02_浅海のルミナス
仮にあの女性を見掛けたとしても、決して話しかけはしない。ただ遠くから本当に人魚なのか、それとも人魚に憧れる人間なのか確かめるだけだとジェラールは何度も何度も自身に言い聞かせながら、いつも自宅から見ているあの海へと再度足を運んだ。穏やかな波の音、鼻腔を擽る潮風の匂い、カモメ達の鳴き声――今日も世界は、日常は、何ら変わらない。昨日までの延長線上にあると、ジェラールはどこか安堵しつつ吐息を吐く。そして遠くに見える地平線を望みつつ、海と陸の境目に鎮座するあの大岩へと向かった。
大岩も、昨日までとなんら変わらない様相だった。押し寄せては引く波を一身に受けつつ、その岩肌で苔や小さな貝の類を庇護してはただただ無言で春の柔らかな陽射しに照らされていた。そこにあるのはいつもと何ら変わらない日常だった。まるでつい先日出会った女性との邂逅など夢か幻だったかのように、静かに無意識に気落ちするジェラールを見つめていた。
ジェラールはそうだよな、と小さく呟く。あの女性が本当に人魚ならば、1度人間に見つかった場所は避けるだろう。何しろ人間は海を汚すだけでなく、大昔には『人魚の肉を喰らうと不老不死になる』だなんて医学的根拠のない噂話を真に受けて、彼らを狩った過去がある。流石に医学と魔法が進歩した現代においてはその迷信はすっかり過去になったものの、今度は品のない金持ちがその美しさに魅入られ、金に困っている貧民や下劣な裏社会の人間を雇っては密猟し、観賞と称して狭い水槽に閉じ込めているという。
ほんの少し姿かたちと思想と生き方が異なるだけで人間と人魚も須らく同じ生命だと考えているジェラールは、彼らの権利を侵害するだけでなくまるで玩具のように扱う輩をあの女性と出会うよりも前から心底軽蔑していた。けれど人魚という種族にとっては個々の思想など関係なく、人間というだけでただの『敵』なのだから、警戒して姿を見せないのも当然かとジェラールは少しだけ落ち込む。そしてどうか遠目でも構わないから、もう一度あの南国の美しい海を思わせる綺麗なエメラルドグリーンの髪を見たかったなと、ひとり眉を下げた。
とはいえジェラールは、もしかしたら亜人の中でもひときわ容姿に優れる人魚という種族に憧れているだけの、ただの人間の少女かもしれないし……と自身に言い聞かせると、心の隙間に入り込んできた冷たい海風から身を守ろうと肩を縮こまらせる。心底残念だと思う気持ちに無理やり蓋をして、その代わりに願わくばどうか、あの女性が同じように冷たい海風に風邪でも引いていませんようにと願いながら大岩に背を向けた瞬間だった。明快な、まるで南国と真夏の太陽を思わせる声がジェラールの鼓膜を震わせた。
「――――待って!」
その声に、ジェラールはぴくりと肩を震わせた後におそるおそる振り返る。そうして、とうとう幻聴が聞こえ始めるくらいにはどうやら自分の精神というものは摩耗しているらしい、と咄嗟に思考しては、少し皮肉めいた笑みを浮かべながら北国らしい少しくすんだ色の海を見つめた。けれど散々見慣れている筈の、昨日までの延長線上にあるはずの海の上にぽつんと、ひとつ。昨日までとは違う日常であることを示唆する、美しい新緑の色をした何かが海面から顔を覗かせていた。そしてそれは目を凝らして確認するまでもなく、数日前に大岩の陰で出会ったあの女性だとジェラールはすぐさま気が付くと目を見開いた。無意識に、唇が開いた。
すると声の主であろう、若葉色の髪をした彼女はやはりあの日のようにくすくす、けらけらと明るい声を上げながら笑顔を覗かせると、こちらへ向けてスイスイと泳いできた。次いでその勢いのまま、海と陸との境界線――ジェラールの眼前にまで臆することなく近寄ってくると、惜しげなくその髪の色と同じ色の鱗で覆われた下半身をひんやりとした冷たい砂浜の上に晒した。そして砂浜からジェラールを見上げると、彼の心配を余所ににこりと笑った。
「……やっぱり。この間の男の子だわ!」
「ぇ、あ…その、えっと…。」
「――もしかして、わたしのこと覚えてない?」
「いや、覚えてる!凄く覚えてる!覚えすぎて、夢にまで見たくらいだ。凄く綺麗だったなとか、本当に人魚だったのかなとか、それなら偶然とはいえ悪いことをしちゃったなとか。――ああ、でも安心して。海の神様に誓って、君を見たことは誰にも言っていないから。密猟者に売ったりなんてしていない。かといって、自分が密猟者になる気もない。ただ、どうしても君のことが気になって、今日は来ただけなんだ。難しいとは思うけど、どうか信じて欲しい!」
満面の笑みと共に人懐っこい顔で話し掛けられるも、ジェラールは夢にまで見た再会に頭が真っ白になると唇からは意味を成さない音節ばかりを零してしまう。それから息継ぎすることなく弁明する。そんなに慌てては却って怪しまれるのではいうくらいに早口で彼女を覚えていることに加え、一瞬で心奪われたことを吐露しつつ人魚を見たことを誰にも告げていないこと、自分は密猟者ではないこと、どうか証拠らしい証拠などないものの信じて欲しいことを矢継ぎ早に告げると、両手を合わせた。
すると自分と出会ったことを責めるわけでも口封じするわけでもなく、単にあの時の人間だと確認するために声を掛けた彼女はぽかんと目を丸くする。それから前回同様、相変わらず必死すぎるが故に最早コミュニケーションを放棄しているジェラールに口元を歪ませると、やっぱり腹を抱えて大笑いした。
今度はジェラールがそんな彼女に目を丸くすると、心の底から驚いた。と同時に、2度も見知らぬ人に笑われてしまうだなんて、自分はなんて情けないやつなんだとガックリと肩を落としては落ち込んだ。それからそんな彼の様子にさえも肩を震わせながら笑う彼女に、ジェラールはよく笑う子だなと頭の片隅で考える。次いで笑った顔は綺麗なんじゃなくて可愛いんだなと気がつくと、ついつい彼女につられて笑ってしまった。
――――――
「……それじゃあ、改めて。あなた、この間の男の子よね?」
「う、うん。……君も、この間そこの岩陰で休んでた人魚…だよね?」
「ふふ、正解!」
笑いの波が落ち着いた後に、ジェラールは他の人間――目を光らせている密猟者や、密猟者でなくとも口の軽い人間に見られていたらまずいから、と前回彼女と邂逅した岩場の陰に場所を移してから、改めて真正面から顔を見合わせた。とはいえどうにも弱気な上に臆病なジェラールは彼女の目を見ることが出来ない。そのため、海面の下でゆらゆらと揺れる尾びれに視線を向けながら、必死に落ち着け、冷静になれと自身に言い聞かせては慎重に言葉を選ぶ。反対に人魚の彼女はやはり臆することなく、それどころか堂々と――それでいて彼との出会いと再会とを楽しむように、声に喜色を滲ませながら軽くウインクしてみせると尾びれを持ち上げた。
「普通、人間といえば人魚を目にした瞬間、目を輝かせるものなのよ?なのに、あなたときたらどういうわけか自分が慌てちゃって!もう、それがおかしくっておかしくって!!それでね、興味が湧いてきたの。……だから毎日、ここであなたを待ってたのよ。また会えたらいいなあって。」
「ま、毎日?……それは…ごめん。…もう少し早く来るべきだった…よね……?」
「ううん、いいのよ。わたしが勝手に来てただけだから。気にしないで?」
いつもの癖で、つい謝ってしまうジェラールに彼女は首を振る。それからやっぱり今まで見てきた人間とも、実際に人間に捕まった仲間の語る人間とも違うジェラールにますます好奇心が湧くと、思わず身を乗り出した。そして「――ねえ、それよりもあなた!本当にわたしのこと、捕まえたいって思わないの?」と目を輝かせながら問いかけた。ジェラールは急に近くなった彼女との距離に咄嗟に溢れ出る緊張感だとか、恥ずかしさだとか、追いつかない心だとかに顔を赤らめると口を酸欠の魚のようにパクパクを開いては閉じる。次いでぎこちなくも頷くと、しどろもどろな答弁を口にした。
「う、うん。寧ろ僕は、人魚を捕まえるのは良くないことだと思ってる、よ。……人魚は人間と少し姿かたちや思想、生活の様式が違うだけで、同じ高等生物だ。捕まえたり、食料にするのは間違ってる…と、思う…。」
「なら、何があっても絶対にその一線は超えないって。途中で心変わりしないって、海の神様――リヴァイアサンに、誓える?」
「も、勿論!……でも、どうして…?」
ジェラールは不意にそう問い掛けてきた彼女に対して必死で頷く。その傍ら、自分のせいではないものの過去から現在にかけて人間が人魚にしでかしてしまった罪の大きさを思えば、リヴァイアサンに誓うくらいじゃ足りないかもしれないなと思いつつその素直な胸の内を吐露した。彼女はそうやって唇を動かしつつ、尚も自分のせいではないのに頭を下げては謝る彼を厳しい審査の目であちらこちら、様々な角度から見遣った後に、そうっとジェラールの頬に手を伸ばすと優しく触れた。そして彼の顔を覗き込みながら目を細めると、満面の笑みを浮かべながら尾びれをゆらゆらと揺らした。そして相変わらず臆病が故に目を合わせられないジェラールを尻目に、大きく頷くと明朗な声を響かせた。
「あなたとお友達になりたいから!!」
「……ともだち…?」
「そう、お友達!」
予想もしなかった言葉にジェラールは再び目を見開く。そして驚きのあまり、羞恥心さえも忘れて彼女をじいっと見つめた。というのも、まさか海神リヴァイアサンに心変わりなどありえないと誓ってまで一体何を言わされるのやらと少しばかり気構えていただけに、その何とも力の抜ける言葉に驚くと共に毒気を抜かれたからだった。加えて、どうにも上手くいかない自身の交友関係――最初は皆、口下手で臆病で引っ込み思案な自分に気を遣ってくれるものの、次第にちっとも変わりはしない現状に呆れて去っていってしまう――を思い出しては、胸が痛んだ。そしてどういうわけか彼女にとってはたいそう面白い人間に見える自分という男が、本当は如何につまらない男か知っているが故にすぐに断ろうとした。
が、そう言っては彼女は期待に満ちたキラキラとした瞳を惜しげもなく、あまりにもまっすぐすぎて困るくらいに向けてくるものだから、ジェラールはきっと断ったらこの笑顔まで消えてしまうのでは、と咄嗟に危惧してしまった。そして込み上げてくる罪悪感に視線を彷徨わせた後、了承の代わりに曖昧な笑みと共に頷くことで返答とした。――要は、女子供を泣かせるようなことがあってはいけないという厳格な父親の教えと気の弱さ、それから想像力豊かなジェラール自身の性質も相まって、断りきれなかったのだ。弱気な自分がまた、顔を覗かせたのだ。
「――嬉しい!ありがとう、ええと…ああ、そういえば自己紹介がまだだったわね。わたしはトルテ。ご覧の通り人魚よ。あなたは?」
「僕は、…ジェラール。見ての通り人間で、それから、……一応は医者の卵、…なのかな。……うん。」
「――ジェラール。ジェラール、ね。うん、ちゃんと覚えたわ。ありがとう、ジェラール!!」
けれど、そうやって彼女の申し出を受け入れた後に咲いた満面の笑みに、ジェラールは気弱な性格も案外悪くはないんじゃないかなと密かに苦笑する。寧ろ生まれて初めてこの性格に感謝すらした。それくらいに彼女の笑顔は眩しく、そして尊かった。だというのにどうにも直視出来ない上にやや心拍数が増すものだから、ジェラールはおかしいなとひとり上質なシャツの裾を握り締めながら深呼吸しては現実逃避する。そうやって努めて冷静に、普段通りにと心を落ち着かせつつ互いに少し遅くなった自己紹介を済ませると、彼女――トルテはジェラールの頬からパッと手を離すと、嬉しそうにその場をぐるぐると泳ぎ回った。人間が泳ぐのとは違う、優雅で優美で美しい回遊にジェラールは暫し息を忘れる。それから比較的厳格な家で育った彼には俄に信じ難い、なんとも自由なトルテに呆気に取られた後に、どうか彼女が自分に愛想を尽かすその時までは誰にも言えない秘密の交友関係を精一杯楽しもうと心に決めると、暫し名前まで甘い彼女の遊泳を岩の上から眺めた。




