番外編:26.5_少女たちの再会劇
とある日のマレノスタリア、デルマリス近郊の海辺。ルビーはこの数ヶ月ですっかりと様相を変えてしまった世界を思いながら、昼下がりの浜辺を歩く。ざくり、ざくりと砂を踏みしめながら、すっかり遠くなってしまった過去に思いを馳せる。そうして物思いに耽りながら、ほんのりと冷たい初秋の風をその身に受ける。
――春は、まだまだ遠かった。
「ううん、やっぱり何も羽織らずに来たのは早計だったかしら…?」
ルビーはそう呟くと小さな身体を縮こまらせる。それから何の気なしに――本当に何となく、それでいて何かに導かれるように長年近寄りもしなかったこの海岸沿いを急に散歩したくなった自分の歳不相応の我儘っぷりやお転婆振りに苦笑すると、両手を口元に当てる。そしてはぁ、と重い吐息で冷えきった両手をじんわりと暖めると、このままでは風邪を引いてしまいそうだなと自分で自分に呆れた。というのも、いつまで天真爛漫な小娘のつもりだと夫に叱られてしまうと考えたからだった。
……最も、夫の小言は自分を心配してくれているからで。どうして心配してくれているかといえば、それは間違いなく愛してくれているからで。無論現役の医者、それも古くからマレノスタリアに居を構える名門一族の現当主というプライドもあるだろうが、恐らく根底にあるのは息子そっくりと不器用で口下手な愛情なのだと、ルビーは笑う。それから本当に似て欲しくないところ――口が上手くないところだとか、どうにも臆病なところだと、不器用すぎて時に他人に勘違いされてしまうところだとか――とにかくそういうところばかり似てしまったものだと、もう一度苦笑した。けれどそれさえもどうしようもなく愛おしいのだから、人間、自分にないものを求めるという進化論は案外間違っていないのかもしれないと、ルビーは海を見つめた。
――あの日、たった1ヶ月とはいえ本当の姉妹のように仲睦まじい時を過ごした彼女を見送ってから、ルビーはどうにも海というものが苦手になってしまった。
それはもっと彼女にしてやれることがあったのではないかと生来の正義感故につい自分を責めてしまう心と、本当は引き留めたくて堪らなかった歳相応の少女らしい我儘を、今も消化しきれずに抱えているからだった。たった1ヶ月とはいえ、それほどまでに彼女――シャルロットの存在は、シャルロットにとってルビーがそうであったように、ルビーにとっても本当にほんとうに特別な存在だった。
というのもルビーは当時最年少にして尚も破られていないマレノスタリア最年少文官という地位を得るよりも前、それこそジェラールが物心ついた時からついた頃には他人に対しての引け目を覚えていたように、ルビーもまた息子と同じく気が付いた時には周囲との間に言いようのない隔たりを感じていたのだった。それは大人顔負けの理解力と思考力を持つ自分を天才と持て囃す大人たちのせいであり、それを真に受けて距離をとる子供たちのせいであり、誰のせいでもなかった。誰もが皆、悪くなかった。
けれど幼少期のルビーは周りの人間があまりにも自分を特別扱いしては同世代と引き離すものだし、そんな大人の目を盗んで同じくらいの年頃の子と話をしてみてもてんで話にならないものだから、ふとした時に言葉には表せない寂しさや疎外感を感じるようになっていた。良くも悪くも自分は他人の言うように特別なんだと、幼心なりに諦めるを得ざれなかった。気がつけばルビーは他人には期待しないようになっていた。それが自分の心を守るための鎧だと気がついたのは、彼女――シャルロットと出会い、そして別れた後だった。
ルビーは思う。
シャルロットは、本当に他の誰とも異なる存在だったと。まさしく自分の知らない世界からやってきた、宛ら侵略者のような少女だったと。青みが掛かった美しいエメラルドグリーンの髪と反抗的な眼差しとが、当時の自分には本当にほんとうに衝撃だったと。まさかこんなにも今まで出会ってきた他人と異なる反応をする存在が居るとは夢にも思わなかったが故に、あれは軽いカルチャーショックだったな、と。
ルビーは思う。
それでいて警戒心を解いた後の彼女は愛を知った捨て猫のようで、どうしようもないくらいに可愛らしかったと。愛おしかったと。ほんの一瞬、自分が男に生まれてこなかったことを後悔するくらいにはただただ尊い存在だったと。それから、もし――もし、女同士でも友情以上の愛を囁くことの出来る世界だったら、自分はどうしていたのだろうかと。そんなことを今もふと考えてしまうくらいには、シャルロットという少女はルビーにとって特別だった。
ルビーは思う。
一種の思考実験とも言えるその問いに、自分はいつも決まって同じ結論――きっと『次』があったとしても、もう一度選び直すことが出来ると神に囁かれようとも、ルビー・フォルセティという少女は彼女を選ばないと。彼女に抱く感情は、あくまでもうら若い時期特有の友情と親愛の区別がついていない不安定な愛情であり、言わば未熟な証そのものであると。
故に、仮に記憶の有無に関わらず何度やり直したところで自分はいつだって口下手で不器用で少し他責思考のきらいがあって、なのにきちんと己の弱さに向き合うことが出来て、切磋琢磨が出来て。そのくせ女の子からせっつかれて漸く愛の告白をするような、腑抜けた優柔不断な男を選ぶのだろう、と。それが自分の思うルビー・フォルセティという少女であり、きっと彼女も同じことを思ってくれるに違いない、と若干の都合の良い解釈を強引にねじ込む。だって、仕方がないじゃないと自分に言い訳しながら。きっとあれは永遠の別れだったのだと、自分を慰めながら。
――でも、けれど、もし。
そんな不確定極まりない曖昧な言葉を並べ立てながら、ルビーは考える。ルビー・フォルセティという少女が何度繰り返しても選ぶであろう気の弱い朴念仁との間に生まれた息子が引き起こした、ささやかながらも大きく世界とそこに生きる生命の在り方を変えてしまうくらいの、小さく大きな大事件がまわりに回って、巡りに巡って、とっくに消化することさえも諦めてしまったあの頃の感情を氷のように溶かし、春の陽射しのように暖めてくれるかもしれないと。そしてそれを心の何処かで大いに期待してしまっている自分に無意識に気がついてしまったからこそ、こうして上着も羽織らずにとっくに冷たくなってしまった海を訪れたのだ。あと60日もしないうちにあっという間に訪れるであろう冬を早くも思わせる海へと、足を運んでしまったのだ。
もしかしたら小さな国で起こった大きな事件が、あの頃の未熟な感情や思い出ごと、宛ら波に攫われ揺蕩ううちに磨かれていったシーグラスのようにキラキラとした純然たる美しい思い出に変えてくれるのではないかと期待して。否、そうであって欲しいと淡い夢を見る少女のようにその小さな胸を膨らませながら、思い立つなり飛び出してきたのだ。きっと何もかもが物語の主人公のように上手くいくと信じて。
そうやって海辺をぶらぶら、宛もなく秋の風に吹かれながら時折大きなくしゃみを零しつつ、何分歩いただろうか。気がつけばほのかに寒いくらいだった海風はすっかり冷たくなり、太陽は定時だと言わんばかりにさっさと地平線の彼方へ沈んでいこうとしていた。ルビーはなんの根拠もない自信は若者特権だったかあ、とぼやきながら何の成果も得られないままに消費してしまった今日という1日を振り返ると、軽くため息をつきながら流木の上に腰掛けた。そしてぐっと背伸びをしてから脚を伸ばすと、久しぶりに歩き回って疲れてしまったと言わんばかりに首を軽く回した。それからジェラールを妊娠するまでは朝から晩までデルマリス中を走り回っていたというのに、出産を機に家庭に入り子育てを貴族らしく乳母に任せるようになってしまってからは、どうにも頭も身体も鈍って仕方がないと苦笑した。
とはいえ何をするにも現役を退いて紆余曲折20年余り、古くなってしまった身体と知識ではもう若者には適いそうもなければ無茶も出来ないと、ルビーは鼻から吐息を漏らす。それから同じだけ歳を重ねているであろう彼女は、一体どんな女性になったのだろうと膝に肘をつけて頬杖をつくと、好き勝手に想像してみた。……少しは落ち着いただろうか。自分のように、結婚はしているのだろうか。子供は居るのだろうか。そうでなくとも、元気でやっているのだろうか。
――否、元気でいてくれたらそれだけでいいと、ルビーは夕焼けを見つめる。仮に独身だとしても、びっくりするくらいに年老いていたとしても、はたまたその逆に当時と変わらない姿のままだとしても、ただ元気でいてくれたらそれでいいのだ。天才少女と持て囃されていた自分の、たったひとりの心からの親友なのだ。例え未来永劫会えなくとも、ただただ病気をせずに元気でいてくれればそれ以上に嬉しいことはない。……勿論、出来ることならばその顔を拝みたいものだけれど、とルビーはひとり何も答えてくれない海に向かってつい独り言を放つ。
「――――だ〜れだ?」
「――――――――。」
そんな時だった。不意にざくりと砂浜を踏み締める音が耳に届いたかと思えば、海を見つめていた筈の視界がブラックアウトした。代わりにどうにも懐かしくて堪らないと共に、この約20年あまり心にしこりとして残り続けていた、懐かしいあの声が耳元に響いた。そして両目を覆う手のひらから伝わる少しだけひんやりとした体温が、目の周りの薄い皮膚を通して伝わってきたものだから、ルビーは驚きと動揺と歓喜のあまり何も言えなかった。言葉らしい言葉など、失ってしまった。自分が物申せぬ赤子になったのかと錯覚してしまうくらいに、綺麗に言葉はおろか声すら出てこなかった。
そんなルビーを、背後から忍び寄った誰かはくすくすと笑う。心底おかしそうに、それでいて懐かしそうに。くすくす、けらけらとあの頃の彼女と同じようにわらう。少しだけ低くなった声で、ルビーの小さな耳の奥の更に小さな鼓膜を震わせる。そうして抱えきれないほどの親愛と込み上げてくる感動に任せて、その誰かはもう一度笑いながら問い掛ける。「ねえ、早く答えて?」と。
それから、相も変わらず何も言葉を発せないルビーに対して少しだけ不安そうに「……それとも私のこと、忘れちゃった?」と寂しさの滲む声で、なんとも弱気な言葉を零す。ルビーはその言葉に対してなんとか首を横に振ると、そうっと自身の目元を覆う手のひらに自身の手のひらを重ねる。そしてしっかりと握り締めながら、力強く口を開いた。
「……………………忘れるわけ、ないでしょう?」
たった1ヶ月。されど1ヶ月。ルビーは短いながらも心の底からただの少女として振る舞えたあの日々を忘れたことなど、片時もない。ましてや波に攫われ、まるで白昼夢のように去って行ってしまった彼女は、確かに次の世代に繋がる何か――人が愛と呼ぶそれを、自分と夫の間に残していってくれた彼女のことを忘れたことなど、世辞でもなんでもなく本当に片時もなかったのだ。寧ろアステルと結婚した時も、その後ジェラールを妊娠したことが分かった時も、無事に出産を終えることが出来た時も、ルビーはいつだってたったひとりの親友に自分の晴れ姿を見せたくて堪らなかったし、特に出産直後など彼女が繋いでくれた愛が齎した新しい生命の誕生を祝って欲しいという我儘でいっぱいだった。
「…………話したいこと、たくさんあるのよ。」
「――うん。」
「あなたが居なくなったあと、みんな悲しんだこととか。」
「――――うん。」
「それから、アステルと結婚したこととか。ひとりだけれど、子供を授かったことだとか。」
「――――――うん。」
「その子が、とんでもないことをしでかしてくれたこととか。」
「――――――――うん。」
ルビーはぽつりぽつりと、背後の誰かに向けて漸く湧き出てきた言葉を語る。その誰かはルビーのひとことひとことに丁寧に相槌を打ちながら、心底愛おしそうに慈愛に満ちた表情を彼女に向ける。
それからその誰かは長命である自分と違って、相応に歳を取ってしまったたったひとりの人間の親友をあの日と何ら変わらない眼差しで見つめる。何処までも愚直に、それでいて真っ直ぐに、触れ合った手のひらから伝わるほのかな温もりに瞳を潤ませながら、久方振りの再会に震える。心のみならず、身体ごと震わせる。
「…………でもね。いちばんに伝えたいことは、違うのよ。これまでお互いの身に起きたことでも、思い出話でもないのよ。」
「ええ、そうね。――それから、いちばんにあなたに伝えたい言葉は、多分私も一緒よ。」
ルビーの背後の誰かは彼女の耳元でそう囁くと、重ねられていたルビーの手のひらごとそうっと両目を覆っていた手を外す。それからざくりざくりと砂浜を踏み締めて、背後からルビーの前に立つとほんの少しだけ大人になった顔――やはりと言うべきか、長寿故にあの日とあまり変わりはしない青みが強いエメラルドグリーンの髪だとか、夏の陽射しを思わせる眩しい黄色の瞳だとか、記憶の中の少女よりも少しだけ背伸びした姿を晒すと、何故かルビーよりもずっとずっと泣きそうな顔をしながらも精一杯微笑むと目を細めた。
背後から正面に立った誰か――約20年振りの再会を果たした親友は、恥ずかしそうにルビーから視線を逸らした後に徐にその場で足踏みをすると、慣れない脚を肩幅程度開く。次いでこの世界ごと抱き締めるようにその真っ白な細腕を広げると、ルビーに向けて泣き笑いの顔でにかりと笑いかけた。あの頃と変わらない、悪戯っ子のような子供らしい笑顔だった。
ルビーはその笑顔を見遣り、そして視認すると、あの日のように真っ赤な瞳から大粒の涙を零す。けれどあの日と異なるのはその涙が悲しみや後悔が引き出したものではないということと、もう一点――永遠に思える別れに、終わりが訪れたことを悟ったが故だった。つまりは彼女に贈った傷ひとつないエメラルドのブローチと彼女から貰った片時も肌身離さず身につけていたルビーのペンダントが、これからは容易に再び揃うことを予見したがためだった。
ルビーはふらふらと流木から立ち上がると、目の前の人物向けて駆け寄る。そして勢いのままにその胸に飛び込むと、子供のように泣きじゃくった。ルビーを受け止めた誰か、もといシャルロットは内心しっかり者のルビーのなんとも子供らしい一面に、まるで姪を見ているようだと笑いながらもそれを言葉にはしない。代わりにただただ黙って受け止める。
それからあの日の続き、あるいはリベンジだと言わんばかりに相変わらず狭い額にそうっとキスをひとつ落としてから、今度はしっかりとルビーの背中に腕を回して抱き締めると額と額をこつんと合わせる。そして至近距離でじっくりと彼女の名前と同じその綺麗なルビーの色をした瞳を見つめると、静かに目尻から涙を零す。次いで次々と溢れ出す涙のままに互いにどうしようもないくらいに泣きじゃくると、無我夢中で抱き締め合った。
「――――久しぶり、ルビー。」
「――――久しぶり、シャルロット…!」
そう言ってたった1ヶ月、されど1ヶ月。けれどなによりも誰よりも互いを大きく変えた1ヶ月間だけの親友との約20年振りの再会を喜ぶふたりの少女を、ジェラールとトルテは岩陰からこそりと見守る。そして互いに顔を見合わせると、今だけは母親でも叔母でもない、社会における役割を脱ぎ捨てたふたりを見遣りながら上手くいったねと静かに笑い合う。それからこの奇妙な縁というべきか、はたまた巡り合わせというべきか――に感謝しながら夕暮れの海辺で涙を流す少女たちに背を向けると、ジェラールは「ケーキでも買って帰ろうかな。」と小さなちいさな声で呟いた。




