26_ラストリゾート(14)
『だが、もう終わりにしようと思っていたんだ。』
誰も知らないこの世界の歴史を語り終えたリヴァイアサンは、ほんの少しだけ目を細めると遠くを見つめる。その瞳は遠い日の悲しみを思い出してしまったが故の悲嘆と、それでも残虐な行為に走らなかった人間をどうにかして信じたかった切なさに揺れて震えていた。それがどうにも1日が終わるのが惜しくて堪らない子供の横顔にも、漸く1日が終わると肩を竦める大人にも見えたものだから、ジェラールは思わず唇を噤んだ。それはたった20年ほどしか生きていない自分が、一体どれほど生きているかも分からない神に対してどんな慰めの言葉を掛けられるだろうかと咄嗟に考えては、変に安っぽいよくある慰めを贈る方が却って失礼に違いないと考えたからだった。
リヴァイアサンはそうやって黙り込んでしまったジェラール――かつての我が子のように聡明な彼を見下ろすと、緩慢な動きで首を横に振る。それから『いいんだ。』とだけ告げると、ジェラールの腹のあたりに額を寄せた。『今君が抱いているであろう感情だけで、もう、充分だ。……待った甲斐があった。』そう言ってにっこりと目を細めたリヴァイアサンに、ジェラールは曖昧に笑う。それからやはり折れてしまった牙が心配になると、無礼を承知でそうっと粉々に砕けてしまった牙の根元に手を這わせた。
リヴァイアサンは、ただ真摯なだけでなく何処までも優しい彼にますます笑みを深めると心の中で本当に待った甲斐があったと、再度呟く。それから、何度も何度も「もうそんな人間なんて居やしないのではないか」と挫けそうになった日々を思い出しては、心底懐かしそうにその金の瞳を閉じた。
「どうして終わりにしようと思ったの?」
「ちょっ、トルテ…?!」
だが、ジェラールと違ってまだまだ青いトルテ――青い果実というよりかはまだ果実になってもいない色鮮やかな花の彼女は、どうにも察しが悪いが故に無邪気にリヴァイアサンに問い掛けたものだから、ジェラールは少し慌てた。特に自分はともかくジェラールが酷い目に遭うことがないと安堵したせいか、すっかり敬語まで外れているのだからそれはそれは慌てふためいた。が、リヴァイアサンは小心者らしく慌てるジェラールを腹の底から込み上げてくる野太い笑い声で一蹴すると、構わないと言いたげな瞳を彼に向ける。
それからのそのそとした動きでトルテの元へ向かうと、ジェラールにそうしたように彼女の身体に擦り寄っては親愛を示しながら、穏やかな声を上げた。
『私は、君たちのように強くないからだよ。』
「そうかしら?」
『ああ、そうだとも。』
「また信じたいって思えるのは、強いってことじゃないの?」
『……………………………。』
リヴァイアサンはトルテの言葉に暫し言葉を失う。それは今まで想像すらしたことがない視点からの言葉だったものだから、思わず呆気に取られてしまった。というのも、リヴァイアサンは今まで過ぎ去っては零れ落ちていったもの――精霊や人間たちへの失望だとか、誰よりも不完全な存在が治めるこの世界だとか、不完全な自分たちが創り上げてしまったが故に歪なこの世界そのものだとか、そういうものばかりに気を取られていたからだった。
つまりは、過ぎ去った後に遺されたもの――確かに存在した精霊たちへの愛や、若いが故に陸での暮らしに興味津々な人魚の娘たちに優しくしてくれた人間への信頼だとかに、リヴァイアサンは暫し思いを馳せる。そして確かに一度はゼロになったかもしれないが、長い時間が過ぎ去った今となっては確かに思い出として胸の内に残っているそれらの感情に気が付くと、嗚呼、本当に神というのは名ばかりで自分は不完全な存在だと己を嘲笑した。それから我が子に教えられるとは、と苦笑すると、人間の親が子供の頭を撫でたり頬擦りして愛情を示すように、トルテの頬にそうっと大きな鼻をピタリと当てては何度か前後した。それから『ああ、そうだな。』とため息混じりに口を開くと、リヴァイアサンはそうっと身を引く。そして再び海上にその大きな身体を浮かべると、満月の夜に狼が咆哮するかのように天に向かって雄叫びを上げた。腹の奥がずしんと揺れるような、大きく野太い声で叫んだ。それは宛らかつての悲劇への宣戦布告だった。
『人間よ。2度目の慈悲はないと思え――――!』
海がぐらりと揺れる。それに合わせて、海面がぐぐっと揺れる。白波立つ。リヴァイアサンの放つ小さな光の粒ひとつひとつが、海を超えてマレノスタリアを――世界を包み込んだかと思えば、夏の夜に光る蛍のような淡い光が、眼前に降りてくる。まるで夜空に住む誰かが、ついうっかり星を落としてしまったかのようにキラキラ、きらきら輝きながら、降りてくる。
ジェラールもトルテも、リヴァイアサンが放つ言葉とは裏腹にとても優しい光を放つそれに向かって無意識に手を伸ばす。そして掬い上げるかのように両手で椀を作ると、ゆらゆらと落ちてくるそれを受け止めた。そうやって受け止めるとジェラールは妖精の鱗粉のような輝きを放つ光を観察しようと知的好奇心から、トルテは単なる興味本位から、それぞれ自分の手のひらの中に音もなくぽとりと落ちたそれに顔を近付けた。だが至近で目視するよりも先にまるで氷のようにすうっと溶けては跡形もなく消えていってしまった淡い光に、目を瞬かせると、互いに顔を見合わせる。
――そんな時だった。砂浜に投げ出していたトルテの下半身が、ちょうど今しがた消えていったそれのような淡い光を放ちながら輝き出したのだ。するとわけも分からずに輝き出した下半身の持ち主であるトルテは言わずもがな、ジェラールも焦った。リヴァイアサンのあの口ぶりからして、代々人魚の間で語り継がれてきた『罰』ではないことは確かだが、それでも理屈も何も分からない現状に2人揃って慌てふためいた。どういうことなのだと、海の上に浮かぶ巨躯をふたり揃って見上げた。
リヴァイアサンはそんなふたりを優しい金の瞳で見下ろすと、心底愛おしげに口元を歪める。唇の端に、弧を描く。そうやって神らしい大胆かつ不敵な笑みを浮かべながらも、彼は何も動かない。ただ世界中のすべて――平地も、盆地も、山地も川も地底も天空も、そして海さえもリヴァイアサンから放たれた光に包まれていくのを満足そうに見つめているだけだった。
そうやって何を考えているのか少しも分からない神を見上げていると、今度はジェラールの身体が淡く光り出す。ジェラールはトルテのみならず自分までもが光に包まれているという現実に、頭が混乱した。が、それを知覚し、自覚するよりも先にふたり揃って今までの光度など比べ物にならないくらいに激しく発光する様に意識と視界とを持っていかれると、思わず目を瞑った。というよりかは、瞑らざるを得ないほどの眩しさだった。だが自分自身が発光しているが故に、どれだけ固く目を瞑ろうとも逃げられない眩しさはふたりの網膜から暫し視界を奪う。まるで網膜ごと焼かれてしまったのでは、と思えるほどの激しい光とその光が齎す痛みに、暫し唇の隙間から声にならない声を漏らしながら耐え忍ぶ。
そうしてどれくらいの時間が経ったのだろう。体感時間としては1時間にも、1日にも思えるじんわりとした痛みと苦しみが徐々に引いていくと、ジェラールとトルテはどちらかともかくそろそろと目を開けた。そしてまずははっきりと映る目の前の景色に、自身の網膜が焼かれたわけでなかったことに安堵するとほっと胸を撫で下ろす。それからあの光を掬い上げた両手へ視線を落とす。
――良かった、なんともない。ジェラールは両手に落とした視線が拾い上げる自身に特に変わったところがないことに安堵すると、今度はほう…と静かに吐息を吐いた。それから一体何だったのだろうかとリヴァイアサンに問い掛けようと顔を上げた瞬間、隣のトルテが金切り声のような、はたまた悲鳴のような甲高い声を上げたものだから、反射的に彼女を見遣った。そして大丈夫かと声を掛けようとしたその瞬間だった。
彼女を気遣う言葉を生むよりも先に、彼の新緑の瞳は先程までとは異なるトルテの姿――エメラルドグリーンの髪と同じ色をした尾びれの代わりに、すらりとした2本の脚が生えていた――を捉えると、ジェラールは驚きと困惑のあまり声を失った。感情のままに目を丸く見開いては、右手の人差し指でトルテの真白の肌をした脚を見つめながら指差す。それから酸欠の魚のように、ぱくぱくと口を開けては閉じてを繰り返す。
「な、ななな、なんで…?!わたし、人魚なのに、脚…。ジェラールと同じ、脚が…!!」
『――何、前から決めていたことだ。』
「何が?!どうして!?わけが分からないのだけれど?!?」
ジェラール以上に我が身に起きた事象に驚いているトルテは、驚きのあまり却って言葉がスラスラと出てくるという現象に遭遇していた。とはいえ紡ぐ言葉のまとまりのなさや動詞や修飾語の抜けた文章が、却って如何に彼女が混乱しているかを示していた。つまりは、この場において冷静なのはリヴァイアサンただひとりだった。
だがそのリヴァイアサンは驚き戸惑い慌てふためく若いふたりを尻目に、まるで悪戯が成功した子供のようににっこりと目を細めては言葉少なく頷いてはひとり納得しているものだから、驚きすぎると寧ろ言葉が出てくるタイプのトルテがジェラールの分の気持ちも含めて彼に質問した。
するとリヴァイアサンは心底気持ちが良さそうに天を仰ぎながら、心の奥底につかえていた酷くドロドロとした何かがすうっと消えていった様――長年彼を苦しめていた「本当にこれで良かったのか」「自分のしたことは正しかったのだろうか」という後悔や、信じたくて堪らないくせに同時におぞましく感じていてもいた人間への憎悪、ひいては自らが神として生まれたことの意義そのものへの答えを漸く見つけたような、とても晴れ晴れとした気持ちの良い感覚に浸りながら、長く硬い髭を潮風に靡かせながら口を開いた。
『もう一度信じるに値する人間が現れたその時は、私自身が編み出した、かつて破棄した魔法薬と同じ効果を持つ魔術を人間たちに授けること。そして人魚も人間もそれ以外の生き物も、皆、自分の好きなところで好きなように生きていけるだけの未来を、神ではなく人間に託すこと。
――もう一度信じたいと願った善を、明日を、今度は私自身が信じること。その全てだ。』
リヴァイアサンは尚も天を仰ぎながら、視線だけをジェラールとトルテに向ける。そうして美しい脚を生やした彼女に向かって、全ての海に住まう者の父らしい表情――娘を新天地に送る父親特有のほんの少しの名残惜しさと多大な寂しさと、それ以上の誇らしさと深い愛に満ちたそれをトルテに向ける。次いで一体何事かと海面まで浮上してきた人魚たちへ向けてから、ゆっくりと目を閉じると重力に従って海に落ちていく。
それは神としての力を失ったからではない。漸く叶った悲願に、思わず零れそうな涙を誤魔化すためのわざとらしい滑落だった。それでいて遂に自分の手を離れていく我が子たちに今度こそ気を遣わせないようにと思っての、父親らしいなんとも不器用な愛情だった。大きな波飛沫が立っては街に押し寄せるというはた迷惑な退場も含めて、本当にほんとうに不器用で下手くそな愛情だった。
『――――嗚呼。』
リヴァイアサンはその大きな口から小さなちいさな呟きを漏らすと、満足そうに海の底の奈落に沈んでいく。漸く果たされた盟約に、拭われた過去の後悔に、満足そうに口元に笑みを称えながら沈んでいく。そうやって何処までも何処までも重力に従って沈んでいく中、彼は不意に目を開けるとぼんやりと滲む光と海面を目指して上がっていく泡とに、何かを言いかけて辞める。こんなことを口にするのは野暮だというものだなと、己のどうしようもなさに苦笑する。だが、口に出さずに心の中で思うくらいは言いだろうと、かつて人間によって生命を散らした彼女を想いながらリヴァイアサンは再び目を閉じる。
――嗚呼、愛しい我が子よ。お前の語った幸せな未来は、明るい明日は、迷いに迷った末に選んだラストリゾートによって果たされた、と。
――だから、どうか。新しい世代が紡ぐ新しい鬨の声を、お前も耳を澄ましては聞いてやってくれないか、と。
――そうして。もしお前が、まだあの人間を愛しているのならば。その愛が変わらないのならば、どうかお前と同じ道を歩こうとしているあの若い娘を見守ってやってくれないだろうか、と。
――そうやって。今度こそ果たされるであろうラストリゾートで、どうかお前の愛した男と共に笑ってくれないか、と。




