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24_ラストリゾート(12)



「――――――――――。」

「――――――――――。」


 ただ触れるだけの口付けを終えたジェラールとトルテは、並んで白波立つマレノスタリアの海を眺める。ざざん、ざざんと押し寄せては引いていく、子供の頃から子守唄代わりにしていたその音に耳を澄ませながら、互いに何も言葉を発さない。否、発することが出来なかった。

 それは2度に及ぶ口付けを終えても尚、何ら起こる気配のない現状――死んでみるまで分からないジェラールはともかく、伝承通りならば即座に尾びれは腐れ落ち、海水は毒となり、リヴァイアサンの祝福を失うはずのトルテの身にも、やはり彼同様同様何も起こらないからだった。


「…何も起こらないね?」

「………ええ…。」

 

 ――ざざん、ざざん。

 押しては引いていくさざ波に足先を濡らしながら、ジェラールが困惑と安堵とが混ざり合った表情――まさしく拍子抜け、と言わんばかりの顔を浮かべる。トルテはそんなジェラールに対して彼以上に困惑しつつ、心ここに在らずといった様子で相槌を打つ。それはジェラール同様何も起こらない現状への困惑と戸惑いであると共に、「もしかしたら自分の気持ちは愛などという高尚なものではなかったのではないか?」とつい不安に溺れそうになる感覚と、代々口伝えで伝えられてきた伝承に間違いがあったのではないか、という不信感とが1:1:1で混ざり合っているが故だった。

 しかし、やはり何度自分の胸に問い掛けてみてもジェラールに対する感情は両親や兄、叔母といった親族は勿論仲の良い同年代の友人たちの誰に対しても今まで抱いたことのないものだった。というのも、それは宛ら酸素や水のように、欠乏した瞬間を想像するだけで息が詰まったり喉の渇きを覚えるような生命の危機を感じるような感覚だった。はたまたトルテの知らない交友関係を想像するだけでちくちくと胸が痛んでは無性にイライラしてしまったり、彼がこれまで好きになった女の子のことを考えるだけでどうしようもないくらいに悲しくなったする、はじめての感覚だった。トルテはそれが愛や嫉妬といったものでないとは思えなかったし、尋ねこそしないものの足繁く通い詰めるだけでなくなんの躊躇いもなくキスをしてくれたジェラールの感情を疑いたくもなかったし、疑う余地もないと考える。


 となると、考えられる可能性はふたつ。ひとつは伝承が何処かで歪んでしまったこと。もうひとつは、はじめからなにもかも嘘だったということ。前者はともかく、後者はどうであれ海の主であるリヴァイアサンを疑う行為なだけにトルテは一瞬逡巡してしまった。この海を治めるだけでなく代々人魚を我が子のように愛し、護り、慈しんでくれたやリヴァイアサンを疑うなど、と唇を噛む。それからどうにかして自分の祖先のせいに出来ないかと思考を巡らせるものの、状況証拠から察するにそのふたつ以外の可能性は考えられない現状にトルテは頭を抱えて悩む。

 すると普段あまり使わない頭が頼むから小難しいことを考えないでくれとズキズキと悲鳴を上げたものだから、トルテは思わず呻き声を漏らした。ジェラールは急に頭を抱えたかと思えば、そこが酷く痛む様子のトルテに心配そうに眉を下げると「大丈夫?」と問い掛けつつ、脈を測ろうと右手を伸ばす。反対の左手は鞄の中に常備している頭痛薬を取り出そうと、金具に手を伸ばしたその時だった。


 ――不意に、海が輝く。

 

 それは諸国から『眠らない街』と比喩される夜のデルマリスよりもずっとずっと目映い、まるで春告げ精がその羽から零す鱗粉のような神秘的な光だった。眩しいはずなのに少しも眩しくない、寧ろ心地が良い光だった。それどころか懐かしささえ感じる光だった。もし何もかもを知る全能の存在に、これは胎児が母親の胎内の中で見ている景色だと言われれば信じてしまうくらいにはあたたかな光景だった。それくらいに神秘的で、なのに不思議と懐かしい光だった。光景だった。

 従って、ふたりは不思議とその海面が徐にゆらゆらぐらぐらと揺れる様は勿論、不意にぐぐっとその水面が持ち上がる様や持ち上がった箇所から海が割れていく様、そして割れた海から姿を現した龍とも蛇とも見分けがつかない生き物――尾びれには深海を思わせる青を、頭から尾にかけては北国特有の少し濁った海の色と、南国の海らしい鮮やかなエメラルドグリーンとを美しいグラデーションと共に身に纏っている――を目にしても、少しもそれを変だとは思わなかった。ああ、そういうものなのだとしか思わなかった。寧ろ本能でこれが海を治める神たるリヴァイアサンなのだと察すると、遂に裁かれる時が来たのだと悟った。


「――――彼女を誑かしたのは私です。ですからどうか、貴方様が真にこの海のように広い御心をお持ちの神であらせるのならば、どうか罰は私めだけに。」

「……ジェラール?!」

 

 ジェラールは水飛沫を上げながらその姿を現したリヴァイアサンに、トルテを庇うように1歩前へ踏み出すと彼女を隠す。そして全くの事実無根どころか、どうにかして愛しい人だけは許して貰えないかと大嘘を口にする。それは臆病なジェラールなりの、愚直な優しさだった。トルテへの愛を自覚しているからこそ、自分はどうなっても良いから彼女だけはどうか変わらず穏やかで健やかな日々を送れるようにと願ってやまない、不器用な男の吐ける唯一の嘘だった。

 だが生来の臆病さや気の弱さ故に、あまり気迫はない。加えて頭のてっぺんから足の先に至るまで隠しきれないぐらいにその身体はカタカタと震えているし、その顔は少々青ざめている。紡ぎ出す言葉だけはなんとか気丈だったが、その瞳には宛ら仕留められた野うさぎのように覇気はない。寧ろ漸く込み上げてきた恐怖に染まっていた。もし神たるリヴァイアサンが頷いたら、自分はどんな目に遭うのだろうかと嫌な想像ばかりを脳内で繰り返しては額に汗を滲ませた。

 が、それでも咄嗟にトルテを庇うように躍り出ては自分だけが悪者になる言葉を吐いたのは、ひとえに深い愛情からだった。自分などどうなっても良いという自己犠牲精神――但しトルテと出会う前になんとなく漠然と感じていた無力感や失望感ではなく、寧ろ対極に位置する感情――愛する人のためならばこの身ひとつくらいどうなってもいいと何の躊躇いもなく思い、選択出来るくらいの激しい愛情が故だった。だから身体は細かく震えているし、顔は青ざめていたのだ。――つまりは、何とも醜い痩せ我慢だった。強がりだった。


「……いいえ。いいえ、裁かれるべきはわたしです!海を統べるリヴァイアサン様ならば、全てごらんになっていたでしょう?最初に罪を犯したのはわたしなのです!だから、どうか……どうか、ジェラールのことだけは見逃してください。お願いします!

 わたしなんてどうなってもいいんです。だから、どうか本当に頭が良くって、優しくって、素晴らしいこの人だけは…ジェラールだけは――!!」


 トルテはそんなジェラールに驚きのあまり声を上げると共に、疑いこそしていなかったもののほんの少しだけ不安だった彼の本心を知ると安堵する。それから、この期に及んで安堵などというものをした自分を最低だと軽蔑する。心の中で吐き捨てる。そしてこんな浅ましい自分ではなく、己の中の恐怖に打ち勝とうと足掻くことの出来る彼こそ本当に救われるべき人であり、逆に激しく罰せられるのは何処までも自分が可愛くて仕方がない自身だと感じるとジェラールの肩を押した。

 トルテは競技としての剣術は嗜むものの、実践では何ら役に立っていないがために少々細く頼りないジェラールの肩を、思い切り力を込めて押し退ける。そして尾びれを引き摺りながら彼の隣に並ぶと、自身の胸に手を当てながら思い切り叫ぶ。小動物のように怯え、畏怖しながらも真っ直ぐに神を見据えながら冷静に言葉を選んだ彼とは反対に、そのミモザ色の瞳いっぱいに涙を溜めながら震える声で懇願する。最早哀願に近しい言葉を、声を詰まらせながら繰り返す。

 ジェラールはそんなトルテに、先程彼女がそうであったように驚きのあまり目を見開く。それから再度「違う。僕が――!」と、彼にしては少々珍しく声を荒らげるとその絹糸のような細い声を、ほんの少しだけ怒気を含んだ低い声で覆い尽くす。トルテは初めて耳にするジェラールの低い声に一瞬怯むも、彼とは対象に子供らしいキンキンとした金切り声に近い高音を上げると「いいえ、わたしが悪いです!」と再びその瞳から涙を零した。――ジェラールもトルテも、ふたり揃って自分だけが助かろうとなどしていなかった。ただただ、自分よりも素晴らしい人をどうにか赦して貰おうとするのに必死だった。


『――――――――――――。』

 

 リヴァイアサンはその大きく長い蛇のような身体と龍のような頭からポタポタと海水を滴らせながら、暫し無言でふたりのやり取りを見つめる。輝かしいばかりの太陽と妖精の零す鱗粉のような神々しい光を身に纏いながら、一見すれば醜い争いすら見えるそれを見守る。威厳ある、由緒正しき家系の家長のような厳しい眼差しを向ける。

 が、一向に自分が悪い、相手は無罪だと主張しては終わりそうにすらないやり取り――「もう!どうしてあなたってばそんなに頑ななの?!ジェラールのばか!!」「それは僕の台詞だよ。先に手を出しそうになったのは僕だって忘れてるだろう?」と、どうにも埒が明かないというか、子犬が自分の尻尾を追いかけ回すかの如く永遠に終わらないのではと思えてしまうというか、やはり傍から見たら醜い争いに映るであろう彼らに徐にふっと目を細めると、不意に遥か彼方に位置する頭を下げた。そしていつもジェラールがトルテにそうしているように、リヴァイアサンからしてみれば小さなちいさなふたりの眼前にその顔を突き合わせる。それから優に人間の顔くらいはあるであろうふたつの金の眼でジェラールとトルテとを見つめると、この海など平皿に盛られたスープのようにあっという間に飲み干してしまいそうなくらいに大きな口をゆっくりと開いた。

 そのあまりの迫力と恐怖に、トルテは無論ジェラールも身体を固くする。目の前に迫る明確な死に、思わず声を詰まらせる。――が、トルテは竦む身体でジェラールを庇うようになんとか彼の前に躍り出たし、ジェラールはジェラールで身を呈して自分を守ろうとするトルテの腕を引くと自分の胸の中に閉じ込めてからリヴァイアサンに背を向けた。互いが互いに、どうにかして相手だけでも守ろうと足掻いていた。醜くも美しく、足掻きもがいていた。


『…………ずっと、ずっと待っていたよ。お前たちのような、嘘偽りのない愛を持つ者を――。』


 その様子にリヴァイアサンは眩いばかりの金の瞳をすうっと細めると、薄らと開いた口から彼らを罰する言葉でもなければ食事の前の挨拶でもない、心からの賞賛の言葉を口にするとその大きな口を閉じた。代わりに馬が人に向かって顔を押し付けては鼻を鳴らして甘えるのと全く同じ動作をジェラールの背中に向けて放つと、心底心地良さそうに吐息を漏らした。そうやって空っぽになった肺臓に新鮮な空気を送り込むようにジェラールの頭や背中、ひいては首筋から覗くトルテのエメラルドグリーンの髪の匂いを嗅いでは、満足そうに小さな吐息――リヴァイアサンにとってはなんてことのないただの鼻息だが、ただの人間と人魚にとってはつむじ風のようなそれを吐くと、充分に細まった目を更に三日月のように細める。

 しかしながら、ジェラールは背後から聞こえてくる大きな呼吸音と存在感に、生来の気の弱さも相まって油断したところを頭からぱくりと食べられてしまうのではと心臓をバクバクとうるさく拍動させると、いざという時のことばかりを脳内に思い浮かべる。トルテを陸の方へと突き放してなんとか逃がしてやらなきゃだとか、こんなことになるならばやっぱりオライオンの言う通り普段から小剣くらい帯刀しておくんだっただとか、そんなことばかりを考える。が、そんなジェラールとは反対に海の民であるトルテは本能的にリヴァイアサンの纏う空気が優しく、かつ柔らかなものになったことを肌で感じ取ると、身を捩って彼の首筋と肩口のあたりからひょこりと顔を覗かせた。そしてまじまじと間近で見遣ったリヴァイアサンの表情が酷く穏やかなものであることに気が付くと、ジェラールの背中を軽く叩いては「……怒ってないみたい。」と小さな声で囁いた。

 リヴァイアサンは幾ら小声とはいえども神である自分にとってはハッキリと聞こえてしまうその声に苦笑しながら、未だ彼女をきつく抱き締めては離す様子のないジェラールに向かって彼女に倣って『ああ、そうだとも。私は怒ってなどいないし、お前たちを裁くつもりもない。寧ろ讃えに来たのだよ。』と優しくやさしく声を掛けると、その証左と言わんばかりにほんの少し離れた砂浜にその大きな牙を突き立てると力任せに折った。そうやって折れてしまった牙と、すっかり殺傷能力の欠けてしまった大口を依然としてトルテを抱き締めたままのジェラールの視界の端に映るように見せてやると、もう一度その瞳を三日月のように細める。それから少々困ったような口調で大岩に顎を乗せると、じいっとジェラールを見つめた。


『――どうか私を信じてはくれないだろうか、若者よ。その為ならば私は石を投げられようと、槍で突かれようと構わない。』

「…………………………。」


 ジェラールは刺すような視線にそろりそろりと固く瞑っていた目を開けると、先程轟音と衝撃が走った方角をちらりと見遣る。そして砂浜に突き刺さった大きく太い2本の牙の規格外のサイズと、その牙を失ってまで信用を勝ち得ようとしたリヴァイアサンの行動とに嘘偽りなどない、もとい嘘をつくのにここまでする理由がないことを俄には信じ難いものの理解すると、そろそろと腕を力を緩めた。そしてトルテを解放すると、いつも彼女と語り合っていた大岩に顎を乗せてはゆったりと此方を見つめてくるリヴァイアサンへ恐る恐る近寄った。

 リヴァイアサンは耳に該当する箇所をぴくりと動かしながら、静かにジェラールの行動を見守る。一体どうするつもりなのか、何を言うつもりなのだろうかと好奇心に満ちた瞳と共に注意深く彼の行動とその一挙手一投足を見つめる。大昔の人間のように崇めるのか、或いは本当に石でも投げつけてくるのだろうか、と。

 それも構いはしないだろう、とリヴァイアサンは考える。元々、リヴァイアサンにとっては人魚との盟約自体最後の賭けだったのだ。大昔に自身が犯してしまった、もとい力不足故にどうしようも出来なかった悲劇への贖罪だったのだ。つまりは事情はどうであれ、人間と人魚を試したことに変わりはないのだ。恨まれ、刺され、殺されても文句は言えないだろうと思っていた。――が、そんなリヴァイアサンの思考とは反対に、漸く現れたふたつの種族の架け橋になり得るかもしれない青年は、怯えながらも神に向かって手を伸ばすと、痛々しい亀裂の入った牙を見つめながら予想だにしていない言葉を履いたのだ。


「…………これ、ちゃんとくっつくかな…。」

『――――――はは。ははは……!!』


 リヴァイアサンは神でありながらも想像すら出来なかったジェラールのひとことに、自然と込み上げてくる笑いを隠そうとはしなかった。寧ろこんなにも愉快な気持ちになったのは何時ぶりだろうかと考えさえした。次いで人魚と人間、双方から恨まれ、憎まれ、殺されても仕方がないと半ばどころか大いに諦めていた自身を恥ずかしくさえ感じると、大きな尾びれをゆらりゆらりと揺らしながら口を開いた。


『何、直ぐに生えてくる。気にするな。――それよりも、気が遠くなるくらいの時間、君を待っていて良かった。……本当にほんとうに、良かった…。』


 リヴァイアサンはそう告げると上体を起こす。そして何故笑われたのか理解出来ずに呆然と佇む美しい朝焼けと夕焼けの色をした彼と、それをやはり理解出来ずにぽかんとしながら見つめてくるエメラルドグリーンの彼女とに交互に頬擦りした後に、再度ゆっくりと口を開いた。

 『嘘をついていて済まなかった、海の娘よ。そして陸の青年よ。――呪いなどありはしない。安心しなさい。寧ろ私は海を治める神として、そしてそこに生きる者たちの主として、お前たちふたりの真実の愛を歓迎しよう。』『そして、どうか謝罪させて欲しい。お前たちの愛のみならず、多くの人間と人魚の愛を試してしまったことを。……そして理解して欲しい。そうするを得ざれなかった弱い私を。』と。

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