしまったのかもしれないと不安に瞳を揺らすトルテへと手を伸ばすと、街の子供たちにそうするように彼女の頭を軽くぽんと撫でた。そして大人に怒られて心底気落ちしている子供を励ます時のようにトルテの目をまっすぐに見つめると、柔らかな笑みを浮かべながら口を開いた。


「大丈夫、怒ってないよ。」

「でも……。」


 トルテは頭を撫でられると、つい俯く。そして視線を落としては、子供のようにしゅんと項垂れる。ジェラールはますますその様子が街の子供たち――いつも勉強の合間、気分転換も兼ねて力いっぱい元気いっぱいの彼らと遊んでやっているうちに、どんどんヒートアップしてくる子供たちが繰り出す蛮行としか言いようのない行為と、それを見た彼らの親が顔を真っ赤にしては我が子を叱ったり、逆に真っ青になりながらジェラールに頭を下げる様と、親にガッツリと叱られて涙目になっている子供たちとを思い出してしまう。故にジェラールは眼前のトルテを見つめながら似ているなあ、と少しだけ口元を緩めて笑った。

 それから悪気がないとはいえ自分の行動を深く反省して俯く様と、赤くなったり青くなったりしながら言葉を探す様とに、トルテという人魚はちょうど自分と同じく大人と子供の間を行ったり来たりしている時期なんだなと察すると、どうにも親近感が湧いてきた。というのも、今までジェラールの友達だった同級生たちは皆貴族の子というのもあり、小さな頃からしっかりとしていた。いつも背筋をピンと伸ばし、言葉を正しく使い、家名に恥じないようにと神経を張り詰めていた。常に隙がなく、挑戦的で、上昇志向があり、かつ好戦的だった。同じ貴族の子ではあるものの、どこかのんびりとした穏やかな性格のジェラールとは何もかもが噛み合わなかった。だからこそジェラールは彼らのように一見反対に見えつつも、自分と似たような本質を持つトルテ――要はまだ生き物として完成された思考を持ち合わせていない、子供らしさと大人らしさとを持ち合わせる彼女に強く惹かれてしまうと共に、安堵感を覚えた。次いで常に子供らしからぬ大人な振る舞いをする同級生と自分とを比べて気落ちしていた心だとか、張り詰めていた緊張だとかが一気に解けては溶け落ちるのを感じると、素の自分――プライベートな場で家族や子供たちに見せる、相変わらず口下手ではあるものの吃ることなくすんなりと言葉を紡げる『ただのジェラール』がひょっこりと顔を覗かせる。そして『ただのジェラール』は、公の場での自分と同じように緊張や不安に押し潰されそうになっているトルテへ手を伸ばすと、穏やかな笑みを浮かべながら口を開いた。そうして紡ぐ言葉は、饒舌だった。

 

「確かに風邪は引いたよ。寝込んだりもした。でも、君がわざとじゃないってことくらい、ちゃんと分かってる。だから大丈夫。僕は怒ってないよ。何にも気にしていない。だから――自分のこと、許してあげよう?」

「…………ジェラール……。」


 トルテはすらすらと言葉を紡ぐジェラールと、彼が贈ってくれる優しい言葉とに目を瞬かせた後にその目尻からボロボロと大粒の涙を零す。そして子供のように「よかったぁ…!」と声を上げて泣いた。ジェラールは素直に感情を吐露するトルテを優しい眼差しで見つめるも、敢えて言葉は紡がない。代わりに家紋の刺繍されたハンカチをそっと差し出すと「あげるよ。」とだけ口にした。貸すのではなくあげると口にしたのは、不器用なジェラールなりの「もう気負わないでいいよ」という優しさだった。

 トルテは素直にジェラールの手からハンカチを受け取ると、まずは目元に押し当てる。右目、左目と順に押し当てては涙を拭う。それから次いで広げると、自分の意思とは関係なく涙に連動して勝手に出てくる鼻水をかむために鼻に宛てた。そして息を吸い込んだ後にちーん、と思い切り鼻をかんだ。ジェラールはその様子を目を細めながら見つめていたものの、両鼻同時にかむトルテを目にすると医者の卵らしく少々お節介な言葉――「鼻は片方ずつかんだほうがいいよ。」と苦笑しながらアドバイスすると、予備として持っていたハンカチを念の為ともう1枚差し出した。


「ありがとう。……あなたって、優しいのね。」

「そんなことない。わざとじゃないのにこの一週間、ずっと気に病んでた君の方がずっと優しいよ。」

「……ふふ。そういうところが優しいのよ?」


 トルテはまだ時折零れては溢れてくる涙と鼻水とを、追加で差し出されたハンカチで拭いながら泣き笑いの顔でそう告げる。ジェラールは徐々に泣き止んできたトルテにほっと胸を撫で下ろすと、咄嗟に否定する。けれど泣き笑いの顔のまま、少ししゃがれた声で優しい言葉を返すトルテに先日の反省を込めてそれ以上の否定は重ねなかった。代わりに無言で頷くと少し腰を浮かせて大岩の端、今度は滑り落ちない程度の場所にずれると隣を無言で叩いた。

 トルテは隣と呼ぶには少々離れているそこへ視線を向けると、岩肌に手をかける。そしてゆっくりと岩の上に上がると、ジェラールが指し示したそこへと腰掛ける。そして機嫌よく尾びれをゆらゆらと揺らしながら、ジェラールの顔とハンカチとを交互に眺めるとくしゃりと笑った。まだ涙の跡が残っているにも関わらず、憑き物が落ちたような爽やかな笑顔をジェラールは視界の端で認めるとよかった、とそっと胸を撫で下ろした。


「……今度、このハンカチのお礼、するわね。」


 お互いに岩肌に並んで腰掛けながら、暫し心地よい沈黙に包まれながら波の音を聞く。地平線と、隣の人とを交互に見遣りながらどちらからともなく照れくさそうに笑ったかと思えば、また口を閉じる。そうやって意味の無い微笑とただ流れていく時間とに浸っていると、不意にトルテがすっかりと涙と鼻水と海水とに濡れてしまったハンカチを見つめながら口を開いた。

 

「別にいいよ。気にしないで。」

「気にするわよ!こんなにいい肌触りのハンカチ――それも2枚も貰っちゃったんだもの。お礼をしなくちゃ海神リヴァイアサンに怒られちゃうわ。」

「…………なら、有難く頂こうかな。」


 ジェラールは家紋が入っているとはいえ、それ以外は特筆することのないただのハンカチ故に1度はその申し出を断る。実際、少し良い布を使ったハンカチなだけで特に希少な素材――千日蚕の絹糸だとか、朝露の糸だとか、月光の麻だとか――とにかくそういった生育や採取に手間がかかるような高級な素材などひとつも使ってなどいない、有り触れたハンカチなのだ。別に礼をされるような価値のあるものじゃないのだ。けれど海を治めていると伝えられる海神リヴァイアサンの名前を引き合いに出された上に、どうにも収まらないであろう彼女の気持ちを想像すると、2度は否定しなかった。代わりにこう言った時になんと返答するのが自然だろうかと頭を捻る。結果、趣味の読書で目にした小説の一節と両親のやり取りとを思い出しつつ、それらしい言葉を返した。


「ええ、ええ。任せて!是非期待して待っていてちょうだい!腕によりをかけたお礼の品を用意するわ!!」


 現実では誰とも交わしたことのないやり取りに、ジェラールは果たしてこの言葉は本当に正解だったのだろうかと密かに心臓をうるさく拍動させる。が、そう返答した途端に満面の笑みと共に何がいいだろうかと嬉々として悩み始めるトルテを見遣ると、どうやら正解だったらしいとほっと胸を撫で下ろした。それからやれあれがいいだろうかだとか、それともあっちの方がいいだろうかとニコニコと笑いながら次々とアイデアを浮かばせるトルテへ「……お手柔かに、ね…?」と若干の心配を含んだ言葉を投げ掛けてみたものの、ちっとも届いていない様子の自身の言葉と彼女の猪突猛進さにほんの少しだけ苦笑した。

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