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27_ジターバグ



 ――かんかん、かん。


 想い出の浜辺にほど近い平地、デルマリスの隅の隅。世界の端と言っても過言では無いその土地で、顔馴染みの大工が気持ちの良い金槌の音と音の外れた鼻歌を掻き混ぜながら手馴れた様子で家を建てていくのを、ジェラールとアステル、そしてルビーは静かに眺めていた。3人はすっかり観光名所となったリヴァイアサンの牙のすぐ近くに設置されたベンチに並んで腰掛けながら、押し寄せる波の音とあたりに響き渡る金槌のメロディ、それとほんの少しの不協和音に心地よく浸る。

 本来ならば耳障りな雑音――と言ってしまえば可哀想な気もしたが、とにかく音の外れている素っ頓狂な音程のそれさえも心地よいと感じるのは、きっとこの世界が美しいと知ってしまったからに違いがないとジェラールは思う。そしてそれは他の誰でもない、あの日偶然出会ったエメラルドグリーンのお陰だということを、彼はいつも考えていた。それほどまでにどれほどの時間が経とうとも、ジェラールの心の中には彼女が居た。


 ――――かんかん、かん。


 ジェラールは金槌が釘を打つ規則正しいメロディに目を閉じると、耳を澄ませる。そして瞼の裏に思い浮かぶ、まさに奇跡と呼ぶに相応しいあの魔法――神たるリヴァイアサンが直々に生み出した、人魚の尾びれを脚に。そして人間には水中で呼吸が出来るようになるという、まさしく人間などでは到底辿り着けない域のそれに思いを馳せる。それからあの時、リヴァイアサンが去った後に改めてまじまじと見遣った彼女の真白の脚の美しさと、これから始まる新しい時代を感じさせる胸の高鳴りとを思い出す。それから、同時にあの直後の動乱――世界中を包み込んだリヴァイアサンの魔法(奇跡)たる光が齎したかつてない混乱を思い出しては大変だったなあ、と苦笑した。

 何しろ前代未聞と呼ぶに相応しい現象だったのだから、世界中の国という国が混乱したのだ。そんな中、マレノスタリアの皇帝たるテオドール陛下は建国以来の名君と呼ばれるに相応しい迅速な対応を取った。なんと彼は文官に命じて城中の人間のみならず、市井のひとりひとりにまで聞き取り調査を行ったのだ。更に手が足りないとなると皇帝自ら街に降りてきて、文官を手伝ったのだ。そしてその結果、数名ではあるものの眩い光の中にリヴァイアサンの姿を見ていたこと、何よりもジェラール自身が我が身に起きた出来事を包み隠さず全て話したことにより事の全貌が明らかになると、テオドールは早速リヴァイアサンを尋ねた。世界中の生命という生命に授けられた、件の『魔法』を用いて深海にまで会いに行ったのだ。それもごく少数の臣下のみを引き連れて。

 

 そこでどのようなやり取りがあったかを、ジェラールは知らない。ただジェラールは最初に聞き取り調査に応じた時、皇帝陛下に頭を下げただけだった。そして頭を上げた後、ただただ真っ直ぐにそのネモフィラの色をした瞳を見つめながら真摯に頼み込んだだけだった。

 どうか人魚たちを金儲けの道具にするのではなく、個として尊重して欲しいと。マレノスタリアの近郊の海に息づく生命として、真剣に向き合って欲しいと。そして叶うことならば、どうか今も尚人間に存在を脅かされている彼らのために、動いて欲しいと。

 

 無論、そこに特定の個人への愛着があることは否定しなかった。寧ろその集団の中に愛する人が居るから、整然とした理論を考えることも出来なければこうして感情に訴えかけることしか出来ないことを、ジェラールは正直に吐露した。言ってしまえば、これは個人の我儘の域に過ぎないことを心の底から詫びた。その上で、ジェラールはどうかマレノスタリアという大国の力を以て人魚という種族を他国の驚異から守ることは出来ないか、リヴァイアサンの願いを叶えることは出来ないかとテオドールに頼み込んだ。そのあまりの無礼っぷりに、側近の文官が思わずこれがあのアルスヴィズ家の息子かと呆然としてしまうくらいに、彼らしくない態度で頼み込んだ。否、感情的に縋りついた。

 テオドールはそんなジェラールに敢えて何も言わなかったが、代わりに数日の沈黙の後に数名の臣下のみを引き連れてリヴァイアサンに直接話を聞きに行った。そういうわけで、皇帝陛下自ら深海まで足を運んだのだ。そして帰ってくるや否や、皇帝の権力を用いてあらゆる議会をすっ飛ばすと『人魚保護政策』を打ち立てた。

 

 具体的にはマレノスタリア近郊に住まう人魚を、その領海権を以て国民と他国に主張した。次いで国民であると同時に少数民族でもあるが故に、その希少性から他国から人身売買の対象となっている彼らのために安全な保護地区を建設することを公表した。

 同時に人魚たちが生業としていた海底鉱山の所有権を主張し、ついでにリヴァイアサンの牙を観光名所にすると共に、ジェラールとトルテの恋物語を神の心さえ動かした純愛だとして宮廷作家に本まで書かせると世界に広く出版した。そして最後にこれでトドメと言わんばかりに人魚たちの持つ精巧な宝石の加工技術を職人たちに学ばせ、マレノスタリアの新たな産業のひとつにすることを公言したのだから、たった数ヶ月で一石二鳥どころか三鳥も四鳥も儲けてしまったのだ。

 ジェラールは少し目を離したうちにあれやこれやと進んでいくなんとも自分にとって都合の良い状況に、流石はマレノスタリア開国以来の名君だと舌を巻いた。それからアルスヴィズ家の長子であるということは、今後自分はこの賢帝と呼ぶに相応しい当代の皇帝陛下に仕えることになるのだと思うと少々冷や汗をかいた。


 ――――――かんかん……、かん。


 金槌の音が、不意に止まる。どうやら休憩時間のようだ。ジェラールは少し早い開業祝いにアステルから貰った懐中時計を懐から取り出すと、視線を落とした。気がつけば時刻は太陽が頭上に佇む時間だった。

 ――彼女と、逢瀬を楽しんでいた時間だった。


 ジェラールは頭頂部をジリジリと焼く太陽に小さく吐息を漏らしながら、嗚呼、懐かしい時間だなと目を細める。それから1週間に1度、太陽がいちばん輝く真昼の時間を密かに心待ちにしていた自分を思い出しては苦笑した。

 全く、今思い出しても純情すぎて恥ずかしくなってくるなと曖昧に笑う。けれどそんな青くて酸っぱくて、とびきりに甘い時間があったからこそ今の自分があるのだと思い直すと、太陽に向かって手を翳した。

 

 ――彼女みたいな、眩しすぎる夏の太陽だった。


 そんなことを考えながら、ジェラールは初夏だというのに存外に暑い今年の夏にもう一度吐息を漏らす。この様子だと今年の夏本番は暑さにやられた子供と老人ばかり診ることになりそうだなと予想しては、さて、どうしたものかと頭を悩ませる。幾ら国土の大半が海に面しているとはいえ、暑さ対策は重要だ。寧ろ常に涼しい海風が吹き込んでくる国だからこそ、少し気温が上がっただけで皆バテててしまうのだ。何かいい方法はないだろうかと、ジェラールはギイヨギイヨと鳴きながら自由気ままに飛び回るカモメをぼんやりと見つめながら考える。

 その様子を、アステルはすっかり1人前の医者の顔だなと言って揶揄う。ルビーは自慢の子ですから、と言ってはにんまりと笑いながらジェラールの頭を撫でる。ジェラールは20も過ぎて両親に隣を固められて座ることや、もう1人前だなと揶揄われること、そして言葉とは裏腹に子供扱いされることへの照れくささや恥ずかしさ、それからほんの少しだけ上昇する自己肯定感――自分は確かに出来ることは少ないかもしれないけれど、それでも無条件に愛されているのだと。愛されていいのだと。そして同じように、誰かを愛していいのだと、頬を緩める。緩めるが、もういい年齢ということもあり形式上は嫌がる。

 そんな時だった。


「――――こんにちは!進捗いかがかしら?」


 白波の合間からひょこりと顔を覗かせたエメラルドグリーンが、昨日までと同じようにジェラールに笑いかける。その笑顔はもう彼女と出会ってから3年という月日が流れたことを忘れさせてしまうくらいに、出会った頃から変わらない。いつもいつまでも純粋で天真爛漫で、見ているだけで元気が溢れてくる笑顔だった。

 こんな自分を心から愛してくれる人がいることを実感出来る、魔法のような微笑みだった。


「…………まあまあ、かな?」 

 

 ジェラールは手馴れた様子で小さな水飛沫を上げながらびちびちと尾びれを動かし、海から陸へ上がろうとする彼女の名前を愛おしげに呼んだ後にごくごく自然にベンチから立ち上がると海へ向かって歩き出した。そして砂浜に片膝をつくと、彼女に向かって右手を差し出す。そうやって手を差し伸べられた彼女――トルテは、ジェラールの返答を耳にしながらその手を取ると薄く微笑む。大きなおおきなミモザ色の瞳をきゅうと細めて、心底幸せそうにはにかむ。それから軽く目を伏せ、下半身に意識を集中させると、あの日のような淡い光に包まれた後に南国の海のような美しい色をした尾びれは、誰もが羨むほどに白くすらりとした脚へと変わった。

 トルテはもう3年も経つというのに、もともと魔法がそれほど得意じゃないことも相まってか、この変身ともいえる時間はいつも緊張していた。それから当然と言えば当然ながら、生まれた時から尾びれしか知らない彼女には2本の脚で歩くというのはどうにも違和感が拭えない事象でもあった。――要するに、未だに自信がないのだ。

 故にトルテは出会った時からこうして膝をつき、目線を合わせて話し掛けてくれる、ただでさえ優しいジェラールがこうして当たり前のように自身に向けて手を差し伸べてくれることを、本当に嬉しく思っていた。それから、こうして優しくされる度に自分はこの人のこういうところがどうしようもなく好きで、愛おしくて、尊敬しているのだと思い知る。もう彼以外は考えられないと、何回でも恋をしてしまう。だからこそ子鹿のように震える脚で立ち上がっては、支えられながらでも同じ道を歩こうとするのだ。そばに居たいと願うのだ。

 

 現に、それはこの日も同じだった。トルテはジェラールの手を掴んで引き上げて貰うと、大分慣れたもののまだ少しふらつきながら2本の脚で大地を踏む。それから、さもバランスを崩してしまったので致し方がなく…と言いたげな雰囲気を出しながら、海水に濡れた身体をジェラールに寄せる。彼の真っ白なシャツがしっとりと湿っていくのも気にせずに、ぴとりと身体を寄せる。

 するとジェラールは嘘か本当か分からないトルテの行動に、心配と呆れが半々でブレンドされたなんとも言い難い表情を浮かべながら腰に手を回すと、支えてくれる。トルテはそれが本当にほんとうに、もうどうしようもないくらいに嬉しいから、腰に手を回された瞬間に待っていましたとばかりにジェラールの背中に腕を回すと抱きつく。次いで彼の幼馴染よりかは薄いものの、それなりに鍛えられている胸板に頬擦りしながら甘える。ジェラールはこの時に嗚呼、今日も騙されたと苦笑いしながらもう一方の手でそうっと後頭部を撫でてやる。

 ――甘やかす振りをしながら甘やかされているのは自分の方だなと、肩を竦めながら。


「あらら、どうやらわたしたちはお邪魔みたいね?」

「だな。……では、邪魔者はさっさと退散することにするか。」

「なら、わたしたちも負けじと久しぶりにデートと洒落こみませんか、アステル様?」

「――――ああ、悪くないな。」


 アステルとルビーは息子とその恋人の仲睦まじい様子を揶揄うかのように、わざと大きな声を上げる。それからくすりと笑っては互いに顔を見合わせた後、かつての自分たちもああだったなと懐かしみながらどちらからともなく手と手を絡ませた。


「ちょ、…っ、父上?!母上!?」

「は〜い、いってらっしゃ〜い!!」

 

 アステルは先に立ち上がると、ルビーの手を軽く引く。手を引かれたルビーはまるで10代の少女のように目を輝かせながら緩慢な動きで立ち上がるや否や、アステルの腕に抱き着いた。抱きつくというよりかは絡みつくと表現した方が正しいのでは、と思えるほどに隙間なくぴったりと夫の腕に身体を寄せたルビーは、すっかり大人になった息子とその恋人に「じゃあ、そういうことだから!」と軽く手を振る。アステルはその様子を呆れたような、けれど愛しくて堪らないような瞳で見つめながら空いている手で額を抑えるとやれやれとため息をつく。

 が、その頬はどうしようもなく緩んでいたものだから、トルテは歳を取っても尚仲睦まじいジェラールの両親に心の底から憧れると共に、自分も彼といつまでもああいう風でありたいものだと願ってしまうと、殆ど反射的に右手を上げていた。そして思わず引き留めようとするジェラールとは反対に、快く送り出す言葉を口にしながら子犬がブンブンと尻尾を振るかのようにその手を思い切り、勢いに任せて振った。


「……ああ、もう…。今日は一緒に工事の確認をしてくださる予定だったのに……!」


 ジェラールは引き留める言葉も虚しく、さっさと歩いて行ってしまう両親の背中を虚しく見送りながら狂ってしまった予定にガックリと肩を落とす。しかしながら決してトルテのことも、両親のことも責めはしない。寧ろやはり言葉とは反対に優しい好青年らしい笑みをその口元に称えると、目を糸のように細めながら心底眩しそうに長らく追い掛けてきたその背中を静かに見送るのだから、トルテはこの3年間の間に随分と変わったジェラールの横顔を見つめながら忍び笑いを零す。

 

 ――それは大学を卒業して、アステルの元で医師としての修行を本格的に積んで、こうして自身の診療所を構えるようになったという、単純な立場の変化ではない。

 宛ら何処から流れ着いたかも分からない鋭いガラスの欠片が長い永い時間をかけてシーグラスという芸術品に姿を変えて人々の手元に届くように、ジェラール・アルスヴィズという青年もこの3年間という短くも長い時間の間に、少しずつ少しずつ良い方向へと変化していったのだ。

 

 無論、何もかもが劇的に変わったわけではない。相変わらず自分の意見を口にしないことも多々あるし、困ったように曖昧に笑うことだって少なくない。それでもトルテの目から見て、ジェラールは10回のうち1回か2回は自分の意見をおそるおそるではあるものの口にするようにはなったし、心の底から間違っているのではと感じる意見と出会った時は勇敢に立ち向かうようになった。

 具体的には未だに人間に対して不信感を抱いている兄のザッハに対し、夜遅くまで人間という生き物について熱弁を奮う日が凡そ週に1度の頻度で訪れるのだ。加えてテオドール皇帝陛下に対し、今最も人魚に近い人間として人魚保護地区の今後や改善点をこちらは月に1度、纏めて提出するようにまでになったのだ。そこにはかつてのジェラール――自分ばかりが安全地帯から周囲の様子を伺うだけだと嘆き、自己嫌悪を募らせていた青年は、もう居ない。代わりに自分なりのやり方かつペースで、この国の役に立とうとする崇高な意思を胸に今日も患者と向き合う若き医師の姿があった。


 かといって、まだジェラールが自分の殻を破れなかった頃から、いい意味で変わらないこともある。それは立場関係なく気さくに人々と接する彼本来の、生まれながらのどうしようもないほどに優しい気質だ。それは新米の医師として、そして時には人魚に最も近い存在として多忙な日々を過ごす中でも、時間と暇を見つけては変わらずに街の子供たちの遊び相手をしてやるというジェラール生来の優しい心だった。

 勿論、その優しさが向けられるのは子供だけではない。すっかり腰の曲がってしまった老人の荷物を持っては家まで運んでやったり、はたまたそうして邪魔をした家で遠い昔の思い出話に付き合ってやったり、あるいは怪我をした野良犬や野良猫にまで手当をしては飼い主を探してやったりと、相変わらずな面も確かにあるのだ。寧ろなまじ行動力というものを身につけた彼は、今まで以上に街の人々から慕われる存在になっていったのだ。

 

 トルテはそれを本当に嬉しく思うと同時に、少し妬いてしまう。今までジェラールの良さを知っているのは自分だけだったのに、とむくれてしまう。けれどその度に最初にジェラールが本当に善い人間だと気が付いた、言わば鑑識眼とも呼ぶべき確かな目を持っていたのは自身だし、それに何よりそんな善い人間がいちばん愛しているのは彼の両親でもなければ街の子供たちでも、はたまた幼馴染かつ初恋の相手らしい綺麗な銀の髪をした彼女でもなく、ただの自分――両親からトルテという識別名を与えられた、何者でもないただの『わたし』であるということを知っているトルテは、いつも最後には決まって得意げに笑うのだ。

 「わたしの好きな人は凄いでしょう?」と言わんばかりに胸を張りながら、少々おぼつかない足取りの中にしっかりとしたステップを踏むのだ。

 

 砂浜の柔らかな感触に足を取られつつ、ジェラールの腕にしがみついてはなんとかベンチにたどり着いたトルテはそんなことを考えながら少し凛々しくなった恋人の横顔を見つめる。飽きもせずに、いつまでもいつまでも見つめる。そして外見の美しさも然ることながら、ふたりで腰掛けるには充分なスペースがあるにも関わらずぴったりと肩を寄せてくるところだとか、しっかりと繋がれたままの手のひらだとか、そういうひとつひとつに胸を高鳴らせては幸せだなあと頬を緩ませる。だらしない表情を浮かばせる。

 そんなトルテに無論ジェラールは気が付いている。が、それを指摘するのは却って野暮かと、いつも見て見ぬ振りをしている。それは誰もが見て分かる道理を敢えて指摘するのは美しくないという当たり前の道理に基づく論理的な思考と、時折横目でこっそりと伺う恋人のなんとも気の抜けた表情――まるであたりにふわふわと花が咲き乱れているかのような甘いあまい雰囲気をこっそり堪能することを、密かに日々の活力にしているが故だった。

 

「すみません、ジェラール様!少々確認して貰いたい箇所がありまして…。」

「――――ああ、分かった。直ぐに行く。」

「ならわたしも!」


 けれど、そんな互いに内緒にしている密かな楽しみは、ジェラールの顔見知りの大工の乱入により一時的に終わりを告げる。とはいえ、それは予見されていたことだった。だから今日は出資元たる両親を連れて来たのになあ、とジェラールは小さく苦笑してから、仕方なしに1人前になるにあたり両親から贈られた、生まれて初めての桁違いのプレゼント――診療所兼自宅について、何点か確認したいところがあると告げる大工に向かって頷く。

 すると案の定というべきか、暇を持て余しているトルテが自分もと挙手しだしたものだから、ジェラールはまたしても苦笑してしまった。それは「見たところで分かるのだろうか…?」という当然の疑問と、とにかくカルガモの雛が親に着いて歩くかのように、ジェラールと同じことをしたいトルテの可愛らしさといじらしさが故だった。

 とはいえ、大工にとってはどうなのだろうとジェラールは曖昧に笑いながら彼に視線を向ける。邪魔ではないだろうか、とアイコンタクトを送る。ジェラールのアイコンタクトを受け取った大工は、当初は目配せながら送られた視線の意味を想像出来ずに瞳をパチクリと瞬かせたが、数拍の後に漸く自分に何を求められているかを察すると「いやあ、ジェラール様は本当にお優しいですね?」と褒めているのだか揶揄っているのだがよく分からない言葉と共にニヤニヤとした笑みを浮かべると、トルテを見遣る。それからぽんと手を叩くとこの診療所兼自宅のかなり特殊な部分にしてジェラールを優しいと揶揄うに至った唯一無二の特徴を確認して貰うことに決めると、懐から取り出した設計図をトルテに差し出しながら含み笑いを浮かべた。

 

「じゃあ、トルテちゃんには少し早いけど水路の方を確認して貰おうかねえ。」

「え、いいの?」

「ああ、いいよ。寧ろそうするといい。……この診療所は私の家であると同時に、君がいつでも訪れてもいいもうひとつの家でもあるのだからね。」

「…………てなことだから、宜しく頼むよ!」

「ええ、ええ!任せておいて!!」


 トルテは大工が広げた診療所兼自宅の設計図に書き込まれた、建物周囲と中に張り巡らされた水路――無論、マレノスタリアの誇る美しい海にして彼女の故郷に繋がっている――を見遣りながら、ジェラールの役に立てることにキラキラと瞳を輝かせる。それから知ってはいたものの、こうして実際に図面に起こし、工事に着手しようとしているところを目の当たりにすると、ほんの少しの恥ずかしさとそれを上回るどうしようもない歓喜と彼への愛情に頬を赤らめる。

 そして湧き上がる感情に任せて再びジェラールの腕にその身体を絡み付かせると、二の腕に思い切り頬擦りしながら甘いあまい表情と共に上目で彼を見上げる。綺麗な紅色の唇から、何度も聞いた言葉――そのくせ、何度聞いても足りない言葉を紡いだ。

 

「さすがはわたしのジェラールね!大好き!!」

「…………なら僕は愛してる、だな。」


 そうやって素直に愛情を示してくるトルテに対して、ジェラールはまるでなんでもない風を装うと『好き』や『大好き』よりもずっとずっと上位に存在する感情を口にする。両親に対する『愛している』とはまた違う、トルテ専用の愛情と共に彼らしからぬストレートな愛の言葉を口にする。トルテは思ったままを口にする自分でさえも口にしたことがない言葉を、なんでもない振りをしながらもしっかりと耳まで真っ赤にして声に出したジェラールに一瞬ぽかんと目を丸くした後に、忽ち生まれて初めての感覚――身体中の血が沸き立つような、それでいて却って頭は酷く冷えているような、なのに今にでも踊り出したくなってしまうくらいにワクワク、ドキドキしているような――到底ひとことでは言い表せない、そんな奇妙な感覚に襲われると人目も憚らずにジェラールの首元に抱き着く。そしてやはり根底にある素直な感情、即ち彼への愛情に従ってその頬に何度も何度も口付ける。

 ジェラールはそんなトルテに眼前に観客が居ることを伝えようとするが、どういうわけかこういう時ばかりはやけに強い彼女の腕力に諦めたようにため息をつくと顔や耳は無論、首筋までもをその髪と同じ綺麗なサンセットオレンジ色に染める。それからもうどうにでもなれと内心胸をときめかせながら、貝か何かのようにくっついては離れないトルテの背中に腕を回すと優しく抱き締めた。


 ――――――ヒュウ。


 若く青く、そして情熱的なふたりを揶揄う大工の口笛が、あたりに響いた。

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